なんでも評論家

時事コラム。(2)

 応急処置的な教育改革を提言する

 部活は学校の癌細胞だ

 学力低下や授業時間数の確保を問題視するなら、部活こそ見直すべきだ。勉強ができない、あるいはしたくないから部活に力を入れるなどというのは現実逃避に過ぎない。とくに部活動の大部分を占める運動部については、スポーツというものは娯楽の一分野に過ぎず、従ってスポーツ選手やアスリートなどは芸人である。その競争率の高さは、一流大学に合格するなどとは比較にならないほど困難だ。とくに、成績が悪いのに部活にばかり夢中になっている生徒については、本当にスポーツ選手になる覚悟と意志があるのかどうか、また、潜在的な適性と可能性について、親と本人に問いただすべきだ。それともたんなる遊びとして運動部で活動しているのか(そんな暇があるなら勉強しろ!)。その定義をはっきりさせろ。このような、学力が低くてスポーツばかりに夢中になる人間は要注意人物と考えてよい。学力と問題行動の頻度とは逆比例の関係にあり、スポーツに熱心ということは、その身体能力と身体そのものが凶器になる可能性が高い。かりに万が一スポーツ選手になれたとしても、怪我や事故その他で引退することになれば、スポーツにばかり夢中になって学業をおろそかにしてきたスポーツバカはどうするのだろう。むしろ逆に、このような人たちは普通の人たち以上に基礎学力がしっかりとしていなければならない筈だ。

成績が一定の水準に達していない生徒は、部活動は制限し、補習授業を受けさせる。

 本当は、こうするためには教員に手当を出さないといけないが、財政上の問題や世論の影響でやりにくい。それでも、部活などに精を出す余裕があるのなら、まず学力の向上に取り組むべきだ。スポーツバカの再生産を阻止するためだ。
 今回の柔道で起きた問題の再発防止策として、女子の昇格について提唱する論を散見したが、これは論点のすり替えだ。そのほかの柔道選手による記述についても論理的思考力の低さが印象的だった。能力が低過ぎてその自覚すらないらしい田中真紀子さんみたいなものか。

 勉強はある種の職業訓練なのだ

 「なぜ勉強しなくてはならないのか?」という疑問について、よくあるのは、数式など実際に使う人はごくわずかに過ぎないのに、なんでこんな役に立たないことを勉強しなくてはならないのか? という疑問、というか不満をよく見かける。じつはこのような質問は、その理由を知りたいからというよりも、むしろ勉強したくないので、そのための理由付けが欲しいわけだ。これ自体は非難に値しない。たいていの人にとって勉強とは退屈でつまらないものなので、そのこと自体に罪悪感を感じる必要はない。
 なぜ使いもしないことを勉強するのか? これにはふたつの理由がある。まず、役に立つ知識や技能は具体的であるために、将来の進路や就職先がはっきりしていない段階でこれらのことを習得しても、可能性や方向性を狭くするだけで、ありとあらゆる児童生徒を公平かつ客観的に評価することは困難だ。もうひとつの理由は、たとえば、数式や方程式の使い方を覚えても、じっさいにそれを使うことは滅多にない。しかし、かといってそのことが無駄だったということはない。数式の操作能力が向上してくると、語学力も向上するし、逆もまた然りだ。学業成績と運動能力と音楽や美術その他の諸能力との間には正の相関があることがわかっている。現代人が生活していく上で、もっとも重要なのは知力である。実生活で使うことがなくても、知力全般を知らず知らずのうちに引き上げているのだ。高い学力を身につけていれば、さまざまな知識や技能を習得するのも早いしその水準も高くなるのだ。

 平和教と道徳教

 保守派の論客がしばしば唱える、道徳の指導を徹底させて現代の教育問題を解決させるというのは、平和憲法のおかげで日本の平和が保たれていると信じる平和教みたいなもので、左派のことをお花畑として嘲笑している保守派の頭もお花畑なのだ。

 震災一周年にて

 不謹慎なことを書いて申し訳ないが、かつて例の阪神大震災が起きた後、震災対策を強化せよとか、地震の訓練に力を入れろとか、風化の懸念というようなことが盛んに唱えられていたものだ。ひねくれ者の筆者には、当時からこの効果に疑念を感じていた。そうやって対策を強化しているつもりになっていると、今度は想定していなかった別の問題が発生するものなのだ。災害の対策に使える時間とお金と労力には限度があるし、訓練には効果が無いとまでは言わないが、しょせん訓練は訓練に過ぎないのだ。昨年の大地震までは、もちろんその「想定外の何か」が、津波と原発事故になるなど思いもよらなかった。で、その後その惨状を知ってから、「やっぱり」と感じたものだ。やはり来るものが来たときは大惨事になるものなのだと。
 すでにこの震災の風化が懸念されているが、風化という以前に、そもそも体験者以外に本当のことを実感するなど不可能だ。津波の動画を見ても津波を理解していないのだ。

 私の美人論

 そのまえに、「お前はどうなんだ?」と批判されそうなので、珍しく自己紹介的に書いておく。
 よく、日本人には縄文系と弥生系のニ系統があると言われているが、自分は縄文系らしい。
・眉毛・髭・体毛が濃い。
・二重で、目は細くない。
・耳たぶが大きい。
・鼻は幅が広く高い。
・唇は厚い。
・睫毛が長い。
×骨格は細くて華奢。筋肉が少ない。

 ×以外はすべて縄文系の特徴だ。

 さてところで、日本人の白人コンプレックスや自国民への蔑視観が象徴するように、日本人の美人度の平均偏差値は低いというのが依然として相場になっている。これについては負け惜しみのようでみっともないかもしれないが、いくらか異議があるので書いてみる。
 今書いたように、日本人には縄文系と弥生系の2系統があるらしく、せっかく持ち出したのだからこれに基づいて考えてみることにする。

 縄文顔-立体的  弥生顔-平坦
  眉毛-濃い       薄い
   瞼-二重       一重
   鼻-幅広で高い    低い
   唇-厚い       薄い
 などなど・・・
 
 男女で違ってくるので、女性に限定して考えるとこういうことになる。
 
 顔が立体的ということは、どちらかといえば美人の要素にはなりそうだ。ただ、頭と顔が前後に短い、いわゆる「短頭」型がすべて弥生系という印象はない。テレビや雑誌や美容のサイトなどで、外国人と日本人の顔と頭蓋骨を比較して、向こうは前後に長いが日本人のは前後に短くて扁平であり、これが日本人の不美人の要素のひとつになっているというような記述があるが、白人がどうなのかはともかく、日本人では前後に長い長頭型がすべて美人であるわけではなく、短頭型でも美人はいる。実際、以前スーパーのレジで、頭が前後にとても短い、かなりの短頭系であるが、めちゃくちゃ可愛い女の子に遭遇したことがあった。美人と可愛いのとがどう違うのか? という厳密な定義上の違いには触れない。概ね、可愛い子は綺麗で美人だし、美人な人は可愛い。だいたい一致している。この女の子以外にも、かなりの短頭で、エラの張ったホームベースみたいな顔なのに、美人で可愛い女の子に会ったことがあった。短頭度と美人度とに統計上の相関があるのかどうかは知らないので断定はできないものの、この事情には私は賛成しない。
 次に、一重の弥生目と二重の縄文目について、不謹慎か差別かはともかく、女性の場合は弥生目はあまり好まれないだろう。男なら、不良っぽくてもてるかもしれないが、目が細くて吊り上っており、目と眉毛との間が膨れているのは、どう考えても美人の要素にはなりにくい。この特徴に魅力を感じるひともいるらしいが、蓼食う虫のような特殊な存在だろう。
 鼻の特徴についても、高いほうが白人に近くて美人だということになりそうだが、これはあくまで、その他の諸条件が同一の場合、しいて言えば高いほうがいいということであり、高くても下に向かって曲がった鼻筋の通っていない高い鼻は美人とは言い難い。弥生系のほうが、低くても鼻筋が通っている傾向があるので、この点だけは弥生顔のほうが有利のようだ。量で負けても質で勝つというわけだ。
 よくある懐疑論として、美人の基準は時代・人種・民族・文化・個人によって異なるというのがあるが、そのような要素は否定はしないものの、客観性のほうが勝るのだ。これは音楽・美術・デザインその他についても当てはまるはずだ。
 
 縄文系と弥生系の混血は進んでいるのか?

 話が外れてしまうが、日本人の大多数は縄文系と弥生系の混血で、どちらかと特定できるものではないというのを読んだが、釈然としない。うちの親戚や従兄弟に、目が細くて一重で吊り上っているひとはいない。アイヌやその近辺、あるいは沖縄や周囲の南洋諸島か九州出身でもない。クオーターやハーフでもない。二重のほうが優性らしいが、それにしてはひとりくらいは一重がいてもよさそうなのに、誰もいない。その他も縄文系の特徴ばかりだ。

  スポーツ嫌いは増えるか?

 スポーツは好きではない。とくに嫌なのはマラソン・腕立て伏せ・腹筋・スクワットだ(これらは種目ではないが・・)。しんどいからだ。これらが好きだという人は少数なのではないか。ちょうど、勉強が好きで勉強することにやりがいや生きがいを感じるひとが特殊な存在であるように・・
 このほか、団体競技に於ける集団性、軍隊的な調教も馴染まない。個人主義化の影響で、こうしたものに拒否反応を示す人が増えてくることを期待している。
 
1勉強は得意だが、スポーツは駄目
2勉強は駄目だが、スポーツは得意

 社会的には1のほうが価値がある。スポーツは音楽や芸術その他と同じく、娯楽の一種に過ぎない。高校入試や大学入試その他の入学試験に、体育が採用されていないことからも明らかだ。文明の進歩によって、肉体労働の価値が下落し続けていることもいっそうこのことに拍車をかけている。
  
 宗教離れの必然性

 これは全世界的な傾向であると確信できる。理由はいろいろあるが、なんといっても、毎週毎週礼拝に行って退屈で眠くなる説教を聞くよりも、遊んだほうが楽しいからだ。だいいち、この忙しい現代人にとっては、娯楽に費やす時間がなくなってしまうだろう。

 東京の独り勝ちは変わらない

 別項にも書いたように、特定の地方とか自治体とか、とにかく人間が集まって活動する空間がどれだけの競争力を発揮できるかということは、優秀な人材の集積度によって決まってしまう。東京は全国、あるいは海外からも優秀な人材が集まっているため、いくら「地域、地域」と連呼しようが、その優位性と格差はなくならない。
 
 「障害者の立場を理解する体験学習」

 テレビ、とくにNHKでときどき目にしていたが、「障害者の立場を理解しよう」という目的で、生徒や学生らが目隠しをしたり車椅子に乗ったり、さらには妊婦を体験するなどといって、ボーリングのボールのようなものをお腹あたりに置いて服を着たりしていた。
 こんなことをしてみたところで、障害者の現実など、その100分の1も理解しない。たとえば、全盲者になってみるつもりで両目を目隠して、家の中や外をあるいてみたとする。まさに今回のような大地震が突然襲ってきたとする。われわれ健常者は、いざとなればいつでも目隠しを外して逃げられるのだ。当然のことながら、そこで生じる恐怖感には雲泥の差が生じるだろう。車椅子に乗った場合も同じだ。このほか、目隠しをすることによる不自由さを体験したところで、人生のうちのほんの僅かの時間に過ぎない。偉そうに書いている私も同じだ。彼らの心境は逆立ちしても理解することはない。
 こんな障害者体験ごっこで彼らの現実を理解させようなどと考える教育者こそ、再教育しなければならない。 

 マスコミの世論誘導

 今季の厳冬について、さすがにこれも地球温暖化の影響だとは言わないが、もし暖冬になっていたら確実に温暖化の影響だという報道をするだろう。平年よりも寒くなったり暖かくなったりするのは当然のことであり、むしろ平年通りのぴったりの平均気温になるほうがおかしい。世論の誘導以外の何者でもない。
 なお、温室効果ガスが増えると、夏と冬の気温差である年較差は減少していく筈だ。この点からしても最近の酷暑と厳冬は説明できないし、温室効果ガスとの因果関係などあまりにも複雑過ぎて誰にも説明できない。神のみぞ知るというところだ。
 NHKなど、視聴者から取り上げた受信料という「上納金」から報酬をもらっているくせに、いちいち視聴者に対して地球温暖化の脅威を煽って不安を与えているのだ。世直し組のつもりか。

 地球温暖化懐疑論者による論点の混在

 地球温暖化論に批判的な論者は、無意識に論点を混在させているように感じる。
・地球温暖化は進んでいない。
・温暖化しても困らない。
 
 北方領土問題について

 最近ロシアがこの問題について強圧的になっており、不安が広がっているみたいだ。どう考えればいいのか?
 日本は米国の一自治州であり、独立国ではない(自治州というのが言い過ぎなら、自治権が与えられた自治国家と考えてもいいだろう)。とすると、これは日露間の問題ではなく、米露間の領土問題だということだ。尖閣も然り、竹島については、韓国も米国の一自治州のひとつなので、米国内の州同士の境界紛争ということになるだろう。
 ところで、日本は米国の属国だといって嘆く論客が左右問わずいるが、さほど嘆く必要はない。それをいうなら、欧州諸国も米国の属州だし、南米北米のほとんど、オセアニア、東南アジア諸国などなど、地球上で米国の属州でない国のほうが少数派だ。中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・イランなど・・くらいだろうか。
 なぜ米国は自国の自治州の一部が占領されているのに、ロシアに抗議しないのか? 

 小児癌と後遺症について

 さっきクローズアップ現代を見てびっくりしたので書く。
 小児癌を治療して回復した患者について、「治りました。再発の恐れはありません。」という調子で、二次的な後遺症に後で襲われるなど、医療関係者ですら予想もしていなかったのだそうだ。
 私は医者でも医療関係者でもないが、それでも、幼少時に癌の治療を受けた患者が、たとえ完治したように見えても後で何かが起きる、少なくとも健常児よりも異変を起こす可能性が高いだろうという見当は付く。

・癌治療というのは身体に良いから行うのではなく、むしろ逆に害毒だからこそ効くのである。
・癌を発症しやすいという体質は一生変わらない(当然だ)。

 最初に登場した男性について、中学くらいから背が伸びなくなってしまったそうだが、この時点で親や関係者は、(?)と感じなかったのだろうか? 早めに成長ホルモンを投与しておけば低身長を改善できていただろう。なんで誰も気付かなかったの? 不思議だ。
 日本の医学界は最高の偏差値の人材が集まる分野であり、報酬も凄い。この体たらくはいったい何なのだ? 呆れた話だ。その後の番組の展開が見もので、例によって「先進国」の英国を紹介した後、まともな議論をしない国谷キャスターを相手にどうでもいい無駄話を垂れ流す。あんたらいくら報酬をもらっているの? 恥ずかしくないのか?

 株価予想システムはどこまで有用か?

 昨日たまたま見たクローズアップ現代という番組で、株価を予想するシステムの開発に取り組んでいる若者が取り上げられていた。彼らのような挑戦者を支援する制度を・・・・というような主張だった。

 疑問点を列挙すると
・それで本当に儲かるのなら、まず君自身がそのシステムを使って億万長者になってみたまえ。それが強固な証拠となる。そして君自身に投資すればいい。
・システムの開発に費用がかかり、まだ完成していないというのなら、的中率が八十数パーセントという数値は信用できるのか?
・よく指摘されることだが、本当に儲かるのであれば、自分だけが使って誰にも教えない筈ではないか?
・株の売買というのは、短期的にはゼロサムどころかマイナスサムである。かりに高確率で株価の予測が当てられるとしても、特定の少数者が使用した場合にのみ利益が上がるということになる。
 株価が80%以上もの確率で的中できるのなら、数十万円程度の元手から数十億~数百億円くらいにまで資産を増やすことなど朝飯前の筈だ。投機家の渋谷高雄さんは、百万円から株式の売買で資産を増やし、現在時価数億円くらいに達しているらしい。この渋谷さんですら、的中率は6割をやや下回るくらいが限界らしい。
 上記の事情は、株式投資に関しては初歩的な知識に過ぎない。株価の予想システムの設計と開発ができるくらいだから、その理数能力は数検一級どころではないだろう。すくなくとも超級か超々級くらいはあるのではないか。理数の準落ちこぼれの私ですらこの程度のことは知っている。こういうのを専門バカというのか。

 出産適齢期について

 あまりテレビは見ないが、クローズアップ現代でこのテーマについて放映されていたのを4分の1ほど見た。出産には適齢期があり、これを過ぎると妊娠が困難になり、障害児が生まれる確率も高くなるということを知らない女性が多いというような内容だったようだが、仕事やキャリアを優先して出産適齢期を逃がす女性というだけで驚かされる。女性の社会進出が話題になっていた頃、仕事がおもしろいとかやりがいを感じるというような女性が話題になっていたが、もちろん誇張だとは思うが、私のような屑男からすると驚異だったものだ。今まで仕事でやりがいや楽しさを感じたことなど一度もない。基本的に、労働というものはしかたなくやるものであり、一生働かなくて済むほどの資産があったらすぐに仕事は辞めるだろう。結婚するに値する男が見つからなかったのかもしれないが、私からすれば、結婚か仕事かという選択肢が存在すること自体が贅沢極まりない。それ以前に、仕事にやりがいを感じられるというだけで贅沢ではないか。そんなのは一定以上の能力や才能を持つ特権者だけに当て嵌まるものではないのか。
 フェミニストは、いつ結婚しようが出産しようが、それは個人の勝手で口出しすべきではないと批判するかもしれないが、健康保険も税金もみんなが支払っているのだ。高齢出産が増えてダウン症の子供が増えれば、社会的な負担も増えるだろう。個人だけで生きていけるものではないのだから、そんな考え方は無責任だ。
 いくら高齢出産に無知だったとはいえ、まさか50~60歳になっても出産できると考えていたわけではないだろう。良識的な女性であれば、出産時の危険はもちろん、産まれてくる子どもが障害児になったり奇形児になったりする危険性をできる限り少なくしようとする筈だ。いくら女性の権利とはいえ、自分の子どもが障害を負ったり奇形児になったりする可能性よりも、自分の仕事やキャリアを優先するというのは、本人の性格に欠陥がある可能性が高い。このような母親不適格者への不妊治療は中止すべきだ。すくなくとも公的な支援はすべきではない。広義の幼児虐待に抵触するだろう。
 なお、父親も高齢になると自閉症児の比率が高くなるという統計もあるらしいが、年齢による影響以外に、このような子供を生む素因の親は晩婚化しやすいという要因が働いている疑いがある。
 
 核廃絶について

 核廃絶に成功したとしても、それはあくまでその時点で廃絶できたということであり、未来永劫にわたって核兵器がないままの状態が維持できるのかどうかは誰にも分からない。なにしろ人類は、その気になりさえすればいつでも製造することが可能なのだ。あと数百年後か数千年後、何かをきっかけとして再度核兵器が製造され、実戦で使用されるかもしれない。核兵器の存在が知られていなかった過去の時代へと逆行することは不可能だ。

 フェミニストの論理

 「マグロを密漁乱獲するのは、大量に消費する日本に責任がある」と彼らはいいたいらしい。これは、買う側が悪く、売るほうには責任がない。むしろ、同情されるべき被害者だという、フェミニストの論理だ。麻薬・覚醒剤・シンナー類も、買うほうが悪く、売る側には責任はないらしい。それどころか、救済されるべき被害者なのだそうだ。事実EUは漁業者の経済的保障を条件としているらしい。日本にその代金を負担させるとまでは言っていない。が、シーシェパードなどそう言いたげだ。北朝鮮が合成麻薬を密造し輸出するのも、輸入する国が悪いのであり、北朝鮮はこうした国々の犠牲者なのだ。

 電気自動車は普及しない

 地球温暖化対策のひとつとして、排気ガスを排出しない電気自動車が脚光を浴びている。が、あまり普及しそうにない。電気自動車の性能のほとんどは蓄電能力に依存するが、今後どれほど巨額の投資をしてどれほど優秀な技術者をどれだけ多数かき集めて、どれほど多くの時間と労力を注ぎ込んで研究しても、電気という物理現象が本来持つ、貯留に適さないという性質そのものは変わらない。ちょうど、生まれつき勉学に適さない子どもは、どれほど優秀な教師がどれほど熱心に指導し、彼らがどれほど頑張って勉強しようとも、たいして成績は伸びないのとそっくりだ。大衆がとかく抱きがちな、学力とか技術というものは、努力次第でいくらでも伸びていくものだという錯覚や幻想なのだ。「三つ子の魂百まで」という諺通り、生まれつきの体質そのものは教育では変わらない。多少は進歩するかもしれないが、注ぎ込む金額と時間と労力と比較して成果が小さいという不均衡は改善しない。問題児はいつまで経っても問題児のままなのだ。

 堕落し続けるテレビ

 少し前から、バラエティー番組などで、何か話題が上ると、みんなで、「エーッ!」と驚いてみせるというのが横行している。はっきりいってこんなことしか芸がないのである。呆れたことに、最近ではNHKのキャスターまでがまねをしているのだ。ほんとにあほばかりだ。どこまで堕落していくのか。視聴率の下落と比例している。

 道州制の導入について

 地方分権と混同されやすい道州制だが、論点である地方と都心部の格差縮小効果は疑わしい。実際に導入してみると、、、

1地理的財政的に有利な州と不利な州があるため、各州間の格差ができる。
2それぞれの州都への人口集中が起き、そこ以外の場所は過疎化が進む。

 そもそもどこを州都にするかということで、近隣の県同士での対立が起きるだろう。どのようにしようとも格差はなくならない。

 「他人の不幸は蜜の味」か?

 他人の不幸を喜ぶことを良くないことと罪悪視する風潮があるが、このようなひとたちは、自分が不幸か低能か好ましくない環境にいるので、こんなことを考えるようになってしまうのだ。との批判がある。確かにそのような傾向はあるだろう。しかし実際は、他人の不幸を喜んでいるというよりも、不幸な境遇にいる人間は、自分よりも上位の存在による圧力を感じていたために、不幸なことが起きるとその圧力が軽減されるので「やれやれ」と感じているのではないか。これは人間の持つ当然の特性といえることで、批判されることも罪悪感を感じることもないのではないか。

 堕落する保守派

 ふだんから日本人の、とくに若年層の男の軟弱化をさんざん批判しておきながら、何とか賞とか大リーグやワールドカップでの活躍があると、自分たちの手柄であるかのように自慢するのだ。なんであんたらに評価されないといけないのだ?
 おまけに、自衛隊と天皇と憲法くらいしか話題がないのだ。こんなことでは若い世代が参加してこないだろう。

 左翼と同じ穴の狢

 学校で行われている性教育を批判する一方で、愛国教育やら道徳教育を推進しているのだ。とかく国家や公的機関に問題解決を委ねるという点で、じつは左翼と同じ穴の狢なのだ。人間は教育次第でどうにでも変えられるという、教育真理教を信仰しているという点でも同じ穴の狢だ。教育などしないよりかはましという程度の効果しかない。
 日本の駄目さを嘆く前に、自分たちの抱える問題点を自覚せよ!

 客観的に見て、やはり経済界の言論がいちばんまともだ。現実を見る目があるからだろう。
 というわけで、
 保守派⇔左派(これは間違い)
 (保守派と左派)⇔経済界

 お金がないと勉強できないのか?

 少し前から、「お金がないと塾に通わせることができない」だの、「教育費にこれだけかかる」だのといって、あたかもお金がないと勉強できないかのような風潮が蔓延しているが、本当なのか? お金があったほうが何かと有利なのは説明するまでもないが、お金が無いなら無いで何とかしようとは考えないのか? 辞書だけで英検一級に合格した人もいるらしいし、図書館から洋書や英字誌を借りて読破するとか、数学の解説書を借りて読むとか、いろいろできるはずだ。ネットが見れるのなら、いくらでも見つかるだろうし、やるべきことをやらずにおいてお金のせいにするなど恥ずかしくないのか?

 日本の危機

 日本の危機というと、財政赤字と少子高齢化、およびニートなどが話題になるが、ここでは、マスコミが取り上げない現実と実態を取り上げる。
 低学力者は読んでいて気が滅入るかもしれないが、落ちこぼれの低学力者がこんなブログを読むわけはないので、遠慮なく書く。
 よく、学歴や収入と婚姻率とは正の相関があるというようなことが指摘されるが、私の印象ではむしろ逆であり、低学力者ほど早婚で多産だ。なにやら、貧乏人や貧困国の子だくさんを連想するが、これが当たっているとすれば、日本の危機である。
 学歴無用論はあまり聞かなくなってきたが、ネットで調べると依然として学歴など役に立たないといった記述を目にするが、学力そのものの有用性はともかくとして、当人の社会的品質と性能及び価格を示すものとして無視することはできない。その証拠のひとつとして、世界中のあらゆる国に散在するあらゆる企業、公務員その他さまざまな職業の採用時に、学歴や学力を一切参考にしないとか、低学力者を優先的に採用する所などほとんど存在しない。あったとしても特殊例だ。

1学力偏差値と犯罪発生率とは統計上負の相関がある。
2いじめや虐待や薬物その他の問題行動の頻度とも負の相関がある。
3おそらく肥満率、ということは、生活習慣病の発生率とも負の相関がある。低学力者には偏食する人が多く、毎日毎日ジャンクフードばかり食べてジュースばかり飲んでというように、でたらめな食生活をする人が多い。
4ということは、寿命と学力偏差値との間には正の相関がおそらく存在する。
5交通事故や交通違反の頻度とも負の相関がある。
6運動能力と学力とは正の相関があり、典型的なガリ勉児のイメージだと、勉強はできても運動はさっぱり駄目という印象があるが、平均値や傾向では逆であり、学力の優れている者は運動能力もたいてい優秀である。
(追記)低能力者がしばしば早婚なのも、自分の短命性を察知しているからかもしれない。問題行動が多いので、おそらく離婚率と再婚率も高いだろう。このことがますます多産化させているのかもしれない。

 このほか、企画力・独創性・動画の作成と編集その他もろもろ、基本的に、成績優秀なひとは何をやらせてもうまい。演奏から作詞作曲、デザイン、プログラムその他など・・よく、優等生やエリートの犯罪が話題になるが、特殊例であるがこそということを忘れてはならない。元暴走族やヤンキーが弁護士や予備校の講師になったというのも特殊例だろう。彼らの多くは準知的障害ではないかと疑っている。少年院に収容されている非行少年のほとんどは、九九が満足に暗唱できないなど、小学校の低学年程度の基礎学力も身についていないらしい。
 いくら猛勉強したとはいえ、九九もあやふやだった元落ちこぼれが、微積分の計算方法や証明問題について指導できるようになるというのは驚異としか言いようがない。よほどの特殊例だろう。筆者はもちろん予備校の講師など務まらない。水準が低過ぎて使い物にならないからだ。「日本の論点」という雑誌に記載されていた義家先生の教育論を読んだことがあるが、読む価値は感じなかった。
 なぜ成績優秀な人材を優先的に採用するのかがわかるだろう。企業・国家・自治体その他の、人間が集まって活動を行う組織は、どれだけ競争力が確保できるかということは、優秀な人間がどれだけ集まるかということでほぼ決まってしまう。低能力者はどれだけ集まっても競争力の強化にはならない。それどころか、治安の悪化・問題行動が増えるなど、むしろ悪化してしまう。そしてこの優劣関係は何をどう工夫しても逆転しない。
 外国人労働者や移民の受け入れの是非が話題になるが、一律に扱うのではなく、能力偏差値によって分けて扱うべきだ。優秀な人なら受け入れてもかまわない。むしろ積極的に採用したほうがいいかもしれない。しかし、低能力者を受け入れるとどんなことになるか。もうおわかりだろう。いかなることがあっても認めてはならない。したがって、「あなたは外国人労働者の受け入れに賛成ですか? 反対ですか?」という設問自体が×。
 低能力者ほど多産であり、一方で少子化が進んでいる。このまま放置しておくと、人口に占める低能力者が増えていき、競争力の低下。社会負担の増大。治安の悪化等を招き、いずれは後進国へと転落してしまうだろう。知能というものは遺伝だけで決まるものではないし、生まれつきの潜在的な才能がすべて遺伝的に決められるわけでもない。話がややこしいが、遺伝の影響がかなりあるのは事実だ。ものまね親子の青木さんの才能はあきらかに遺伝的なのもだし、優秀な両親の間に生まれた子どもはたいてい優秀だ。親が優秀なのに子どもは出来が悪いという例もあるが、これは、遺伝による影響を否定する証拠とはならない。知能がどの程度遺伝の影響を受けるのかということは、その気になればすぐに統計が得られる筈なのに、何らかの勢力が阻止しているのか、あるいはマスコミも知ってはいるのだか報道しないかのどちらかだろう。
 保守派は、憲法問題やら戦後教育の害悪やら防衛予算などから国家の危機を訴えるが、上述の事情による国内からの瓦解(やや大袈裟かもしれないが)現象については聞いたことがない。国力を増強し競争力を強化するには、優秀な両親にはできるだけたくさん子どもを産んでもらい、低能力の親には産児制限をするのだ。これを読んで非難するひとにはこう返答しておく。低能力者が差別されたり迫害されることがあってはいけない。それはそのとおりだ。しかしそのことと、現実がどうなっているのかとは分けて考えなければならない。この考えをけしからんといって非難するのなら、結婚相手に収入や学歴の条件を要求することも非難(というか禁止)しなければならないはずだ。
 少し前に、親の収入と子どもの学力とは相関があり、このことを、あたかも本人の学力が経済的なものだけによって決まってしまうかのような印象を与える取り上げ方をしていたが、これもむしろ逆であり、収入と学力偏差値とはたいてい比例しており、収入の多い親は学力も高く、ということは、子どもも生まれつき優秀な素質を持っていることが多いのだ。では、低学力の子どもを塾に通わせて家庭教師を派遣すれば効果があるのか。といえば、あることはあるが、その効果は生まれつきの潜在的な素質、向き不向きを超えることはない。
 保守派には外国人の受け入れに批判的な論者が多いが、優秀な人材の受け入れ以外に国力を強化する方法はなかろう。私の提案でも実施しない限り、どうしていくのか?
 この考え方を危険な思想として批判したい人たちは遠慮なく批判すればいい。だが、この事実は動かない。社会を発展させ水準を上げ、モラルが向上して治安を良くするには、この方法が最も効果的で確実なのだ。教育改革や制度改革による効果など知れたものなのだ。
 「いや、頭が良くても性格が悪くて嫌な奴はいるし、頭が悪くてもいい奴はいるよ。」という反論があるだろう。そのとおりだ。しかし、その、人当たりが良くて性格がよく問題行動が少ないのなら、それもある種の優秀さだ。このように考えればいいのだ。成績は良いが性格が悪い人と、成績は悪いが性格が良いひとが結婚して子供を産むとする。その場合、両者の良いところを遺伝させ、劣った要素は淘汰するようにすれぱいいのだ。そうすれば成績が良くて性格も良い子供が誕生する。遺伝情報は大部分が常染色体内にあるのでそんなにうまくはいかないが、そういう方向性を目指せばいいのだ。

 動物愛護教

 シーシェパードなどの活動によって、動物愛護がしばしば話題になる。このことについて気になることを書いてみる。
 捕鯨その他を残虐だとして非難する人たちは、人間が捕獲しなければずっと長く生きていられるのに、捕獲して食べるとはけしからんと言いたいらしい。私はどちらかというと、動物愛護に嫌悪感を感るのだが、その私でも、ここでは捕鯨の是非については論じないが、すくなくともなるべく苦痛を感じないように、そしてなるべく短時間に死亡するような措置くらいはしてもいいのではないかと思う。動物に人道的というのはおかしな言い方だが、適当な単語がないので、動物が人道的に扱われる権利とすると、誰もこれを否定することはできないだろう。

 なぜ動物愛護論者は、肉食獣を非難しないのか?

 あらゆる生物は、生きている間はできるだけ苦痛を感じることなく活動し、なるべく苦しまないで死ぬ権利を持つ。これは、動物愛護というよりも動物の人道的な権利ということになるだろうか、たとえば、食用の家畜は、どうせ死ぬのだから同じだろうということで、生きたまま焼いたり肉を取り出したりすれば、たいへんな非難を浴びるだろう。
 しかし、この考え方を徹底していけば、肉食獣による捕食行為にも介入しなければならなくなるだろう。ハイエナやライオンその他の肉食獣は、しばしば獲物が生きたまま内臓を貪り食うのだ。このことについて、自然の掟だとか、彼らは生きていくためにはしかたないのだといったことが言われるが、そんなことは獲物の動物にとっては関係ないことだ。なお、ブチハイエナは、捕食目的ではないのに草食獣を虐殺することがしばしばあるらしい。
 鯨に生まれて人間に捕獲されるか、家畜に生まれて食用として殺されるか、野生の草食獣に生まれて捕食されるのか、それらはまったくの偶然だ。あらゆる動物の人道上の扱いの権利を主張するのなら、肉食獣に襲われて助かる見込みがないと判断した時点で、頭部を狙撃して即死させるか、麻酔薬を打ち込んで痛みを感じなくするようにしなければならないのではないか。「いや、それでも、人間が行う行為だけでも減らしていくべきだ。」と言うかもしれない、それはそれで意味はあるが、それならば、動物愛護団体が非難する、中華人民共和国内の動物園で行われているらしい、虎の群れの中に生きた牛を放すという行為はどうなのか? 人為的なものであれ、野生の捕食獣が食べられようが、行為としては同じだ。犠牲者である草食獣にとっては、そんなことは関係ない。野生か家畜か、人間がかってに別扱いしているだけだ。これこそ、差別そのものではないか。
 それにしても、生きたまま内臓を食べられるというのはどんな感じなのだろうか?(動物愛護論者はこのことについて考えたことがあるのだろうか?) 昔はこのような残虐な処刑方法がいろいろあったそうだが、それに似たような虐殺行為が野生のあちこちで横行しているのだ。動物愛護を唱える人たちは、これについてどう考えているのだろうか?
 彼らは肉食獣というよりも、虐殺獣と呼ばれるべきだ。

 靖国参拝について

 この問題には詳しくないので深入りはできないが、客観的に考えても、「靖国に参拝すること」が「過去の過ちを反省していない」とか、「軍国主義化の象徴」といったような批判は的外れだろう。もし本当に日本が軍国主義化していたり好戦的になってきたり、さらには戦争に突入しようとしているのだとしたら、かりに靖国に参拝しようがしまいがそうした方向へと進むだろうし、「過去への反省とお詫び」を表明しても、「反省しているふり」をしているかもれない。本心から反省しているとしても、その時点で反省しているだけのことであり、後で気が変わるかもしれない。そんなことは誰にも分からない。
 現実には戦後の日本は米国内の自治国家になってしまったので、自律的に戦争を実行することは不可能になっているが、あえてこのことは無視して考えた。

 私は非国民なのだ!

 松井秀喜さんと長島茂雄さんが国民栄誉賞を受賞したらしい。
 私は野球に興味がないので、実感がない。フィギュアスケートにも興味はないので、羽生結弦さんのこともどうでもいい。
 こういう人間は非国民になってしまうらしい。

 保守派の正体

 国内ではやたらと強硬な発言をするくせに、諸外国からの批判がくるとすぐにおとなしくなるのだ。家の中では妻や子どもを怒鳴るくせに、いったん外に出るととたんにイエスマンに変貌するようなものだ。

 バカ防衛論

 徴兵制の復活を唱える輩も多いが、もしそうすると、何しろ一律強制に徴収するわけだから、九九やアルファベットもあやふやという奴まで入隊してくることになる。そうすると、あほでも使いこなせるような武器にしなくてはならなくなるだろう。あほでも使える武器が戦力になるのか?
 ついでに言っておくが、どうしても徴兵制の復活を主張したいのなら、まず、あなた自身が入隊すべきだ。それから発言するべきだろう。

 子供真理教

 道徳教育を推進する論客も多いが、道徳教育が功を奏するためには、道徳の定義はともかくとして、言われたことを唯々諾々と受け入れる迷える子羊か純真無垢な天使のような存在を想定しなくてはならない。言う事を聞かずに悪さばかりする悪ガキなど、道徳教育の前提自体が成り立たない。このような、じつにおめでたい、「しあわせ真理教」的な空想をするのも保守派の特徴らしいのだ。その一方で体罰を肯定したりと、発言していることに筋が通らない。

 左派以上の悪平等主義者ぶり

 徴兵制などその象徴だが、とにかく、個人差というものをまったく考慮しないのだ。その徹底した悪平等思考は、日教組以上の左寄りだ。

 このような、非効率的かつ非現実的な提案をし、間接的に国力の低下を狙っているのだ。まさに「隠れ反日」「隠れ左翼」の「エセ愛国者」なのだ。
 偉そうに軟弱男の批判ばかりするが、保守派こそ叩き直すべきだろう。精神が腐っとる。

 保守派の論客には自衛隊の優秀さを自賛する人が多いが、これはまさに徴兵制とは反対に、特定の人間だけが任務に就いているからこそ質の高いサービスが提供できるのだ。誰にでもできることは価値がない。ということは質が悪いということだ。運転免許証のようにだれでも医師免許が取得でき、みんなが医師になれるようにしたらどうなるか。あるいは、だれでも一流大学に合格できるようにしたらどうか。もはや一流ではない。こういう簡単なことがわからないらしい。(国民は税金という「みかじめ料」を支払う。あるいは徴収されており、その見返りとして国家という巨大な暴力組織から治安と防衛というサービスを享受しているのだという解釈ができそうだ。) 
 国力を強化するのなら、まずそうした悪平等的な発想をやめるべきだ。向き不向きや適性は千差万別だからだ。どの職種でも採用試験や資格を条件にしているのも当然だろう。受精卵が細胞分裂を繰り返して、徐々に別々の器官へと分化していき、骨格・筋肉・臓器・大脳その他へと専門化特殊化していくからこそ高度な「性能」が発揮できるのだ。このように、各個人の特性に合致した得意分野で最大限の能力を発揮できるような社会体制にするべきだろう。それが結果的に防衛力の強化になるのだ。
 徴兵制の復活論者には防衛力の強化ということよりも、軟弱化した男たちを叩き直すためにこうしたことをやらすべきだと考えているのか散見できるが、男らしさ=テストステロンによる男性性の強化ということでは、むしろ逆効果なのだ。かつて日本軍で行われていた、ひとりが失敗すると全体責任と称して全員を殴る。やたらと怒鳴りつける。体罰を加える。過酷な訓練をさせる。こういうことをすればするほど血中のテストステロン濃度は低下してくるのだ。ということは、攻撃性、闘争性、性欲の亢進、筋肉増強効果が低下し、これをどんどん進めていくとやがて中年男性の更年期障害みたいになり、最終的に去勢された宦官のような状態になるのだ。意外なことに軍人というのはあらゆる職種中最もテストステロン濃度が低いのだ。ということは、徴兵制復活論者は、日本の男たちをフェミニストお好みの草食系にすることを狙っているのだ。
 現代の男たちのテストステロン濃度が低下してきたということはなく、むしろ戦前戦中のほうがテストステロン濃度は低かった筈だ。昔のほうが上下関係が厳しく、体罰や過酷な訓練や労働はずっと多かったからだ。現代の男たちの軟弱化や女性優位は、筋力や闘争性といった要素の価値が下落してきたことと、男の人口比率が増えてきたために買い手である女性が優位になっているためだ。
 もっとも、テストステロン濃度が低下すると免疫力が回復するので、病気にかかりにくくなるという良い面はある。しかしそうした強さを要求するのなら、女性のほうがテストステロン濃度が低いうえに女性ホルモンは免疫を強化する作用があるので、女性のほうが強いのだ。
 学生時代に部活に在籍したくらいの経験しかなく、部員を怒鳴りつけたり体罰を加えたりやたらと過酷な訓練を続けさせたりする部活の顧問を連想する。筋力トレーニングにしても、食事・栄養・睡眠・休息等々についてきちんと管理しながら行わないと効果は上がらない。むしろ有害だろう。保守派は事あるごとに日教組を批判するが、むしろそのような、ろくな専門知識もないのに不毛な精神主義や根性主義を振りかざして体罰を加える部活主義教員こそ問題視すべきだろう。そして、軟弱男を叩き直すことを考える前に、自分自身の頭脳を叩き直すべきだ。

 保守派の将来

 彼らはしばしば「昔は良かった。」と言うが、それなら、水洗式トイレの製造と販売は禁止して、懐かしい汲み取り式便所を普及、というか復活させるべきだし、インターネットの利用とスマホ、パソコン、携帯の類の製造と販売と所持と利用も禁止すべきだ。なにしろ、こうしたものが存在しなかった過去の時代のほうが良かったのだから。
 現実は逆で、昔よりも未来、というか将来のほうが良いのだ。次々とさまざまな知見が得られてくるので、古いものや伝統的なものの価値は相対的に下落していくのだ。これは文明や文化や科学技術の発展に伴う不可逆過程であり、だれがどうやろうとも阻止したり逆転させたり逆行したりすることは不可能だ。
 遠い将来には、いずれ保守派の存在自体がどうでもいいものとして忘れ去られていくだろう。残っていたとしても、せいぜい生きた化石程度の価値しかないだろう。
 
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