なんでも評論家

さまざまな分野についての評論・エッセイ等を書き綴る。
(大切な目を傷めないために、一定時間ごとに目を閉じましょう)

男女の産み分け技術について。

2008-08-01 | Weblog
 初産児の項目で男女の産み分けについて触れた。この問題にはあらためて詳しく記述したほうがいいと感じたので、ここに書くことにした。
 「男女の産み分け」という言い方自体が誤解を産んでいるようで、受精した胎児の性別が判明してから中絶するということと捉えている人もいて、「いのちの選別をするなどけしからん」という書き込みも多数あった。たしかにこれは広義の殺人でもあり、好ましいことではない。
 ここで取り上げるのは、そうではなく、X精子とY精子とにあらかじめ分離してから受精させるというもので、命の選別にはらないだろう。受精以前の精子は生命とは認められないし、もしこれを生命の選別と言うのなら、避妊行為ですら生命の選別になってしまうではないか。
 現在でも認められているのは、父親が伴性劣性遺伝病の患者で、健康な子供がほしいとき、保因者でない母親との間で男の子を作れば正常な子供が生まれる。あるいは、母親が保因者で父親が正常なとき、女の子を産めば発症しない。この場合男女の産み分けを批判することはできないはずだ。
 反対派の典型的なものは、「神様からの授かりものなのだから、人間が手を加えてはいけない。神の領域に踏み込むと罰が当たる。」といったものだろう。ようするに、自然主義者で、ありのままにしておくのが最適であり、一番問題が起こらないということなのだろう。
 さて、それなら、医療など不要ではないか? 医療行為というのは自然に反する行為であり、生まれてすぐに手術などの医療処置をしなければ生命が維持できない人もいるし、病気なり怪我をするなどしても、ほったらかしておけばいいではないか。考えてみれば分かるが、臓器を摘出したり放射線を照射したりすることが身体にとって良いわけがない。医療行為というものは身体に良いからするのではなく、やらないとよけい悪くなるので、しかたなくやるものなのだ。これらから、自然というものは本来不条理かつ徹底的に不平等なものであり、医療とか文明とかいうものは、その不条理さ不平等さを減らしていくものとして発展してきたのだ。
 ざっと挙げれば。

1個人の能力差という不平等。
2男女の不平等。
3男女の非対称性。

 そもそも男と女は、国語の教科書には対義語として出てくるが、両者間には、たとえば西と東、右と左のような対称性は成立しない。生物学的特性がそのまま社会的な問題に対応するわけではないが、無関係でもない。
 男、というか、哺乳類の雄は雌に寄生して生きているのである。ただ、すべの生物が当てはまるのではなく、鳥類は逆になっている。
 
1Y染色体だけでは生命を維持できない。というか受精卵は成長できないので生まれてこない。
2男性の生殖機能に関する遺伝情報ですら、大部分をX染色体に依存している。
3Y染色体が受精すると、宿主にいろいろな害を及ぼす(テストステロンを分泌して免疫を破壊し、短命化させる等)。

 これらの特徴は、寄生虫やウィルスとよく似ている。いわば、哺乳類の雄は、雌に寄生して生き延びている寄生虫のようなものなのだ。
 最近の傾向として、「女に生まれてよかった」「今度生まれ変わるとしたら、やっぱり女に生まれたい」という女性が増えているのも、社会状況が女性に有利になってきているということもあるが、運よくY染色体という寄生虫に感染することを免れたことの安心感みたいなのを嗅ぎ取っているのではないか?

 初産児は危険が大きいが、とくに男児はそうなりやすいということもひとつあるが、それ以外にも、男は放置しておけばさまざまな問題を引き起こす生来の問題児なのだ。これは別項で説明するが、女性というのは、極端に言えば「性ではない性」なのだ。それゆえに、性に関するさまざまな問題が起きにくいのだ。
 たとえば、男女の産み分けに反対する自然主義者は、男と女は自然と半々に生まれてきてちょうどバランスがとれるようになっていると考えているようだが、もともとY精子のほうが受精しやすく、死産や流産その他による死亡率は男のほうが高いため、この淘汰される分でようやくバランスがとれていたのだ。ところが、医療や食糧事情その他が改善されてきたため、そのままでは男が余るようになってしまっているのだ。このことはどう考えるのだ? 一夫一婦制であるかぎり、誰かが一生独身で子供を持つことなくこの世を去るしかない。彼の遺伝子も廃棄処分になる。これは、「生命の選別」ではないのか? 
 男女の産み分けに頼らずにこの問題に対処するには、次の方法しかないだろう。

1一夫多妻制ならぬ一妻多夫制を認める(ただし、2人の夫のどちらも納得できないだろう)。
2XY型女性を増やして、女の子が生まれる比率を高くする。XY女性は、女の子を男の子の倍の確率で生むので(困難だろうが、絶対に不可能と言うわけではない。)。
3クローン人間を作り出すことを合法化し、売れ残った独身男性は、自分のクローン娘を作って育て、その娘に自分の子孫を託す(これは厳密にはクローン、つまり、自分の遺伝情報の完全なコピーではないが、当人の染色体しか利用しないので、とりあえずクローンと考えておいてよかろう)。

 これら以外に方法があるだろうか? なお、2と3は産み分け反対の自然主義者は容認しないだろう。それなら、がまんして1を受け入れろということか?

 男女の正しい性比とは?

 本人がどう考えていようと、それは本人たちの勝手であり、他がとやかく言うことではないだろう。それにもかかわらず、あえて指摘、というか考えてみる。
 それなら、男女比が1:1であれば正常なのかというと、これでも男が多過ぎるのだ。そもそも人間も含めて、雄は数が多過ぎるのである。われわれはついつい、というかとくに、地球を生命のオアシスと無邪気に考える自然主義者たちは、自然界のありのままが理想的だと考えがちだが、余った雄が淘汰されようがそんなことはおかまいなしなのだ。草食獣の出産直後の仔獣が食われようが、ブチハイエナの初産仔の大部分が死亡しようが、初産後母親の二割が死んでしまおうが、種として繁栄していればかまわないのだ。
 では、正しい雄の比率とはどれくらいか? たとえば、一匹の雄が多数の雌を独占するハーレムなどでは、オスは一匹いれば十分ではないかということになるが、そうでもない。もし一匹の雄がすべての雌との間で子どもを作れば、生まれてくる子はみな異母兄弟姉妹になってしまう。これでは、近親交配だらけになり、遺伝病の発生する危険が大きくなる(この考え方には異論もある)。メスはこのことを察知して、ボスの目を盗んで他の雄と交尾することもよくあるらしい。
 ということは、親近交配が起こらない程度に雄がいれば十分ということになる。この比率は、その集団がどれだけの数で構成されているか。他の集団から隔離されているかどうかによるだろう。計算するのは面倒なのでおおざっぱに言えば、日本国内だと、余裕をみても男は女の半分くらいの人口比で十分だろう。私には、これでも多過ぎるのではないかと感じる。最近の調査結果によれば、女の子を希望する親が男の子を希望する親のざっと倍くらいだそうで、これは自然な反応だと考えられる。もし男女の産み分け技術を普及させていけば、この比率になるだろう。売れ残り男も少なくなるし、伴性劣性遺伝病の患者も減るし犯罪も減るだろう。医療費や社会保障費の負担も少なくなる。
 問題があるとすれば、男が減ってくると、防衛と治安という、暴力組織としての国家の役目を担う人材が減ってしまうこと。危険な作業をする人材も減ってしまって社会問題になるだろう。国家の危機になるかもしれない。これらは女性にも務まらないことはないが、こうした危険を伴う任務は男が適しているのである。体格や腕力の差だけでなく、男性ホルモンの影響で、怪我をしたときに傷が回復するのが早いからだ。古今東西、危険な任務は男が担当してきたということには、それなりの理由があるのだ。しかしこのことと、適正な男女比とは別問題だ。男が減って困るのなら、男が少な過ぎるのではなく、女が少な過ぎるのだと考えればいい。

 産み分けに反対の人たちや、そんなこと、天からの授かりものなのだから、自然に任せておけばいい。という人たちは、それはそれでかまわない。が、男の子を産むことに不安を感じる母親がいることは事実であり、彼女たちの需要に応えるべく、受精前のX精子を分離して受精させ、女の子が産まれる確率を高くすることを認めるのはかまわないのではないか? とくに初産児が男の場合、危険が増大するということは、別項で説明したとおりだ。

 産婦人科学会は産み分けに反対しているらしく、ネットで調べたところ、かつて朝日新聞に掲載された「混乱を招く性のバランス破壊」という論説が載っていたので、これについてひとつひとつ反論してみる。すでにこの項目をお読みの人には同じことの繰り返しでうんざりするかもしれない。

1親に性別を決める権利があるのか?

2曰く、「産み分けの動機にはいろいろあり、社会の流行や迷信に影響される恐れがあり、マスコミの影響を受けた女性がアイドル歌手が女の子を産んでしあわせという記事によって、女の子を希望する母親が増えるかもしれない。」

3男女に大きなアンバランスが起きたとき、その混乱は収拾のつかないものになり、出生数にも予想し難い影響を及ぼす恐れあり、男児を尊重する中国で利用された場合、性のバランスが崩れてしまう。我が国の場合、少子化が進み、男女のアンバランスが拡大する恐れがある。

 医学博士のご意見である。このブログをお読みの賢明な読者には説明の必要がないだろうが、それぞれについて解説する。
 1について、これは親に性別を決める権利があるかどうかということよりも、むしろ生まれてくる子にどれだけ責任を持てるのか、どこまで不幸を回避してやることが可能かということが重要なのではないか? 精子を選別することが親の権利の乱用だというのなら、結婚相手を決めることも親の権利の乱用になるだろう。
 こんなケースを想定するといい。母親が筋ジストロフィーの保因者であり、父親は正常である。女の子を産めば発症しない。が、産み分けをせず自然に任せたところ、男の子が産まれた。筋ジストロフィーの患者だった。女の子にしておけば発症しないということを知っていたのに産み分けをせずに産んだ。このことを知った子供は親のことをどう思うだろうか? 
 2であるが、このひとは母親をバカにしている、というか軽蔑している。流行の影響もいくらかはあるかもしれないが、大部分は、直感的に男の子を産むことの危険を察知しているのである。これには十分な根拠があることは上述の通りだ。母親は、この著者が考えているような、安易に流行に乗るほど軽薄ではない筈だ。
 3。女の数が増えて男が少なくなっても女はさほど困らない。余裕をみても、男の数は女の半数くらいで十分だ。むしろ話は逆であり、自然に任せておけば男が増え過ぎて困るのだ。現代の母親の女の子の希望者が多いということはじつに健康な傾向であり、危険を避けると同時に男の数が多過ぎるということについても正しく対応できている。そもそも女性は、男が考えるほど男に関心も興味も抱いていないし、当てにしてもいない。
 ただ、中国やインドなどの比較的遅れた国は、安易に生み分けを普及させると男が増え過ぎて困ることになる。事実そうなっているが、中国では女の子を増やすキャンペーンを始めているらしい。が、先進国の親は共通して女の子をほしがっており、親の意向に任せておけばいいのではないか。「何でも市場原理に任すべきではない」と批判する経済学者や社会学者がいるが、性の比率は市場原理に任せておけばいい。世の親たち、とくに母親はそんなに無責任ではないし、もし男の数が少なくなり過ぎると、市場原理が働いて男の価値が高くなり、男の数が増えるだろう。増え過ぎると価格が下落して敬遠されるようになり、自ずと数が減って調整されるのである。
 しつこくなってしまうが、さらに追加するとこういうことになる。この医学博士は、医療という、自然に反する行為のもつ社会的価値によって報酬を得、地位と名声も与えられて大新聞の論説に載ることになった。自分が反自然行為によって地位と名声を得ておきながら、産み分けだけは反自然行為だから認めないというのは、言っていることとやっていることが食い違っているではないか。
 
 男性は全員伴性劣性遺伝病の保因者である。

 男女の産み分けを禁止するのなら、全部禁止にしなければ筋が通らなくなってしまうだろう。親が保因者の場合は産み分けが認められているそうだが、男性は全員潜在的な伴性劣性遺伝病の保因者なのだ。X染色体の遺伝情報は膨大であり、このことから、伴性劣性遺伝病の患者と正常者とは区画できるものではなく、ある程度連続しているのだ。X染色体が1本しかない男性は、それだけで女性よりも伴性劣性遺伝病の患者に近い存在なのだ。伴性劣勢遺伝病の患者が生まれる危険のあるときだけ産み分けを容認し、それ以外は認めないというのは、ダブルスタンダードではないのか。

 もうひとつの批判として、どちらかの性の子どもをほしがっている場合は、希望している性別と逆の子が産まれた場合、その子に冷たく当たったり、育児放棄をする恐れがあるというものだ。しかしこのような親は、産み分けが実現するずっと昔から存在していた筈であり、このような、人格に問題があるからといって、こうした親が子どもを産むことを禁止するわけにはいかないだろう。別に、産み分けをしたからどちらかの性別を尊重して逆を避けるようになるわけではない。むしろ逆であり、産み分けによって、希望の性別が生まれる確率を高くしたほうが、不幸な事態に陥る危険が減るのだ。

 男が女よりも少なくなっても男女共に困らない。逆になると男が困るが、代わりに女は選びたい放題になって都合がいいと思うかもしれないが、それはやがて社会不安を招き、いずれは治安の悪化その他の問題をも引き起こし、女性にとっても不幸になるのだ

 (追記)
 宇多田ヒカルさんの母として有名な藤圭子さんは、遺伝性の目の障害があったそうですが、この難病の5%くらいは伴性劣性遺伝性らしいです。ということは、男女の産み分けを利用すれば、発症率をある程度下げることが可能なのではないかと思われます。

 「女性の自死増加報道」の陰で「男性の自死」はなぜ記憶されないのか

 これも似た理由で、もともと女性の方が価値が高いうえに、供給過多による価値の下落によって、ますます男性の価値が下がっているのだ。

(寸記の続き)

 R-指定やりゅうちぇるに聞く「学校に行っていない私をどう思いますか」 不登校児たちが尋ねたインタビューの“迫力”

 例のゆたぽんくんの不登校をきっかけとしてこの話題が話題として登場することが多いが、何とも言い難い。私も基本的には不登校はおすすめしないが、かといって批判もしない。この記事のように、不登校は批判されるべき問題行動ではないのだ。と主張されても、本人たちにとってはさほど勇気づけにはならないのではないか。これはちょうど、不登校がニートや無職と同類と見なされているからなのだ。したがって、もしそうした反論を展開していくのであれば、ニートや引きこもりがバカにされるという風潮も変えていかなくてはならない筈だ。勉強と通学は子どもにとっての労働であり、不登校は労働を拒否しているように見なされるからだ。

 宗教法人教育教

 不登校と例の親子についての話を続けさせてもらうが、まず、私がおすすめする不登校児を救う方法とは、人間の知能や学力や性格や気質や行動特徴や、さらには薬物依存のなりやすさ等々について、生まれつきの資質による影響のほうが大きいのだし、じっさい実証されつつもあるのだ。したがって、学校や教育など、言われているほど、あるいは思われているほどの効果がないのだという現実を現実として正直に認めてしまおうということなのだ。そうすれば、不登校児や引きこもりだけではなく、通学しているものの成績が伸びないで悩んでいる子どもたちにとっても、多少は気が楽になるのではないか。ゆたぼんくんの無礼な言動や態度が批判されているようだが、そのほとんどが親の躾がなっていないからだという指摘なのだ。こういう面もなくはないが、むしろ生来の資質ではないか。ひろゆき氏はアホの再生産になると批判しているが、これは大げさで、むしろ反面教師として役に立つかもしれないし、そういう悪影響よりも、ヤフーや動画のコメントの大部分が、人間は誰でも、というか、あの親子のように生来知的に足りない人間ですら、教育や環境次第でどうにでも変えていけるという教育万能論を信じているらしいということのほうがむしろ驚きだし、私にとっては恐ろしいのだ。三つ子の魂百までという諺通り、生まれつきの体質によって大部分は決まっており、環境や教育はその傾向を助長させるに過ぎないのだ。

 追加すると・・

 わからないことがあったら、スマホやネットでしらべればいいじゃん!

 この親子にとってはこれで勉強しているつもりなのか。というか、そもそもネットで調べればすべて問題が解決するのなら、勉強も不要ではないか。
 勉強したくなった時だけ勉強する→勉強は労働の一種だとすると・・働きたいときだけ働く。それいでいいじゃん!

 トランスジェンダーがオリンピックに出場するのは賛成ですか?反対ですか?

 高須幹弥氏の動画を視聴した感想を書く。この問題の本質は、そもそも男、というか一般化して雄という存在は、男性ホルモンという筋肉増強剤によってドーピングしているようなもので、これと、Y染色体の長身の遺伝子によって女子よりも有利になっているというだけで、このふたつを除去してしまうと、男の方が身体が小さくなり、女子が男子枠に出場するのを禁止しなければならなくなる筈なのだ。

 車椅子の乗車拒否問題について

 私はJRの職員ではないし身障者でもなく、そもそもこの問題の状況自体がよくわかっておらず、部外者的な無責任な放言になってしまうが、感想を書いておく。
 問題点は・・

・利用する場合は数日前から連絡して相談してもらわないといけないのに、それをしていなかった。
・かなり重い電動車椅子を準備もなく運ばせるという無茶なことを要求した。

 ことあるごとに指摘しているように、健常者は障害者のほんとの現実を体感したり理解することは不可能であり、この人は先天性の骨形成不全症という病気か障害があるらしく、ということは、先天性なのだから、たとえば電動車椅子を持ち上げて運ぶのがどういうことなのかということを知らないし理解できなかった可能性も考えらなくはないかもしれない。これがたとえば、ある程度の年齢で事故なり病気によって障害を負った場合は理解できるだろうが、この事情が、この人の批判された問題行動に多少とも関与していたのかもしれない。とすれば、多少の情状酌量の余地もなくはないのではないか。
 別にこのひとや社民党の支持者ではないが、この問題について書けるのはこれくらいしかない。

 やる気が出ないときは・・?

 「こうすればやる気が出る。」というような動画が多数出ているし、そのほとんどがご都合主義的であり、あまりおすすめはできない。そんなうまい方法などないという認識に基づいて、むしろうまい方法など存在しないからこそ、そういうときこそがあなたが競争相手との差をつける絶好の好機なのだ。誰でもできることなどには価値がない。これはつまり、やる気が出るときには誰でも頑張れるし、そんなことをいつまで続けてもたいした結果にはつながらないのだ。やる気がないときにやるのはたいへんだからこそ、その分だけする価値も高いのだ。



 鉄道マニアは鉄道会社に就職できないのか?

 鉄道系ユーチューバーのスーツ氏が、上記のタイトルの動画を投稿していたので、暇潰しに視聴してみたが、予想通りの解説であり、とくに感想というものはないが、いくつか追加させてもらう。
 鉄道会社に限らず、しばしは好きなことを仕事にしたいとか、そういったたぐいの相談やら質問が話題になっているが、一流大卒で現役高校教師の夏木氏ですら、「(中略)そんなことができるのは才能のある一部の人間だけだ。」と発言しているし、そもそも好きなことと自分の得意なこと、向いていることとは一致するものではないのだ。そのうえ、鉄道という業種は衰退産業であり、駅でしか乗り降りできないという致命的な欠点があるため、地方の在来線はどこも大赤字なのだ。かりに運よく採用されたとしても、今後は駅の無人化や廃線や減便その他によって、配置転換やら希望退職その他に応じなければならなくなってくる可能性が高いし、あまりおすすめはできないのだ。こうなってきたのは鉄道会社の責任ではないし、沿線住民が悪いわけでもないし国や政府の責任でもない。航空路線やバス路線の整備や普及という面もあるが、なんといっても自家用車の普及が最大の原因だろう。これはすなわち、歴史や文明の不可逆過程であり、誰がどんなことをしても阻止することは不可能なのだ。そのうち優秀な人材にも敬遠されるようになってくれば、それがさらなる経営悪化や技術の進歩の停滞を招くという悪循環に陥る可能性も否定できないと感ずる。
 むしろ逆に、これは鉄道に限った話ではないが、むしろ好きだからこそその業種に就労せずに、稼いだお金で模型を買うとか、運転シミュレーターを入手するとか、スーツ氏のように鉄道であちこち旅行するという選択のほうが無難だし、鉄道というとどうしても大手のJRの希望ということになりがちだが、三島会社どころか本州の三社ですら 地方の赤字路線を多数抱えているので安泰とはいいがたい。都心の私鉄ならまだましかもしれないが、かといって将来性があるとも言い難く、今後はむしろ鉄道会社に就職しなくて、あるいは採用されなくてよかったという事態に陥るのではないかとさえ思う。

 ヘディング、脳に悪影響の恐れ(不思議の国のスポーツ界)

 例のごとくコメント欄に多数の投稿がされているが、不思議なことに、サッカーのルールを変更してヘディング自体を禁止してしまえという意見がほとんど見られないのだ。神経細胞はいったん死滅すると一生再生しないので、たとえその影響が軽微でも失ったものは一生戻ってこないのだ。この点にふれた書き込みも見かけない。これらがいわゆるスポーツ脳というものなのか。

 動物園で動物を飼育することはかわいそうか?

 動物といっても千差万別あり、置かれた境遇もさまざまで一様に当てはまるものではないか、肉食獣ですらその大部分は無事成獣にまで生きていられずに、病気や他の捕食獣に襲われて死亡してしまうようだし、草食獣などの捕食獣となれば、身体の小さな仔獣はまっさきに狙われて餌食にされてしまうし、怪我や病気になってもいっさい手当はないし、投薬も治療も受けられずに、ただひたすら苦痛に耐え続けて治癒するのを待つしかないし、捕食獣は非常に敏感なので、見つかれば真っ先に捕食されてしまうのだ。ライオンなど、一週間ほど餌が取れないということはしょっちゅうあるみたいだし、草食獣は餌の確保には苦労しないものの、栄養価が低くて消化も大変なので、一日の大半を食事に費やさなくてはならないし、反芻や食糞といったこともしなければならないのだ。観客の視線にさらされるとか狭い敷地で生活するストレスという苦痛もあるかもしれないが、一生食事を無料で提供してくれるし、病気になれば人間並みの高度な医療で対処してくれるのだ。見世物と狭い敷地等による欲求不満は、そのことへの労働だと我慢してもらうしかないのではないか。そうした問題はあるものの、野生での生活よりかはずっと恵まれているではないか。捕食獣に襲われる危険もないし、私なら、迷うことなく動物園での飼育を希望するだろう。

 竹田恒泰氏が五輪中止の世論に警鐘「賠償金を食らうことを知らない」「コロナに負けた烙印押される」

 この主張に対しては、すでに多くの批判的なコメントが書き込まれているので、とくに追加するほどのこともないが、私は以前からオリンピックそのものを廃止すべしという主張をしてきた人間であり、今でも変わらない。そもそも開催地は競技場の整備やら警備やら、選手や観客が怪我をしたり病気になったりしたときの対処など・さまざまな義務と責任を負っているにもかかわらず、開催についての権限を持たされておらず、違反した場合は賠償金を請求されるというのだからあきれたものだ。国家主権と自治権の侵害であり、保守派はふだんから、国家がどうの、主権がどうのなどと偉そうなことをのたわっているくせに、こういうときに何ら批判的な意見が出てこないのだ。おまけにこの人は脱原発派らしく、自分がじつは反日左翼であることを自ら宣伝しているのだ。天皇や皇族についてのオタク的な知識を披露して、偉そうにどうのこうのと説教しているが、これなどまさに、自分の夢中になってるアニメや映画やタレントについての質問を教員にぶつけて答えられないのを喜んでいるガキとそっくりなのだ。
 おまけに旧皇族出身であり、こうした、たいして言論者としての才能もなく、その自覚すらもないらしい人間ですら、親の七光りならぬご先祖様の七光りによって論説を垂れ流すことができるものらしい。

 典型的なスポーツ脳の考え

 組織委員会の橋本聖子会長は冒頭であいさつに立ち、開催に批判的な世論が根強い中、開催意義について「世の中にはこんな時代になぜ五輪・パラリンピックを開催するのかという声もあります。しかし、このような困難な時代だからこそ私たちは五輪・パラリンピックを開催し、コロナによって分断された世界で人々の繋がりや絆の再生に貢献し、再び世界を1つにすることが今の社会に必要な五輪・パラリンピックの価値であると確信しています。医療従事者を始め、社会のリカバリーのために日々闘っておられる多くの方々への感謝と敬意を忘れることなく、私たちは大会準備に努めていきたいと改めて思っております」と、語った。

 という記事が出ていたが、余計かもしれないが、口出しさせてもらう。
 組織委員会の橋本聖子会長は冒頭であいさつに立ち、開催に批判的な世論が根強い中、開催意義について「世の中にはこんな時代(というよりも、状況と言うべきではないか)になぜ五輪・パラリンピックを開催するのかという声もあります。しかし、このような困難な時代(しつこいが、ここも状況というべき)だからこそ私たちは五輪・パラリンピックを開催し、コロナによって分断された(移動その他が制限されたというべき)世界で人々の繋がりや絆の再生に貢献し(オリンピックを開催すれば、人々のつながりや絆が再生され!、オリンピックが中止になると、人々の繋がりや絆が分断されたままになる?)、再び世界を1つにすることが今の社会に必要な五輪・パラリンピックの価値である(そんなことはオリンピックがあろうがなかろうが、開催されようが中止されようが、関係なく取り組むべき課題なのではないか)と確信しています。医療従事者を始め、社会のリカバリーのために日々闘っておられる多くの方々への感謝と敬意を忘れることなく(そんなことはあんたに説教されるまでもなく、だれでも常識的にわきまえていることではないか)、私たちは大会準備に努めていきたいと改めて思っております」と、語った。

 ということだ。

 心に響かない言葉

 自殺しようとしている人たちにたいして、「死んだら親族や知人が悲しむ。」とか、「後始末がたいへん。」とか、「世の中にはもっとたいへんな人たちがいるんだよ。」といった、発言している人たちにとっては、励ましか自殺の予防に役立つと考えているのかもしれないが、当事者にとってはそんなことは関係ないのだ。これはちょうど、オリンピックを開催する意義を問われて、「安心・安全」だの、「コロナに打ち勝つ」だの「絆がどうの~」といった空疎な言い回しを連呼しているのとそっくりなのだ。

 アンチ朝倉未来の指摘について

 この人は自分よりも弱い相手としか勝負しないなどと、いわゆるディスるひとがいるらしいが、そもそも自分よりも強い相手と勝負できるひとなどいるのか? せいぜい戦時中の日本軍くらいしか思い浮かばない。あえて実行できるなら、せいぜい自分と同格かやや格上くらいが精一杯なのではないか。この程度なら練習や訓練や戦略次第で辛うじて勝てるかもしれないし、引き分けくらいにまでは持っていけそうだ。

 YouTubeで稼ぎたい人や再生回数を増やしたい人へ・・

 「こうやれば登録者数や再生回数が増える。」といったたぐいの解説の動画を投稿している人がいるが、僕なら、その人自身がどんな動画を投稿しているのを調べますわ。
 さて、どんなに工夫してみたところで、こういう手法というのは限界があり、たとえば、太陽系の果てとか、遥か彼方の宇宙のことなどについて、手に取るように詳細に知っている人がいて、それらのさまざまな画像や動画も保有しているとか、タイムマシンを使って、数百年後あるいは数千年後の世界を視察して、こんなものが普及していたとか未知のさまざまな技術や文化のことを知り、それらについて詳細な報告ができる人がもしいたとすれば、こうした内容を投稿すれば容易に再生回数が上がると期待できるが、もちろんこんなことをできる人は誰もいないし、だれでもはできないからこそ価値があるともいえるのだ。基本的に、こうしたジレンマを抱えているという、考えようによってはそれ自体がある種の問題児ではないかと考えることもできなくはないような気もしてくるのだ。
 こうした、視聴してもたいした効果もなさそうなつまらないお説教じみた動画を視聴する暇があるのなら、自分の夢中になれる対象を徹底的に研究してこだわったほうがおもしろいしやる気も出るし、そうしたほうが結局は再生回数の増加につながってくる筈なのだ。自分がおもしろいと感ずるものは他人もおもしろい筈だからだ。

 女性専用車両やポルノ中毒について

 フェミニストは、性欲も含めて性差は存在しないという主張をしてきたのではなかったのか。痴漢やポルノ中毒になるのは男のほうが圧倒的に多いだろうし、風俗の利用者の男女比も同じだ。現実無視も極まれりではないか。
 ところで、女性専用車両を不快と感ずる利用客は、鉄道自体が斜陽産業なのだから、別の通勤手段を考えていけばいいだろう。そもそもこれほど個人主義が普及しているのに、大人数が同一の閉鎖空間に収容されるというシステム自体が時代錯誤的であるうえ、何よりも消費者というのは最強の権力者なのだから、鉄道会社だって利用者離れが進んでしまえばお手上げなのだ。皮肉なことに、この点に関しては都心よりも地方や僻地のほうが進んでいるということになりそうだ。
 ついでに追加すると、昔の女性たちは、文化的にも習慣的にも、女性はおしとやかであるべしという抑圧があったから性欲も抑制されてきたのだ。だから、今後の女性たちは解放されるべきで、そうなれば性欲の性差も解消されていくだろうというような主張をしていた人たちもいたようだが、そもそも、そんな、文化的や習慣的な抑圧などで性欲など抑制できるものだという考え自体が信じ難いのだ。女性たちの、女性の肉食化とか女の性欲という話を知れば知るほど、やはり性欲に関しては男女は別の生物だということを痛感するのだ。

 百年河清を待つ

 小山田圭吾氏の曲は聴いたことがないのでこの人については何とも言えないが、癒される曲を書いている人たちが、みな純真無垢な天使のような人たちばかりだと思っている人がいるとすれば、それはそれであきれた話だ。この程度のことは、話題に出していないだけで、かなりの数がいるのではないか。
 この場を借りて保守派に訊くが、道徳教育を徹底させればいじめは減っていくなどと本当に考えているのか?
 
 ユダヤ団体 小林賢太郎さんを非難

 この人はこの記事で初めて知った。この人に限らず、すべてとは言わないものの、そもそもお笑いというものは、誰かを不快にするものだ。お年寄りや同性愛者をからかったりするようなものはできなくなってきているし、これほど娯楽が溢れているのだから、いっそのこと、お笑い自体が淘汰されてもかまわないとすら感ずるのだ。

 内村航平さんへ

 今朝の記事で、鉄棒で落下して予選落ちしたとかいうのが出ていたが、年齢的にもそろそろ衰え始める頃に入りつつあるので、余計なお世話かもしれないが、早めの引退ををおすすめする。知らず知らずのうちに神経回路や筋肉の劣化は不可逆的に進んでいくわけで、事故で寝たきりや車椅子になったひとは何人もいるのだ。そうなってしまっては元も子もない。不幸中の幸いと考えておけばいいのではないか。



 読書は金持ちへの最短距離だというようなことを勝間氏が解説しているのを見たが、それだけでなく、前記のような、再生回数や登録者数の増加についても、あのような小手先の対処に頼るのではなく、動画で感じるのは、内容が少な過ぎるのだ。せっかく投稿を開始したのに、数個投稿しただけで放置されていたり、最初こそ回数が伸びたものの、その後は似たような内容のものばかりだったり、くだらない雑談で時間を潰したりといった内容のものばかりなため、ずるずると回数が減って低迷しているのを見かけるのだ。
 動画も含めて、調べればいくらでも情報が見つかるのだから、それぞれの動画を工夫するだけでなく、投稿する動画の数を増やしていかないと、かんたんに忘れ去られてしまうのだ。この問題を補強するにも読書という手段は強力な補助になり得るのではないか。

 トランスジェンダー選手のオリンピック出場について

 このことの是非については賛否両論あるみたいだが、かりに私のような外胚葉型の男が性別を変えて出場したとしても、女性選手にとっては脅威にはならない筈だ。手首は女性並に細いし、筋肉の量と付きやすさは概ね骨の太さに比例するからなのだ。
 ところで、筋肉の量と付きやすさで格差のある男女差で別枠にしているのなら、私のような外胚葉型で筋肉の付きにくい人にも、外胚葉枠というのを設けてほしいものだ。胚葉型というのは生来決まっており、生後変更することは不可能なのだ。

 毒を食らわば皿まで

 いわゆるポルノ中毒についてだが、前頭葉の機能低下に陥るとか、最終的に不能になるなどのさまざまな問題が指摘されているらしいが、もともと男の脳とは本来ポルノ中毒になるような構造になっていると解釈することすら可能なほどで、中毒になるのを阻止できるような意志力があるのならそもそも中毒になどならないし、閲覧しただけでは逮捕されたり罰金を支払わなければならないということはないのだから、いっそのこと徹底的に検索しまくれば良い。というか、それしかないだろう。

 張本氏の何が問題なのか

 女性蔑視かどうかはともかくとして、ボクシングが、すくなくとも私のような門外漢にとっては殴り合い以外の何物でもないという気がするのだが、違うのか? 相手を殴って立ち上がれないようにさせれば勝ちなのではないかと思っていたが、違うのか?
 女性蔑視かどうかはともかくとして、女性がボクシングをすることに関しては私も疑念を抱くのだ。個人差があるものの、女性のほうが骨が細いし頭蓋骨も薄いので、脳損傷その他のダメージが大きくなりがちだし、ヘディングですら脳損傷のデータがあるのだから、相手をダウンさせるほどのパンチを浴びれば、ある程度の神経細胞が壊れるのは間違いない筈だ。神経細胞はいったん壊れると一生再生しないので、男女問わず、こうした危険な競技のあり方は徹底的に見直すべきだと感ずる。
 娘は当然ながら、息子にすら、すくなくとも奨める気にはならない。
 それどころか、近い将来、ボクシングという競技自体が禁止になる可能性もあるのだ。

 メンタリストダイゴ氏の問題発言に関連して

 このひとの問題発言を聞いて連想したのは、「夫よりもペットのほうがいい。」などと発言する人がいるようだが、当然冗談だとは思うが、たとえ冗談といえどそんな発言をして問題視されないのが不思議なのだ。
 
 東京パラ開催中止の声はなぜ聞こえなかった? 乙武洋匡が分析する「障害者を特別視する気持ち」

 そういった要因もあるのかもしれないが、私など、そもそも関心がないのだ。多様性の尊重という理念を掲げているらしいが、それなら、私のようにスポーツにさほど興味がなく、オリンピックもパラリンピックもどうでもいいと感ずる人間の存在は認めないのか?

 ヤクザ界に大激震!工藤会の首領「死刑判決」の衝撃と暴力団への今後の影響

 証拠がなく、推論のみで死刑判決を出したというのはたしかに問題かもしれないが、裁判長を恫喝するというのはやり過ぎではないか。これに反発しての、司法関係者や警察や市民への報復を恐れる書き込みが散見されたが、さほど心配していない。もしも本当にそんなことが実行されれば、まさに松本サリン事件と同じであり、オウム真理教ならぬ工藤真理教かと思われるようになるのが関の山だ。
 いくら武闘派で狂暴な特定危険指定暴力団といえども、裁判官や警察の背後には、1億人を超える国民という存在が待機しているということに気付かなかったのか? つまり、この人たちは、1億人を相手に喧嘩をする、あるいはしようとしているようなもので、さすがに勝ち目は0だ、いざとなれば、自衛隊という組織までが世論の代理として出動することすら可能なのだ。この人たちは、自衛隊を相手に喧嘩(というか戦争)をして勝てるつもりなのか?
 市民を殺傷するというのはやり過ぎであり、いくら「わしらは暴力団ではなく、任侠団体なのだ。」と強弁しても、こんなことをしていては誰も聞く耳を持たないだろう。当然だ。自業自得だと思われても仕方ないし、あとの祭りといったところか。 



 よせばいいのに、一言居士なものでつい口出ししたくなるのだ。
 上記の記述は、いわゆるヤフコメのひとつで、言葉遣いが関西弁で、なんかそっち方面の人みたいな感じがするが、気になった点について書き込んでみる。
 そういえば、このような、死刑になれば伝説になる。というような言い回しも、オウム真理教の裁判の時に聞いたような記憶がある。これで九州の治安が乱れるとも書いてあるが、かりにそういう事態に陥ったとしても、この人への裁判の是非とは論点が違うのではないか。高裁は無罪になる? たしかに、推定無罪という原則もあるらしいから、ダブルスタンダードではないかという指摘もできそうな気はする。
 「裁判所も力入れすぎて調子こかんほうがいいんやないかと思う。」力入れ過ぎて調子こいてこの判決を下したのか? それなりに精査して検討を重ねた末の判断ではないかと思うが・・
 「そんな簡単に組織は消えんやろう。」ということだが、それはそうかもしれないし、そのこと自体の是非については私は知らない。そのような世界とは無縁な人間だから、このコメントを書いた人のほうが詳しいのだと思う。しかしその一方で、その問題と今回の判決の是非とは論点がずれているのではないか。
 「心酔して命かけてくる若者は山ほど控えてる」そうだが、もし判決に反発しての襲撃事件などが起きたら、世論は、「このひとたちは、そういうことをするひとたちなのだ。」と認識するようになるだろう。そしてそのことによって、自分らの首を絞めつけることになりそうだ。

 論破王ことひろゆき氏について

 いくら物知りだからといって、あらゆる分野についての正確な知識と批評を行える人間など存在しない。神ではないのだから当然だ。せいぜいそうした意見もあるのかくらいに受け止めておくくらいが関の山だ。事実何人ものユーチューバーから批判されているのだ。

 工藤會400人勢揃いの凄景写真!“最凶暴力団” が見せていた総裁・野村悟被告への忠誠…裁判長への “暴発” 危惧する者も

 「これは見せしめの判決です。明確な証拠もないのに、極刑が下ったのはおかしい。総裁も納得できないでしょう」

 ということだが、たしかに証拠はないのかもしれないが、工藤会の組員がさまざまな事件を引き起こしたのは確かなのだから、事件が発覚した直後に、実行犯を探し出して処罰したとか、再発防止策を講じたといったようなことを行っていれば、少なくとも死刑判決が出ることはなかった筈だし、もしもそれで死刑判決が出たのなら、不当判決だという非難が沸き起こる筈だ。自分の子分が何度も事件を起こしているのに何もしなかったということは、黙認していたと思われても仕方ないのではないか。
 しばしば治安の維持という点が指摘されるが、治安の維持を担っている組織が、市民を襲撃して殺傷するなどもってのほかではないか。警察官が市民を狙撃するようなものだ。

 「工藤會の組員は、警察の徹底的な取り締まりを受け、最盛期の3分の1に減って300人ほどになった。若い組員らは九州を離れ、関東に進出してきている。関東で仕事をして金を作り、組織に送っているんじゃないか。九州に残った組員のなかには、総裁への最後の奉公だと思って、裁判長に “復讐” しようとする者もいるかもしれない」

 もしも本当にこんなことを実行すれば、かつてのオウムと同じく、国家に対する宣戦布告を行うようなものだ。彼らは警察を恐れないらしいが、世論さえも恐れないのだろうか。警察だって世論を敵に回せば動きにくくなるし、さすがに自衛隊ともなれば世論を敵に回しても動けなくはないだろうが、心理的なブレーキにはなるだろう。しかしそれは当然であり、こんなことを続けていればいずれは世論の批判にさらされるようになるということは予想できない筈がないのだ。ということはやはり、彼らは世論さえも怖くないということなのだろう。まさに向かうところ敵なしといった感じで、小心者で臆病で、ケンカも弱い私など、とうてい組員など務まりませんわ(使い物にならない)。

 さて、工藤会の組員数が約300人だということらしいが、1億人を超える国民によって構成された国家に対して宣戦布告をするつもりなのか? 300人の組員が100000000人を相手に喧嘩、というか戦争するつもりらしい。

 ゆたぼん「学校は午前中だけで十分」と主張する教育者に賛同も、

 発言が生意気だとか、なんで何度もこいつらの意見をメディアで取り上げるのだといった批判を目にする。気持ちは分からなくはないが、彼はまだ未成年なのだし、今回の主張には私も賛同する。数年以上も前からこのブログで同じ主張をしてきてもいるのだ。ホームレスへの問題発言をした誰かについても、こんな炎上商法で儲けさせる方法はけしからんといった批判があるが、誰にでも発言の機会と広告収入の可能性があるのだから、そのシステム自体を批判してもしょうがないのだ。

 自分の時間に先行しているだけの者は、いつかは自分の時間に追いつかれる

 そんなことにいちいち目くじらを立てなくても、彼ら以外にも優れた才能を持つ奴はうじゃうじゃいるのだ。今後さらなる面白くて斬新な動画が出てくるか、見当も付かないし、すでに検索すればきりがないほど投稿されているぞ。彼らとは、知や才能の水準が違い過ぎるのだ。世界は広いのだ。

 「おまえら、俺がこんなに稼いでいるのがうらやましくてしかたないんやろ。悔しかったら、お前らも稼いでみろよ。」といった挑発的な態度をとっていたみたいだが、コメント欄の投稿者の大半はこの親子よりも有能なみたいなので、「そんなに言うなら受けて立つ!」とか、「はい、分かりました。」とかいって、動画投稿を開始すればいいではないか。ただし、本業を辞めてのユーチューバーは危険極まりないので、あくまでも副業として始めるのがおすすめだ。定期的にかつ確実に入る収入がないと精神的に不安定になるし、そうなると知能や判断力といった脳のパフォーマンスも低下して優れた動画の作成もおぼつかなくなるからなのだ。そして、格の違いを見せつけてやればいい。

 池江璃花子さんについて

 このひとが白血病らしいということを知ったとき、柄でもなくお祈りをしておきました。こんな私ですらささやかなお気持ちだけの応援くらいはするのだ。けっしてアスリートだからというわけではなく、誰でもなり得る可能性があるし、メダルや成績よりも、再発しないことのほうが重要なのだ。今後も引き続きお祈りをさせてもらいますわ。

 夫婦円満へ向けて・

 使いもしないのに、がらくたとしか思えない物を収集したりといった、理解しがたい趣向があったとして、実際に使う機会がなくても、その気になればいつでも取り出して観賞したり使用できるという安心感があれば、それが精神の安定にもなり、失敗や判断ミスやそれに起因する事故の低減にも役立っている可能性があるのだ。血液型性格判断や星占いといった、ともすれば男からは無意味そうに感じられることでも、心理的安定に役立っているのであれば、同様の効能が期待できるのだ。
 というわけで、相互に相手方を尊重しようではないか。何がほんとに役立っているかなど、他人がやすやすと判断できるほど人間の心理は単純ではないのだ。

 「学校行きたくない子は行かんでええ」 不登校YouTuberゆたぼん、夏休み明けの子ども達を心配

 依然として、長々としたコメントを書き込んでいる人がたくさんいてあきれるが、そんなことをする暇があるのなら、ほかにもっと面白くてためになる動画がたくさんあるだろう。
 そうした批判的な書き込みをするよりも、「この程度で再生回数や広告収入が得られるんなら、俺(わし)など、ずっと多くの再生回数が得られる筈だ。」と考えるべきだろう。

 自分の時間に出遅れているだけの者は、いつかは自分の時間に追いつくのだ。

 忙しいサラリーマンや経営者などは、そうはいっても現実的に動画の作成や編集その他は困難だというひとも多いのかもしれない。しかし、定年退職後に、それまでに蓄積されてきた経験や知見に基づいた投稿が目白押しだという可能性も大いにあり得る。
 ゆたぼんくんからすれば余計なお世話かもしれないが、だぶんろくに勉強などしていなさそうだし、これだけの期間を不登校を続けてしまえば、今さら復学するというのは困難なのではないか。どうしても楽な方へと流されがちだし、いちど怠け癖が付いてしまうと、元に戻るのは容易ではないのだ。
 このほか、知の蓄積というものがどれほど凄いことなのかということについても、ほとんど知らないようだ。だぶんこの親子は本など読んだことすらないのだろう。



 問題発言で話題になったダイゴ氏についてだが、1年くらい前から暇潰しに視聴していた。半年くらい前から英会話の教材の広告に登場するようになってから見るのをやめたのだが、大半の動画には問題はなかったと感ずる。ただ一部に、他人をバカにしたり見下したりするような態度はたしかにあったような記憶はある。
 驚いたのは、今からでも更生できるというたぐいのコメントが多々あったことで、なにしろ「三つ子の魂百まで」という諺通り、三歳児ですらその特徴は一生変わらないというのに、30歳を超えた人間が自分の思想を変えられると考えているようなのだ。これは環境や教育による影響というよりも、生来の気質なのではないか。
 たしかにこの発言は問題だが、この人の動画をすべて否定したり削除すべきというのは行き過ぎではないか。今後は、このひとはそういう人なのだという態度で、周囲の人間は対応していくしかないのではないか。