通りがかりに立派な町家を見付けて散策した「才」という少し変わった名前の集落。聞いたことはあったが全く初めての散策。
【追記】
2月27日再訪時の写真を追加。27日分の写真は☆印付き。
再訪はスマホ撮影です。
2021年2月23日撮影
使用カメラ:SONY α7RII
使用レンズ:Voigtländer ULTRA WIDE-HELIAR 12mm F5.6 ASPHERICAL III
才郵便局辺りの室津道沿いに東を見る。
大きな町家、屋敷、元商店。大変栄えた村だったのだろう。近くに山が見え、どちらかというと農村だろうか。
集落は左だが、まずは室津道沿いに右(東)に見える町家に向かった。
本瓦葺きの立派な町家。
黒漆喰に虫籠窓。明治末くらいまで遡るであろう、上質な町家である。玄関部分は桟瓦で昭和初期くらいの後補のように見える。
隣の町家。
軒の高さから考えると、大正か昭和初期だろうか。蔵もあって、外壁に銅板が張られた上質な町家。
近くには、大きな一枚板の戸がある門もあった。
尋常ではない上質なものだ。
西に戻り、村に入る。
その前に、才天満神社にあった才村についての解説を。後ほど神社にも行くので神社の説明もお読みいただきたい。
網干と同じく相給の地。後ほど分割統治されていたことの証しも出てきます。
集落の東端に位置する蔵。標柱には「旧室津街道 札場跡」とある。
神社のような彫物に大きい戸。屋台蔵だろうか。
側面を見ると、立派な土蔵造り。屋台に土蔵造りは必要ないと思うが。屋台蔵ではないのかな。
裏に回ると、隣接の古民家と一体化している。蔵の素性がよく分からない。
最初の写真の左に見えていた屋敷の左にも立派な屋敷がある。
本瓦葺き。
屋敷右の倉庫棟?
屋敷前に水路があり、かつては舟で荷物が運ばれていたのだろうか。路地の奥には寺もある。
徳圓寺(浄土真宗本願寺派)
裏に回ってみる
今は溝だが、元は小舟くらいは通る水路だったのかもしれない。
寺には蔵もある
銅板張りの土蔵。
足元の石垣も気になる。
切り込みハギ。ブロック状に加工するより手間が掛かっていると思う。石も建築散策の見どころの一つだ。
振り返ると、昭和初期くらいの古民家の塀に擬木がある。
こういう物は、左官の仕事。散策の目を楽しませてくれる。
土台がコンクリートなので古い物ではないと思うが、面白い造作だと思う。
写真には写っていないが、母屋の屋根には鍾馗さんが居る。
これも、立派。
見た目だけの判断だが、明治の母屋に昭和初期の二階建て増築という感じ。
粋な窓のある土塀も雰囲気があって良い。
短い長屋門?の屋敷
まるで京都府内のような良い雰囲気がある。
これも凄い!
母屋も蔵も軒下が段蛇腹で銅板張り、更には門の戸板が一枚板。よく見ると門の樋は竹を模した銅製のもので、造形が目を楽しませてくれる。上質な材をふんだんに使った素晴らしい建物だ。
☆
先に見たコンクリートの擬木や金属の擬竹も建築散策の愉しみの一つ。
茅葺トタンハウスもある
農村らしい雰囲気も残っている。
こんな風に街並み散策をしていると、犬の散歩途中の方に声をかけられ
あっちに行ったらもっといい屋敷があるとか神社があるとか、色々教えていただいた。
その中に分割統治の話があって、集落には郷蔵が二つあるという。
その一つがこの「才緑蘇会館」
外は直しているが、江戸時代の建物だという。
事実なら貴重な文化財だが、姫路城のある姫路市ではこのような小粒の建築はほとんど見向きもされない。
この良い雰囲気の街並みも埋もれたままひっそりとしている。
もう一つの蔵は札場跡の蔵という事だが、もし江戸時代の姫路藩領のものなら固寧倉の遺構の可能性があるのではないか?
教えてもらった神社に向かう
長~い長屋門のある屋敷。向こうに見える山のふもとに神社がある。
母屋は本瓦葺きの古いものが残っている。古い建物の現存率も凄く高い。
才天満神社
播磨地方は力石がある神社が多い。播州龍野が相撲取りの元祖、野見宿禰の死没地とされ野見宿禰神社に祀られており、相撲になじみ深い土地柄だ。
由緒
焼失後、昭和58年再建。新しい。
拝殿に対して石柱と灯籠が斜めに配置されているのは何故だろうか。
拝殿の鬼瓦は獅子頭
下から見上げると目が合うように下向きに取付けてある。古びた彫物の造形も素晴らしい。これは昭和58年よりもっと古ように見える。
絵馬も古いようなので、拝殿は焼けなかったのであろう。
神社に立ち寄ると、狛犬ウォッチングも愉しみの一つ。
時代による材質や姿形の違いがあって見比べると面白い。
作者の力量やクセもあって千差万別だ。
阿形
前は45度の角度で撮影すると顔が正面を向き、前身の様子も大体わかる。
後部は真直ぐ後ろから写すとしっぽが正面になる。45度で写しても良いだろう。
吽形
製作は文政4(1821)年。古い!
材質は砂岩系で、明治頃までは墓石にも多用される高級石材だったようだ。
右に小さな祠
何の神様か、扁額などの表示が無く不明。
灯籠を見ると文政6(1823)年と読める。
古くから祀られた祠のようだ。
この色は竜山石だろうか。
高砂市原産の石材で、古墳時代には石棺に、江戸時代には姫路城の石垣、昭和初期まで建築石材として人気が高かった。
しかし何故、牛か馬を繋ぐ金具がこんな所にあるのだろうか?
左にも祠がある
ここにも牛繋ぎが・・あぁそうか、旗竿差し。成程ね。
こちらの狛犬は明治40年代の製作。先程のものと造形の違いを楽しんでみてください。
阿形
吽形
境内にはこんなモノも・・
立派な台座に鳥居?
台座の銘に昭和9年とある。銅像でも作ったのではないか。そしてすぐに戦時供出されて、再建ではないけど何か造ろうかと・・・
あくまで想像だが。
※コメントでご指摘いただきました。伊勢神宮への「遥拝壇」の可能性もあるそうです。
七ツ石
蘊蓄は説明板で。
天神さん定番の牛の像
大正5年建造。造形が精緻で素晴らしい。大正時代は建築や工芸の材質も職人技も史上最高に達した時期だ。
牛の後ろにある、これは何だろう?
木製のようだが、切り株をくりぬいて甕のようなものを造ったのか??壊れているが、これを造るのはものすごく大変だったと思う。
そんなこんなで、これで散策は終わり。後で地図を確認するともう一つ寺がある。もう一度踏査したいと思う。
【追記】
早速再訪し、もう一つの寺「随應寺」へ。
随應寺は山裾にあり、才天満神社からの経路上には・・・
☆
竹林があり、山里の雰囲気もある。
そして、山門
☆
小さいけど、これが山門だろう。
本堂
☆
☆
こじんまりとした建物だが、山を背景にした落ち着いた雰囲気が良いと思う。
境内には再建の、お稲荷さんがある。
神仏習合の名残りだろうか。
播磨では神仏分離令は緩やかにしか守られず、廃仏毀釈の話も殆ど聞かないように思う。
網干の話ではあるが、
魚吹八幡神社の神宮寺は明治の末まで神社境内にあり、破却されずにすぐ隣に移築されて今なお現存している。
大覚寺の境内には寛永12(1635)年に建てられた荒神社がある。
墓地に古い墓石があった
☆
☆
漢文の解読は出来ないので内容はよく解らないが、文政12(1829)年の銘があり、お寺の歴史も才天満神社同様に古いと思われる。
地図で調べてみますと、この小さな鳥居はほぼ伊勢神宮を指しているようでした。銅像ではなく、元々伊勢神宮の「遥拝壇」として作られたのかもしれませんね。私の観察不足かもしれませんが用途を示すような表示は無く、昭和9年という製作年と願主の連名があるのみでした。