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美酒を求めて三千里

お酒に纏わる話を中心に 姉妹が日々を綴ります

スーザン・ソンタグ 『他者の苦痛へのまなざし』

2010-08-15 | 小ネタ
恐らく20世紀の女性思想家として、
後世に名を残してゆくであろうスーザン・ソンタグが、
亡くなる一年前の2003年に出版した著作である。

戦争写真に代表されるような、写真に写し出されている他者の苦痛を「見る」行為とは何を意味するのか、
自身が著した過去の写真論に対する補足と修正を加えつつ、考察している。

海外のニュースを見ると、
日本では決して流れないような衝撃的な映像がニュースで流れる。
レストラン内に備え付けのTVニュースを観ながら、
人々はビールを飲み交わし、ぱくぱくディナーをほおばりつつ、「酷いね」と言ったり言わなかったり。

まなざしを向けるべきなのか?
目を背けるべきなのか?

恐らくソンタグは、どちらに対してもYesでありNoであると言うだろう。

「われわれが他の人々とともに住むこの世界に、
人間の悪がどれほどの苦しみを引き起こしているかを意識し、
その意識を拡大させられることは、それ自体よいことである」

と、悪に対して健忘状態になる者を彼女は批判する。
つまりこの意味で、「まなざしは向けられるべき」である。

一方、過去の写真論も踏まえ、彼女は、ショックに対する慣れが同情を麻痺させるという点に触れる。
「写真にたいする反応がすべて理性や良心の指揮下にあるとはかぎらない」と、
まなざしを向けるという行為が、
時に忌まわしいものを見ることに対する誘惑力によるものであることを認める。

それでもなお、本著において、彼女は「まなざしを向け<続け>る」ことを求める。
「目を背けたくなる」という本来当たり前であるはずの葛藤が、喚起されることを前提として。
その前提が成り立つために、「まなざしを向ける」=「真摯に向き合うこと」という態度を求めて。

先にテレビを流しながら食事をする場面に関して触れたが、
ソンタグがTVを批判し写真に期待を寄せるのも、
写真の方がこのような態度を引き出しやすいという理由からである。

そして、いつでもこのような態度であれば、
何度同じ写真を見ても、自動的に感覚が麻痺することはないと、
まなざしを向ける者の誠実性に対する期待を、彼女は捨てずにいる。

と同時に、
ソンタグは写真を見ることの道徳的限界についても述べる。
どの写真にも、撮られる者と、撮る者と、見る者と、三者三様の文脈があり、
決して写真はそれらのストーリーから逃れられることはできないという。

戦争が遠くにある<われわれ>、
どんな戦争も抽象的な「戦争」として反対を叫ぶことのできる<われわれ>が写真を見てが感じる苦痛は、
真の意味での感情移入ではない、とソンタグは断じる。
写真による葛藤、痛みは、行動への導火線の役割以上でも以下でもない。
それを踏まえて、それでもなお、
上記の仕方で、まなざしを向けることが求められているのである。

「われわれは知らない。
われわれはその体験がどのようなものであったか、本当には想像することができない。
戦争がいかに恐ろしいか、どれほどの地獄であるか、その地獄がいかに平常となるか、想像できない。」

彼女が晩年コソヴォへの空爆に賛意を示したことも含め、
考えさせられる著作である。

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