なんでも評論家

さまざまな分野についての評論・エッセイ等を書き綴る。
(大切な目を傷めないために、一定時間ごとに目を閉じましょう)

エッセイ

2011-01-29 | Weblog
 かなり前に放映されたNHK特集の「脳と心」という番組で、アルカー延命財団なるものがあって、死後脳か全身を冷凍保存して、将来技術が進歩したときに生き返らせるということだった。もしもそれが可能なら、保存している死体は生きているということになる。死は不可逆過程なので、死んだのなら蘇生は不可能だ。というよりも、蘇生できなくなった時点で死んでいるのだ。

 ついでに書かせてもらいますが、仮に未来に遺体が蘇生できるようになったとしても、その生き返った瞬間から老化が始まるのだ。これは、物理学的な定義とは異なるかもしれないが、エントロピーの法則に逆らうことはできない。老化の速度を遅らすことができるだけだ。死体よりも老化の進んだ人間(?)とはどんなものだろう。

 投票率の低下について

 投票率の低迷を批判するのなら、投票というのは権力行使の一種なのだから、自己主張を嫌う。出る杭は打たれる。村八分にする。島国気質。郷に入ればなんとやら、といった風潮自体を批判するべきだろう。こうした行動特徴が習慣化してくれば投票行動にも影響を及ぼすのは当然だ。これが日本の伝統文化なのなら、これ自体が選挙に不向きだと考えることもできそうだ。立候補するのも年寄ばかりで年寄にしか投票できないし、当選してもしょせんは党や長老のイエスマンか、業界の利権を代表する族議員になるくらいしかなかろう。こんなんで若い世代の投票率が高くなれば、むしろ不思議なことだ。

 格闘家は公安委員会の管理下に置くべし

 格闘技を習得した上級者やそれを指導する機関については、免許証のように公安委員会その他の公的な機関の管理下もしくは監視下に置くべきだ。身体そのものが凶器になるからだ。じっさいこうした人たちが組員の供給源になっている実態がある。

 光陰矢の如し

 とくに年を取るほど時間の経過が早く感じられる。これには様々な理由が考えられるが、時間の経過の不可逆性が最大の理由ではないかと考える。

 サバン症候群

 動画で、「世界仰天ニュース─前世の記憶を持つ幼児・盲目の超能力者」を見た。信憑性に疑念を抱くコメントが散見されるが、もしもこれが本当なら、どちらも出現の機序としてはサバン症候群かこれに近い可能性が高い。前者は天然型のサバン症候群であり、後者は未熟児網膜症かその遠因の可能性である酸素の供給過多が関与しているのではないかと思われた。英国人でやはり未熟児網膜症で盲目のジャズピアニストでサバンのデレクさんとの共通点が多いし、サバンの才能には、こうした超能力みたいなものが散見される。ピアニストのリヒテルも予知能力みたいなものを発揮していたらしい。彼自身境界級の発達障害だった可能性もある。
 これに類する、超能力みたいな不思議な才能や前世の記憶とかそれに基づく生まれ変わりのような実話も、その大半はサバン症候群と似た機序で出現しているのではないかと類推する。未熟児への酸素供給は失明の危険を増大させるので、生後失明する未熟児は減っていると思われるが、それに比例してこうした半ば後天的なサバンの持ち主は減っているだろう。

 日本を良い国にするために・・

 我が国を優秀で住み心地の良い国にするための提言を列挙する。

1別項にも書いたが、人口に占める低能力者を減らして平均偏差値を上げる。人間の潜在的な能力はほとんど先天的であるため、優秀な親ほど多産になり、低能力の親は少子化するにはどうすればいいか検討すること。いじめや虐待その他の問題行動を減らしていくためにも、これに勝る方法は存在しない。すくなくとも、低能力者ほど多産であるという現状だけでもなんとか阻止すべきだ。

2男女の産み分けというと、受精後好みでないほうの性別を破棄することと解釈されるので、精子分離技術のさらなる高度化と安全化と低価格化と、それに伴う普及を進めていくこと。Y精子のほうが受精しやすいという特性が、どれほど社会と経済に損害を与えているのかということについて、多くの人たちは気づいていないか見て見ぬふりをしている。精子分離技術を普及させて我が子の性別の選択を親の自由意志に委ね、後は市場原理に任せるべきだ。女の子の人気が高いので人口比は男<女となっていき、社会全体に好影響を及ぼすだろう。男の数が少なくなるので男の価格も上昇していくだろう。
 1についても同様だが、これは人類全体にも当て嵌まる事情だ。人類全体の適正な男女の人口比率として、1対2、すなわち、男が女の半数という数値を掲げておく。国連の目標値として設定してもいいくらいだ。

3格差をある程度許容すること。個人間の能力格差はほぼ先天的であり、何をどのように工夫しても永遠になくならないだろう。この現実を見て見ぬふりをするのをやめ、優秀な人たちにいかに活躍してもらうかを考えること。同時に、教育次第で人間を変えられるという幻想を抱かないこと。

4「貧しい人たちは幸いだ。」というような、倒錯した精神から卒業すること。貧困がある程度必然的だった時代ならともかく、お金儲けや資産拡大が精神の堕落を招くというようなおかしな考え方は捨てるべきだ。利己主義と利他主義が矛盾しないように、拝金主義と精神主義とは矛盾しない。




 JRへの提言

 鉄道愛好者が増えているらしいというのをしばらく前から耳にするが、あまり実感がないし興味もない。が、そのことはともかく、ここでJRへの提言を書くことにする。
 上の写真は、だいぶ前に車両工場を見学したときにこの電気機関車の3mくらい前から撮影したもので、その迫力と威圧感には凄いものがあり、恐怖すら感じた。EF58と並んで、あらゆる車輛の中で最もデザインの優れた傑作と感じる。今でも現役で走行しているのか、詳しいことは知らないが、これほど恰好のよいボディーが廃車にされてしまうのはじつにもったいない。で、台車やモーターその他の機器は最新型で、ボディーだけはEF66のを使用した新型の電気機関車を製造してもらいたいものだ。EF58は車軸が10本もあるので難しいと思うが、66型なら可能な筈だ。
 どうもJRに移行してから、カラフルになり、壁面にマンガを塗装するなど、ちゃちでおもちゃっぽくなってしまった印象だ(外国の鉄道車輛も同じ印象だ)。私のような玄人筋(?)の愛好者にとっては、国鉄時代のデザインのほうがいい。
 鉄道模型なら購入できるが、やはりあの迫力と重量感は本物でないと出せない。模型には模型ならではのおもしろさがあるが、ぜひ本物の車輛として今後も末永く活動してもらいたいものだ。

 もし生まれ変わるのなら

 「もし生まれ変わるとしたら、男か女か、どちらがいいか?」という問いがある。まず、遺伝情報は今のままで性別だけ変わった場合のことなのか。それとも、理想的な人間なのかにもよるだろうが、やはり男のほうがいい、というよりも、この言い方は正しくない。男でないと困るのだ。もし女に生まれたら男を相手に結婚なり性交なりをすることになる。考えただけでぞっとする。
 子どもを持つならどちらの性別が良いか? これは、別項にも詳しく書いたことで重複してしまうが、男はハイリスクハイリターンである、ただ現代では、供給過剰による価格下落によって、ハイリスクローリターンに近くなっている。女のほうがいろんな点で安全である。

 嫌味な稲作農家

 かつての知り合いの稲作農家で嫌味な奴がいた。彼は農家でない私に、事あるごとにこんな嫌味を言っていたのだ。
 「あんたは農家でなくていいねえ。農作業ってたいへんなのよ。あんたもいっぺんやってみなよ。どれだけたいへんかわかるだろう。」だとさ・・・!
 訊いてもないのに、延々と不満をぶちまけるのだ。そんなに嫌なら農家など辞めてしまえ。なんで農家でもないのに、農作業のたいへんさを体験しないといけないんだ? ほかにも過酷な労働など山ほどあるだろう。おまけに、「あんた日本人だろ。日本人なら米食えよ」だとさ。消費者を脅迫するのだ。こんなことをして米の消費が増えると考えているのか? 腐脳症だ。
 こんな奴とは二度と関わりたくない。

 てめえら茶髪なんかにすんじゃねえぞ!

 とくにサッカー選手に多いので気になる。とくに男の茶髪には嫌悪感がある。ところが、この問題を経済(学)的に考えてみると、むしろ茶髪人間が増えたほうが、われわれのような黒髪の価値が上昇するのだ。極端な話が、日本人の大多数が茶髪にしたとすれば、それは そこらに散乱している石ころのようなもので、茶髪の印象自体がなくなってしまうだろう。それだけ黒髪の価値が上昇し、羨ましがられるようになるだろう。
 ということは、茶髪にしている人たちは、自分たちの価値を高めるためには、茶髪人間の数が減ったほうがいいのだ。黒髪人間にとっては、茶髪族が増えれば増えるほど自分たちの存在価値が上昇するので喜ばしいのだ。おかしな話だが、黒髪人間たちは、周囲の人たちに対して、茶髪にすることを推奨して茶髪人間を増やすことを考えるべきで、茶髪のひとたちは、周囲の人たちにできるだけ茶髪にしないようにしたほうが得なのだ。だから、茶髪の人たちは周囲に対して、「てめえら、茶髪にすんなよ!」と言うべきなのだ。

 
 ライオンとハイエナ

 ブチハイエナのほうがライオンよりも噛む力が強いらしいが、比較は難しい。ハイエナは奥歯の三角形状の骨砕歯で骨を噛み砕くらしいが、ライオンは恐らく奥歯は使わないだろう。戦闘時はどちらも前のほうに生えている牙を使うだろう。奥歯のほうが梃子の原理で圧力が強くなるのだ。ということで、ハイエナの噛む力というとき、どちらを指しているのかで違ってくる。
 身体の大きさに対する比率で比較すれば、ほぼ確実にハイエナのほうが強いだろう。

 ブチハイエナと人間との類似性

 どういうわけかたいていの哺乳動物には陰茎骨があるのに、人間の雄とブチハイエナには陰茎骨が無いらしい。このほか、ブチハイエナと人間も女性優位という点でも類似していると書いてあるブログも読んだが、これは、当たっているかどうかはともかく、その背景と特性がまったく異なるのだ。詳しく説明したいが、長くなるので省略する。

 遺伝子のデザインの可能性

 将来、自分の子どもの遺伝情報を親の好み通りに設計して、高い知能・強い耐病性・長寿命・長身・優れた運動能力・才能・美貌等々といった特徴を持った、希望通りの子どもが生まれてくる時代が来るかもしれないという。もし実現し、副作用その他の問題が無ければ私は反対しない。じつは、これに準じることはすでに行われていて、父親が伴性劣性遺伝病の患者の場合、男女の産み分け技術によって男児を生めば伴性劣性遺伝子は駆逐され、正常な遺伝情報のみが遺伝する。ただし、母親は正常でなければならない。これも広義の遺伝子操作のひとつだ。
 すくなくとも検討の余地は十分あるが、残念なことに、技術的には想像外に困難だろう。身体上の特性、たとえば背が高いなどの特徴は、特定の染色体内の遺伝情報だけではなく、何本もの常染色体が関与しているらしいのだ。したがって、どこかの染色体内の特定の遺伝情報を変えただけで実現できるような単純なものではないということだ。
 おそらく、こんな方法よりも、話題になっている身体細胞の再生技術の向上によって恩恵を受ける。こちらのほうが早く実現しそうだ。

 人間は脚が長い 




 知っている人は知っているが、四肢の動物のかかとは上図の矢印の部分になる。もし人間のようにここを地面に接地すれば、ハイエナのような後肢の短い、恰好悪いものになるだろう。踵から下側は動物のほうが長く、人間の脚は上腿部と下腿部が長いのだ。図がへたで申し訳ない。



 四肢の動物を基準にすれば、人間の本当の身長は上図に於ける右側のように、爪先立ちの状態が正しいのだ。この方法だと身長を正確に測定することが困難なので、現在の測定法が間違っているわけではない。四肢の動物でも、踵を地面に着地しても、もともと頭部のほうが高いので身長には影響しない。もっとも、動物は身長ではなく体長で測定するので基準自体が異なる。

 遠い将来、子どもの遺伝子をデザインできるようになったとき、長身で脚長を望むだろう。しかし、あまりに脚が長いと不安定なので、自ずと限度があるだろう。身長にしても、男なら180は優に超えたいが、これも限度があるだろう。格闘は大柄のほうが有利なので、軍拡競争のように身体の大型化が進むだろう。
 対身体比率に於ける、脚の長さで比較すると、哺乳動物中のチャンピオンとまではいかなくとも、上位に位置することは確実だ。 

 格差拡大の必然性

 文明が進歩して経済発展すればするほど、覚えるべき情報・知識・技能が増えて内容も高度化していく。これは能力格差を拡大させ、能力格差は収入格差と資産格差を拡大さてゆく。

 買えば買っただけ確実に損をする宝くじ。
 
 こんな国や社会が理想的だ。

 「勉強なんか嫌いだ。」「仕事も嫌いだ。」「スポーツも嫌いだ。」と堂々と発言でき、後ろめたさを感じない、これだった気楽に生きていけそうな気がする。

 ひとりっ子の是非

 掲示板上の1人っ子についての書き込みを読んでみると、水準の低さに加えて、依然として「教育真理教」の信仰に浸っていることを感じた。別項の「初産児から~」を読んでいただければだいたいお分かりいただけると思う。
 1人っ子っはわがままで自分勝手で協調性がないというのが共通の評判のようで、闘争心がないとか忍耐力が欠けているというのもよく見かける。こうした特徴が環境に影響された面はあることはあるが、まるですべての子供たちは生まれたときはすべて同じ資質を持っており、環境や教育だけで決まってしまうかのような印象を受けた。1人っ子=初産児というわけではないのでややこしいが、重なっていることが多い。環境の影響だけでなく、もともと初産児は1人っ子の素因を持ちやすく、環境によって増幅されるのだと考えるべきだろう。親の性質と諸事情からしてすでに出産前からある程度のバイアスもかかっている。よしあしはともかくとして。
 
 死後の世界

 人間は死んだらどうなるのか? という問題がある。考えてみた。
1死後幽体離脱し、自分の遺体を眺める。
2三途の川があり、引き返したところ生き返った。
3死んだら何もない。

 科学的には3が妥当だろう。死亡してすべての脳細胞と全身に散在する神経細胞が完全に死滅し、翌日以降にはたいてい火葬されて骨だけになってしまう。その骨すら、細胞はほとんど形体を失っているだろう。
 1は、人間が物を見るためには網膜という神経細胞に光が当たって脳に情報が伝達されなければならないが、細胞がすべて死滅しているのに、どうやって自分の姿を見るのか? そもそも、魂とか霊が身体から抜け出るというが、その「霊」とは何なのか? 物質でできた物なのか? 現象なのか?
 2は証言者が存在し、仮死状態だったのが蘇生した。あの世を見てこの世に戻ってきたというが、仮死状態なら本当に死んでいたわけではない。
 誰も本当に死亡してから報告した人はいないので、実際に死んで見ないと判らない。というのがあったが、これがいちばんだろう。
 ところで、小さい頃に、遺体が火葬されるのを見て、「もしも死後意識が残っており、火葬場で灼熱の炉で焼かれてしまうのなら、全身が火炎に包まれて骨だけになってしまう。火傷患者の苦痛というのは凄いらしいので、死後も魂が残ったら恐ろしいことになる。」という考えに襲われたことはないか? 心配無用だ。無痛症という生まれつき痛覚神経が麻痺している患者がいて、例外なくまったく痛みを感じないのだ。骨折どころか火傷で皮膚が剥がれても平気ならしい。われわれには信じ難い光景だが、紛れもない事実だ。我々だって何らかの方法で痛覚を遮断してしまえば、どんな痛みも平気だろう。痛覚の障害以外はすべて健常者と同じなのだ。ましてや、全身のすべての細胞が死滅してしまうのだから、痛みを感じるはずがないのだ。  

 宮台真司さんへ・・

 一般論について述べるのではなく、あなた自身が個人的にどう考えるのか。ということについてのみ語るべきではないか。

 無邪気な坂本龍一

 坂本龍一が村上龍との対談その他で環境問題その他について口出しをしている。そのたびに、このひとの無邪気さというか現実知らずぶりを感じる。地球温暖化についても、「経団連は反対しているが、排出量を減らしたほうがいいじゃん」と、じつにのんきな口調であった。全体的にかなり水準が低く、村上氏もしかたなくつきあいで水準を下げて対話しているようにも感じられた。いろいろ指摘できるが、たとえば、京都議定書通り削減しても統計上たいした効果はないし、太陽光発電器が普及してもあまり影響はない。炭素依存度はおおまかにいって人口密度と逆比例し、過疎地や僻地、離島といった場所にはいずれ住めなくなってしまうかもしれない。東京しか関心のないらしい坂本龍一はかまわないのかもしれないが、こうした場所に住んでいる人たちの生活はどうなるのだ? ほかにもいろいろあるが、これらのことは温暖化問題に関しては初歩的な知識である。ある政策を実行するために、どれだけの代償を支払わなくてはならないのかという視点が欠落している。はっきり言って言論の不適格者である。逮捕された小室氏もそうだが、音楽家としての能力とその他の能力は必ずしも比例しない。坂本龍一氏には言論活動から撤退することを勧告する。もしどうしても口出ししたいのなら、きちんと勉強してからにすべし。そんな暇はないというのなら、なおさら言論などにうつつを抜かすのではなく、音楽に専心すべきだ。

 おんなのこ。

 休み時間などに、全裸になって、ちんちんを股にはさんで、「おんなのこー」とかいって廊下を歩いていた奴がいたが、いまでもこのような男の子はいるのだろうか? 以前忌野清志郎がデレビ出演していたときに、このようなことをやっていたと言っていたような記憶がある。
 男の子はガキっぽくて幼稚なので、年上の男とつきあいたいという女子生徒が多いという記事がよく載っていたが、実態がどうなのかはともかくとして、たしかにそのような傾向はあるようだ。将来なりたい職業の男女別を見ると、
 小学生は、男子の1位が野球選手。2位がサッカー選手で、3位以下と4倍くらいの落差がある。女子は1位が保育士と幼稚園の先生で、2位が看護士と漫画家とイラストレーターといった調子だ。よく言われるように、ブロスポーツ選手になることは、確率的に宝くじを当てるほど困難なことであり、女子の保育士や幼稚園の先生のほうが比較にならないほど現実的である。中学生になると、男子は依然として野球とサッカー選手が上位だが、3位に学校の先生が登場してくる。いくらか現実的になってくる。女子はそのままである。高校生になると、男子の1位はなんと学校の先生になり、2位は公務員というように、かなり現実的になってくる。女子の1位も学校の先生になり、2位以下は同じである。男子生徒も、中学くらいからかなり現実的になってくるようである。
 それにしても、学校教師のたいへんさがこれだけ取り上げられているにもかかわらず、なりたい職業の上位に挙がっているのは意外だ。

 国谷先生に質問

 クローズアップ現代で、たしか2年ほど前に、地球温暖化が進むと台風の被害が増大すると警告していたようだ。が、昨年の夏も今年の夏も、大きな被害が出ずに終わりそうだ。2年前よりも温室効果ガスは増えている筈だが、なぜ?
 英語しか取り柄のなさそうな国谷先生、説明してください。自分の発言に責任を持ってもらいたい。

 PTAの廃止を提案する

 PTAの形骸化については以前から指摘されていたが、このような提案をしただけで、「親と学校の連携が壊れる」だの、「地域が崩壊する」といった○○のひとつ覚えのような反応が返ってくるのだ。PTAがいじめや校内暴力、授業崩壊等の問題行動の減少に何の役にも立たないということは、あらためて説明するまでもなかろう。じっさいPTAの役員になることを嫌がる親は多いだろうし、私もしたくない。時間と労力の無駄である。

 稲作の体験学習について

 小学校で、今でも行われているのかどうか知らないが、校庭の片隅に小さな田んぼを作り、稲を植えて栽培して収穫するという、体験学習のようなものをやっていた。稲作農家のたいへんさを学ぶということなのかもしれないが、当時からどうも釈然としないものを感じていた。
1うちは農家ではないので詳しいことは知らないが、今は田植えも収穫も器械で行うのではないのか? 手でやることに何の意味があるのか?
2ともすると、「稲作農家だけがたいへんだ」という印象を与えかねない。特定の業種だけを強調することは、差別思想につながることはないのか?
3すべての農家が保護されるべき社会的弱者なのか疑わしい。農地の売却によって大金が転がり込んできた農家は相当な数に上るはずだ。どういうわけかマスコミはこのことを取り上げないし、せいぜい日曜放談で加藤寛が取り上げたぐらいだ。
4これは別項でも取り上げていることだが、主要教科以外のものを公的な学校の内部で教えようという発想こそが学校を荒廃させているのだ。

  科学エッセイ

 恒星間の旅行には、超光速での宇宙旅行が必要になってくるが、今後どれほど技術が進歩しても、恒星間飛行は不可能だろう。光速を超えての物質の移動は不可能だという物理法則が仮に存在しなくても同じだ。
 
 光速に近い速度での飛行はあまりに危険ではないか?

 宇宙空間は完全に真空ではなく、さまざまな星間物質が浮遊しているらしい。これらが光速に近い速度で宇宙船に衝突したらどうなるのか?
 水に高圧を加えて小さな穴から噴射し、さまざまな材料を切断する機械があるが、開発のきっかけは、ジェット機のフロントガラスについた傷で、これは大気に浮遊する水滴が衝突してできたものらしいということが判ったことらしい。水滴でも、音速を超える高速で衝突するとガラスに傷をつけるほどの威力があるということだ。最速のジェット機は秒速1kmほどで、これを基準に概算すると以下のようになると思われる。
 宇宙空間に0.1gの小石が浮遊しているとする。ここに、光速の10分の1の速度、秒速3万kmの速度で飛行している宇宙船が衝突するとどれくらいの衝撃になるのか?
 衝突時の衝撃は速度の2乗に比例するので、3万×3万=9億倍の衝撃を受けるということになる。衝撃の大きさはぶつかった物体の質量に比例すると思われるので、これは、90トンの物体が秒速1kmの速度で衝突したのと同じ衝撃を受けるということになりそうだ! 90トンとは、電気機関車1両とほぼ同じ重さだ。こんなに重いものが秒速1kmもの速度で衝突するのと同じ衝撃を受けるのである。しかも、マッチ棒で突いたほどの面積に、電気機関車1両が秒速1kmで衝突する衝撃が加わるのだ。どんなに頑強に宇宙船を製造しても、確実に貫通してしまうだろう。というよりも、こんな衝撃に耐えられる物質はこの宇宙には存在しないのではないか。
 今度は宇宙船が光速で飛行している場合を考えてみる。現実には光速に到達することはありえないが、そのことは無視して考える。
 衝突時の衝撃は秒速1kmのジェット機の900億倍に達する。宇宙空間に1mg(1000分の1g)の砂粒が浮遊していて衝突したとすると、やはり90トンの物体が秒速1kmで衝突した衝撃が生じることになる。光速になると、たった1mgの物体(食塩の粉1粒くらいか?)でも、こんな衝撃になってしまうのだ。ひとたまりもなかろう。これだと、0.01mgという極めて微細な物質が衝突しても危険である。ざっと1トン近くもの物体が秒速1kmで衝突したほどの衝撃になってしまう。
 まして、光速を超える速度に浮遊物質が衝突するとどうなるか? 想像もつかないほどだ。たとえば光速の10倍の速度だと、秒速1kmの衝突時の9兆倍の衝撃が発生するのだ。
 相対論の解説書や天文学関連の本に、光速を超えての移動は不可能だから恒星間旅行はできないというような説明をしているのが見られるが、光速どころかその10分の1の速度での飛行ですら不可能だろう。たとえば、太陽系を球状に取り囲んでいる微小な天体群であるオールトの雲は、太陽から1.5光年くらいの距離まで拡がっているらしく、この間は光速の100分の1の速度で飛行するのも危険だろう。とすると、オールトの雲圏から脱出するのにさえ100年間以上もの年数を要することになる。
 
 等価原理についての不正確な説明

 一般相対性理論に、加速によって生じる力と万有引力による力とは、どうやっても区別できないという、等価原理なる仮定が出てくるらしい。相対性理論の解説書には、外界と隔絶したエレベーターに閉じ込められているとき、下方に引っ張る力が引力によるものなのか加速によるものなのか区別できないというのが出てくるが、潮汐力の有無を調べれば区別できる。エレベーターの最上部と最下部にそれぞれ重力計を設置し、両者で数値が異なれば潮汐力が働いていることになり、引力に起因する力だと判るし、数字が同じなら加速によって引っ張られているのである。
 ところが、潮汐力が働くような、異なる場所に於ける力の差異は、等価原理の判断材料ではないらしい。同一箇所に於ける力の働き方によって等価原理が正しいかどうかが決まるらしいのだ。指摘できるのは、もしそうなら、エレベーターを等価原理を説明する例として持ち出すのは誤りだということだ。
 
 倖田くみの羊水発言について。

 だいぶ前のことになってしまったが、歌手の倖田さんが、「35を回ると羊水が腐ってくる。というか汚れてくるんですねー。」という問題発言をしたというのが話題になったらしい。この発言について専門家が登場して、「羊水が腐るということは絶対にありえません。」と否定していた。これ自体がおかしい。私は羊水がどういうものなのか知らないのだが、この発言を聞いてほんとうに羊水が腐るなどと考える人はあまりいないだろう。もし本当にそんなことになれば、生命の危機ではないか。
 35歳を過ぎると羊水が腐るということを言いたかったのではなく、あまり高齢になると出産時の危険が増えるということの間接的な表現だったのだろう。不適切な表現かどうかはともかく、それならある程度当たっている。出産時の危険だけでなく、たとえば、ダウン症が生まれてくる比率は高齢になるほど増加してくる。年齢を重ねるほど染色体が破損してくるからだ。これは男も同じである。「だから何なの?」というわけではない。ただし、客観的な事実として、若い方が危険が少ないということは確実だ。「いつ結婚しようが出産しようが、女性の勝手だ。」とフエミニストは言うだろうが、完全にそう言い切れるだろうか?
 この記述自体が不謹慎との批判が来るかもしれないが、今回の発言は事実を突いているという点でいくらか痛快でもある。

 民主党のH議員のコメントについて。

 民主党から離党したH議員のコメントである。「多くの有権者に心配をかけ、心からおわびしたい」ということだ。あなたの心配をしている有権者などいるのか? どうせなら、「私の支援をした有権者に迷惑をかけた、というよりも裏切ったことをお詫びします」と言うべきだろう。「二度あることは三度ある」というか、三つ子の魂百までという諺どおり、これまで不祥事を繰り返してきたのだから、いくら詫びても今後も繰り返すだろう。心配しているのは、次の選挙での落選の危機を感じている家族ではないのか。
 ところで、よく、有権者の政治への無関心ぶりや投票率の低さについて責任を問う批判を見かけるが、これらが100%有権者の責任だとは言い切れないのではないか。このH議員については、投票した有権者とその後の行動との間にどのような齟齬があったのか知らないが、たとえば、郵政民営化に反対なので投票したのに、次の選挙で突然賛成派に変わった場合は、これは有権者に対する契約違反にはならないのか? こんな調子では、何のための投票なのか分からないではないか。こういう投票者への裏切り、というか契約違反行為については、どこまで責任を問うことができるのか、あらかじめ決めておくべきではないか。

 くらたま先生への勧告

 美人漫画家の倉田真由美さんは、マンガだけでは満足せず、本や新聞やテレビその他で意見を述べている。それはご本人の勝手でとやかく言うことはないのだが、読んだり聞いた限りでは、「なるほどそのとおりだ。で、それが何なの?」といった印象のものばかりだ。ある程度の知識と教養があればすでに考えているようなことばかりで、こんなものにわざわざお金を払って手に入れようとするひとがいるのだろうか? 批評活動は中止して、マンガの制作に専心したほうがいいのではないか。

♪おすすめの花火大会。

 花火大会の情報には、何発打ち上げというデータが出ており、玉の大きさについてはあまり表示されないが、こちらのほうが重要なのだ。たとえ10000発打ち上げられるとしても、ほとんどが五寸以下であれば飽いてしまうだろう。これくらいの大きさで印象深いのは、せいぜい同時打ちくらいである。
 それよりも、いくらか数が少なくて単発打ちでもいいので、七寸以上の大玉の上がる大会に行ったほうがいい。こういう情報は、かなり専門的なサイトでないと判らないので、腕の見せ所だ。それと、いくら大玉といっても、三尺以上は保安距離が遠すぎて意味がないので避けたほうがいい。二尺玉までだ。

 シンクロナイズドスイミングの観賞価値

 この問題は、動画と音楽の問題の項目でしつこくこだわっている。ついでに書き込むことにした。
 見ていて感じるのは、やはり音楽との関係で、時間的に同期しているということ以上の意味を見出しにくい。演技に音楽を流すことは邪道だとまでは言わないが、どっちもどっちではないかという気もする。一度、音量をゼロにして見てみるといいだろう。
 もしあえて音楽と動画との関連性を演出するのなら、音楽のリズムに同期させるだけではなく、演技の動きによって、見ている者が踊りたくなるような共感を呼び起こすものでなくてはならない。偉そうなことを言って恐縮だが、今のところ、両者間での関連性はこのへんくらいまでにしか見出せない。
 それと、演技の最中に、解説者が延々と喋っているのも気になった。

★人生で最高の瞬間。

・地区の役員の任期が終わってほっとしているとき。
・休校日か会社が休みだったことを忘れて登校か出勤して、そのことに気づいたとき。
・冬の寒い中、たいぎなのを寝床から起きたか目を覚ますかしてから、時間がまだ早過ぎたことに気づいたとき。

◇微笑ましい親子。

 ちょっと前のことになるが、小さな男の子を連れた母親を銀行で見かけた。じつに仲が良く、母親の言うことを素直に聞いてそのとおり実行していた。母親も褒めてばかりいて、こんなに微笑ましい雰囲気に接したのは久々のことだ。ひねくれ者で他人の悪口ばかり言っているようなねじけた精神の筆者には、オアシスに立ち寄ったような気分だ。
 10代か後半くらいの娘さんが父親の膝に乗っかって、べたべたと仲良し親子しているのを目撃したこともある。成績優秀でよい子が起こす犯罪が話題になるが、こうした仲良し親子がそのままずっと良好な家族・親子関係を維持しているほうが多い筈だ。こうした人たちがもっと増えてくれば世の中も良くなるだろう。

・テレビの社会的責任を問う。

 最近は少し減ってきたのかもしれないが、バラエティーやお笑いといったくだらない番組が横行していることについて、たとえば、学力低下が話題になっていたが、退屈で眠気を催すつまらない勉強をするよりも、これらの番組を見ているほうが楽しいだろう。ゆとり教育が批判されているが、それなら、これらのくだらない番組を放映しているテレビ局には責任はないのか? 子供への影響と言う点では、テレビのほうが大きいはずだ。やれセレブだのといって、とてつもない収入のある有名人を紹介することについても、視聴者の嫉妬心や焦りを刺激するだろう。これらの影響についてはどう考えているのだ? 視聴率稼ぎのためだったら何をしても許されるのか?
 
 「僕」と「私」の使い分けについて。

 議員や企業の上役などは、たいてい自分のことを「わたし」「わたくし」と呼ぶが、彼らはまさか小中学生の頃から自分のことを私と呼んでいたわけではないだろう。いったいいつ頃から自分のことを「私」と呼ぶようになるのか? 自分の立場が公共性の強いものになるとこのような呼び方がしっくりするようだということくらいか。
 
 美空ひばりさんについて。

 「歌謡曲の女王」と呼ばれていたそうで、その歌唱力の実力はたいへんなものだったらしいが、私はあまりいいと感じない。もともと、ボーカルは楽器の一種としてしか捉えてないし、歌唱力が優れているということがどういうことかもわからないし関心がない。

・声を引っ張るし、震わす。
・声に「あく」がある。

 クラシックは古典的ということ以外に一流と言う意味もあるそうだが、いい曲もあるものの全体的に違和感があって、いくら一流でも感覚的になじまない。ひばりさんの歌も同様になじまない。

 忌野清志郎の政治メッセージについて。

 北朝鮮・原発・君が代など、政治的なテーマの曲を発表するが、ほとんどが発売禁止になっているらしい。何でも後回しにしたがる政治家が多い中で、国内では唯一といっていいほどこうしたテーマを取り上げるのは痛快で頼もしくもあるが、やはりどこかずれている印象がある。
 もっとも、小林よしのりに代表されるネオナショナリズムの台頭以降はだいぶ状況が変わってきてもいる。ここ10年か20年くらい、音楽の印象が薄くなっており、むしろ言論のほうが強い印象を受ける。お笑いについてもどこか似ている。
 言論家や論争家の質の向上による影響も大きい。一昔前のような、たとえばインチキ教育評論家が登場することはほとんどなくなってきたし、半知半解だとすぐに指摘されてしまう。しょせんは、と言ってはお叱りを受けるかもしれないが、しょせん音楽は娯楽の一分野に過ぎず、政治問題やら原発問題を取り上げてみたところで、言論の持つ複雑な思考の展開にはとうてい及ばない。というところだろう。そうだとすれば、さほど悪いことでもない。

  [銀河鉄道999]

 よく知られた名曲で、動画で調べてみた。映画の最後の場面で、メーテルと叫んで追いかけていくときに流れていたようだ。映画はあまり見ない人間なので最近まで知らなかった。映像と音楽の相乗効果についても参考になる。
 素晴らしい曲でけちをつけるのは気が引けるが、あえていくつか指摘させていただくことにした。音楽に素人の音楽評論家である。
1Journeyの、ジャーの「ャー」の発音がやや不正確である。
2「あの人はもう 思い出だけど」の部分で、「思い出~」の部分のメロディーとコード展開がやや不自然である。
3ドラムのフィルインが単調過ぎる。もう少し大胆で複雑なものにするとさらにスピード感が増すのではないか。
4ライブ演奏では、楽器ごとの音色や曲のアレンジをもう少し大胆にしてもいいのではないか(例。スピード感のある曲にしては、スネアの音が埋もれがちだ)。それと、最新版の曲のアレンジでも、前時代の、たとえば筒美京平の曲のような形式を連想させ、臭い。もう少し現代的なアレンジができないものか。
 せっかくのいい曲が、その良さを生かしきれていないように感じた。

 Perfumeの整形疑惑について。

 Sweet DonutsのCDジャケット写真を見ると、まるで田舎のおばさんが集まって撮影したかのようである。メイクといい顔といい表情といい雰囲気といい、たしか10代前半だったと思うが、よくもこれほど田舎臭い写真になったものだと驚いた。そこらの10代の女の子たちを普通に撮影してもこんなに田舎臭くはならないように思う。撮影したカメラマンが撮り直そうと考えなかったのが不思議だ。整形疑惑が出てくるのもわかるが、すくなくともかしゆかとあーちゃんはしていないだろう。のっちの、ぱっちりとした二重瞼だけは、「あれ?」という感じがしないでもない。が、たぶんしていないのではないか。
 以前から思っていたことだが、そもそも、整形によってそんなに美人度を向上させることができるのだろうか? むしろ年数が経過すると、ケロイドのように形が崩れてくるというようなことはないのだろうか?

 恋愛の巨匠こと渡辺淳一先生について

 私はこのひとの本を読んだことはないので詳しく言及することはできないが、男女についてのエッセーのようなものを散見した限りでは、とくに印象に残るものはなかった。男の弱さ、とくに対女性における現代の男性の劣勢ぶりというのは、社会情勢の変化その他もあるだろうが、最大の原因は供給過剰による値崩れだ。すなわち、Y精子のほうが受精しやすいという特性こそが原因なのだ。このひとは元医師だったそうだが、このことに気付かないらしい。というか、こういう思考能力の乏しい人でも医師になれるらしい。

 こういう社会、というか文明と呼ぶべきだろうか、を目指すべきだ。

 遠い未来の人間たちが、今現在の人類を観察したとする、「なんだ? そんなつまらないことにこだわっていたのか!」とあきれ返るだろう。死後の世界・宇宙の果て・ビックバンやブラックホールがどうの・そんなことは、ばかばかしくて考える気にもならない。なぜか? そんなつまらないことよりも、遥かに面白くて興奮し、感動する面白い事柄が世の中に溢れ返っているだろうからだ。
 むしろこういう文明社会を目指していくべきではないだろうか。

 死刑廃止論者の偽善と欺瞞

 死刑廃止論者についてはうさんくさいものを感じるが、その最たるものが戦犯による死刑だ。死刑廃止を唱える人たちは、それならなぜ戦犯による処刑を非難しないのだ。とくに極東軍事裁判など、戦勝国が戦争終了後にかってに作成した事後法で処刑したらしいが、死刑廃止論者からすればこれこそ言語道断だろう。それにしては、アムネスティーなどの死刑廃止を主張する組織や団体からの批判は聞いたことがない。どういうことなのか? 日本の死刑制度について諸外国からの批判がたびたび浮上するが、「それなら、その前に、戦勝国側は戦犯で死刑にしたことが間違いであったことを全面的に認めて日本に謝罪し、損害賠償を支払うべきだ。すくなくともこの前提が実現しない限り、死刑廃止の議論には応じない。ダブルスタンダードも極まれりだ。」と反論すればよかろう。

 僕の私の人生論

 その中のひとつとして、仕事や勉強に人生の価値ややりがいや目的やら誇りを持とうとしないことだ。大多数の人たちにとって、勉強と労働は、楽しいとかおもしろいとかの積極的な理由ではなく、仕方なしにするものだからだ。労働や労働力や学力が社会的な価値を持つためには、特定の人間にしかできないか、実行が困難なものでなくてはならない。楽しくて面白いことなら、お金を支払って他人にやらせるのではなく、自分でやるだろう。このため、よほど優れた才能のある人は別として、ほとんどの人たちにとって勉強と労働は嫌なものである筈だ。楽しくて楽にできるものや、誰にでもできるものなら社会的には価値がないからだ。もしも勉強や労働が本当は楽しくてやりがいのあるものである筈だ。という価値観に縛られていると、どうしても勉強や仕事が好きになれない。これは自分の努力不足のせいだという自己抑圧に陥る。これは精神衛生上良くないし、いずれは社会や経済にも悪影響を及ぼすだろう。

 自分宛に送信しているメール

 週一くらいの頻度で知人に送信しているのだが、その半分くらいは自分のために書いて送信しているような気もする。これでいいのだ。

 前から気になっていたことについて

 ニュースキャスターと呼ばれる人たちが喋っているとき、しきりと顔と頭を上下に動かしているが、あのやり方というものは養成学校みたいな場所で講師から教わるのか。それとも先天的に無意識に演じることができるものなのか、もちろん私は知らないが気にはなる。

 結局は下戸の全面勝利ということになりそうだ

 私は酒を飲むことはできるがカーッとするだけで気持ちよくはならないし、飲酒の何がよいのかが分からないのでほとんど飲まない。さいわいいわゆるアルハラの被害に遭ったこともないのだが、アルコールというものはそもそも毒であるし、脳が委縮するのだ。発癌性もある。その意味ではシンナーに近いだろう。少量であれば身体に良いという記事があるが、少量であれば発癌物質や毒でも身体に好影響を及ぼすということがあるのか、私は疑っている。結局は飲まないのが一番良いということになりそうだ。飲酒運転の危険もない。飲まないのだから当然だ。

 生きた化石

 「汗水垂らして働くことこそが労働の本来の姿だ。」などとのたまう、生きた化石みたいな労働観しかもてない議員さんや土建屋政治家が日本の政治を牛耳ってきたわけで、こうした不毛な精神論こそが日本の発展を邪魔しているのだ。こうした人たちは早急に政界から撤退してもらいたい。

 山口組

 もとは仲仕の派遣業をしていたらしいが、そのことはともかくとして、このような、いわゆるタフガイとかマッチョとか、喧嘩っ早い荒くれ男といった、言い過ぎかもしれないが頭が悪いくせに態度のでかい土建屋の馬鹿息子みたいな連中に苦々しい思いをさせられてきた私としては、コンテナのシステムの普及によって仲仕の仕事が淘汰された例や、文明の高度化や知力の社会的価値の上昇とそれに負の相関をもつ肉体労働の価値の下落といった現象は爽快であるし、やれやれといった感慨を抱かせる。

 これでいいのだ

 メールを送信しても返信が来なかったり、そっけない態度しか見せない相手については、それだけサービス精神が乏しいわけで、その分こちらの価値を高めてくれているわけだ。実際その通りで、こうした人たちはわざわざ自分で自分のネガティブキャンペーンをやってくれているわけだ。実にありがたいではないか。感謝しなければならない。

 女性専用車両について

 動画でたまたま女性専用車両の是非について論議されているのを視聴したが、詳しく論ずる知識がないのでここにあれこれ書き込むことはできないが、最も効果的なのは男の人口比率を少なくすることだ。これが実現すれば、女性専用車両を存続しようが廃止しようが、男にとっては痛くも痒くもないのだ。女にふられようが妻から離婚を要求されようが、妻から言葉の暴力を受けようが。たいした問題ではなくなってしまうのだ。

 ユーミンさんの「ひこうき雲」を聴いて

 私はあまりこのひとの曲は詳しくないが、ふと聴いてみた。曲が進行しながら、なかなか心情的な結論がこないで、そのまま引っ張るような印象を持った。サビに入ってからは、結論的な展開をしそうなところで転調のようなものが出てくる。ほんとの転調なかどうかは知らない。音楽の門外漢なので。
 ところでこのひとは、自分で自分のことを天才だと自賛しているらしく、なかなか珍しい人だと感ずる。周囲が認めないからしかたなく自賛するというわけでもないらしい。じっさい詩も曲も質は高い。ほんとのサバン症候群の性向があるということも考えられるかもしれない。サバンのひとの性格特性として傲慢だというのもあるからだ。

 続いて素人の音楽評を書いてみます

 星野源さんの曲には、しばしば五音音階が出てくる印象があります。これだけで説明できるほど単純ではないでしょうが、これがこの人の心地よさのひとつになっている印象があります。つんくさんの曲には転調感のある展開がしばしば出てきて、これが香辛料のような役目をしているのかという印象がありました。

 大人と子どもの境界の基準について

 近代化によって大人と子どもとの境界が曖昧になってきているということですが、そのひとつの基準を書いてみます。
 デモトレードをして売買について習得したつもりになっている。あるいはフライトシミュレーターで訓練を積んでいけば航空機が操縦できると考えている。目隠しや車椅子を使ってみて障害者を理解できたと考えている。こういう状態を未熟な未成年と定義してみます。これらはあくまでも理解した、あるいは習得できたつもりになっているだけで、現実とは隔たりがあるということを知っているのが大人だと定義します。
 したがって、未成年者がよくやらさせられる職業体験も似たようなもので、せいぜい職業体験ごっこくらいの代物に過ぎず、何しろ責任を問われませんから、失敗した時の恐怖感が違います。そんなことをする暇があるのなら勉強することをおすすめします。子供にとっての労働とは勉強です。

 最強の眠気覚まし法はこれだ

 眠気に襲われて睡眠に移行しつつあるときや、睡眠中ですら確実に目が覚める方法がある。自分が夢を見ているということに気づく、あるいは「夢」という概念を思い付けばいいのだ。
 
 マルチタスクの誘惑と利点について

 マルチタスクは作業効率が悪く、シングルタスクにしたほうがよいというのは知っているし、私などとくに並列処理に向かない人間なのでなおさらだが、ついついマルチタスクをやってしまうのだ。よくやるのは、複数のブラウザを表示して動画を聴きながら他のサイトを閲覧するとかメールを書くというようなことだ。こういうことは効率が悪いのかもしれないが、得したような気分になってしまうのだ。これは落とし穴かもしれないが、心理的なお得感というのも利点なのかもしれない。

 ナルシストの画家

 画家のすべてに当てはまるというわけではないとは思うが、かなり前に画家のTさんとお話したことがあるが、事あるごとに自分と息子の自慢話をするのにはうんざりした。かなり高名な画家だったらしく、私のような素人さんを相手にしてもらっただけでほんとは恐縮するような存在だったのかもしれないが、なにしろ年少者だったものでそんな知識はなかったのだ。

 手書きが減っていることについて

 手書きが減ると退化が進むなどと嘆くご老人もいるみたいだが、キーボードを叩くという手書きをしているではないか。あるいは、字を書くという行為が演奏するという行為に変わったのだと解釈しても良かろう(脳内にはそれに対応する神経回路が形成されるのだ)。私など手書きは面倒だし時間はかかるし、もともと不精な人間なので必要時以外は手書きなどしない。

 いわゆる「ぼっち」問題について

 孤独な人や友達がいないというような人たちのことらしい。とりあえずはさほど気にしなくてもいいのではないか。言いたいことがあれば掲示板その他に書き込むとかサイトやブログを作成すればいいし、付き合い人がいると、「飲みに行かんか?」とか「食べに行こう」などと誘われたときに、断れなくなってしまうからだ。「せっかく誘ってやっているのに、何だあいつは!」ということになりかねないからだ。
 その一方で、そうしたことについての問題意識は持っておいた方がいいだろう。
 
 あえて「音楽」「歌」「曲」を定義してみると・・

 気分の文脈化か・・或いは、気分の物語化とでも呼べるだろうか??

 とりあえずのほっとする気持ちのために・・

 冷蔵庫その他に、あと何日分の食料品が残っているのかを確認してから、あとこれだけは餓死せずに生きられるのだと安堵できる。

 作曲ソフトについて

 使ったことがないので詳しくはないが、作曲くらい自分でやろうや。作文ソフトで作成した文章を自分のサイトに書き込んだりメールその他に使ったりするようなものだ。
 作文力と作曲力との間にはおそらく相関があるので、作曲力を高めるには作文力を高めるのが効果的だろう。作文力は読書量と相関がありそうなので、読書は間接的に作曲力を高めると考えていいだろう。




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