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「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

中学2年で富士山に登る  ②

2010-02-07 | 日記
さて、やっとの思いで八合目の山小屋についたのだが、実は、七合目あたりから高山病で頭が痛くなり、山小屋での事は全く記憶に無いのです。
翌朝起きた頃にはだいぶ楽にはなっていたのだが、これから頂上までの道のりの長かった事と言ったら、とても言葉では言い表せないほど長く感じたのです。
何しろ、八合目からは頂上が手を延ばせば届きそうなほど近くに見えるのだが、歩いても歩いても一向に近くにならず、このまま永遠に登り続けるのかと思ったほどなのです。
しかし、やっとの思いでたどり着いた頂上ではあるが、標高が高くなった分高山病は前夜よりひどくなり、頂上の「お鉢周り」はしたらしい(友達の話だが)のだが、頭痛がひどくなった私には全く記憶が無いのです。
結局その後は集合場所の近くのベンチで横になっていただけで、雄大な展望を楽しむ余裕など全く無かったのですが・・・・。
この後は一転して楽しい時間がやってくるのです。
私は登りは非常に苦手なのだが、その反対に下りは滅法強く、下りの八合目から始まる「砂走り」は、細かい火山礫(砂)で出来た長い急な斜面を駆け下るのですが、元々が急斜面で砂礫地なのだから転倒する子も多かったのだが、私と数人だけが一度も転ぶことなく先頭を切って走り下ったのです。
それから40年近くたって再び富士山に登ることになるのだが、この時は子供の同級生とその家族合わせて8人で一緒に五合目までバスで行ったのだが、生憎の天候で、私(50近かったと思うのだが)と子供(中学生で野球部)と同級生のお兄さん(高校生でサッカー部)の3人だけが他の5人を六合目に残し上を目指したのです。
この日は天候が悪いため「八合目で通行止め」と言う事が予めわかっており、「登れるところまで登ろう」と言う事で登り始めたのだが、元気盛りの子供たちはどんどん登ってしまうのだが、50近い老体を鞭打って追いかけては見ても、元気盛りの子供相手では全く相手にされず、ほうほうの体で八合目の手前にある「一万尺(3,000m)」と言う標識があるところまで登り、その先は強風が吹きぬける場所があるので「これ以上は無理」と言う事で下山を始めたのだが、そこは前にも書いたように「下りは得意」な私である。
子供たちが少し下ったところで私を待とうと立ち止まった横を「お先に!」と追い越し、そのまま6合目まで一気に子供たちと競争をして、僅かな差ながら勝ってしまったのです。






中学2年で富士山に登る  ①

2010-02-06 | 日記
今では5合目まで車で行くことが出来るので、夏であれば誰でも気軽に日帰りで登る事も出来るのだが、私が中学生の頃(昭和30年代前半)は「日帰りで登る」などと言う事はとても出来なかったのですが、こんな事を知っている人は少なくなってしまいました。
私は家にいることが嫌だった事もあり、当時はどこの学校でも実施されていたと思うのだが、夏休みには「臨海学校、林間学校」と言うものがあったのだが、海が好きだった私は、小学校5年、6年の時には「房総半島の岩井海岸」へ行き、中学1年では「三浦半島の観音崎」へ行ったのだが、観音崎では楽しかった部分もあるのだが、「カナズチ」の私にとって苦い思い出が出来てしまい、2年では海をやめ「箱根の仙石原」に行くことにしたのだが、この時に富士山に登る事になったのです。
この富士登山、私にとっては「行きは良い良い帰りは怖い」ではなく、行きは難行苦行の連続だったのだが、一転して「帰りは大満足」だったのです。
当時5合目まで車で行ける道はなく、ふもとから歩いて登らなければならないのだが、この「ふもと」と言うのが曲者で、私が登った時は「太平洋の海の近くで、製紙工場がある町のはずれ」と言う事で、今考えてみれば「富士市の町のはずれ」だったのでしょうが、ここでバスを降ろされることになったのだが、始めは「休憩で降ろされた」のだとばかり思っていた私たちに、引率の先生は無常にも「ここから歩いて登る」と言ったのです。
富士山は未だ遥か先に見える場所からの富士登山、始めのうちは軽口も出ていたのだが、夏の炎天下に普通の道を歩かされるのだからじきに口数も減り、タダひたすら歩くだけで、やっとの思いで「一合目(馬返し)」についた頃には皆バテバテになっていたのですが、この後は「五合目」まで有名な「樹海」の中を歩く事になるのです。
普通の道を歩くのに比べれば、樹海の中は日差しも少なくて多少は楽になったのだが、今度は「景色が全く見えない」と言うことになってしまうのです。
さて、当時はコンビにも自動販売機も無い時代なので、簡単に飲み物を補充する事も出来ず、アルミ製の水筒だけが頼りで、一合目についた頃には皆飲み干してしまっていたのだが、この後の水の補給には驚くような事が待っていたのです。
私たちはある程度のお金は持っていたのだが、樹海の中の休憩所で見た張り紙に皆ビックリする事になるのです。
その張り紙に書いてあったのは「水、コップに一杯5円」と言う文字で、簡単に水の飲める水道など全く無く、飲み水はお金で買うしかなかったのですが、この「一杯5円」だが、今の物価にスライドさせると「一杯100円」くらいになるのではないだろうか。
この頃はラーメンが30円で、バナナは驚く無かれ「一本15円」と言う時代だったのですが、お金に余裕がある生徒は「サイダー、ジュース」を買う事もあったのだが、今のような缶入りやペットボトルではなく、ガラスの瓶で「1本15円」もしたのです。
さて、やっとの思いで樹海を抜け五合目についたのだが、この頃から天気が悪くなりはじめ、五合目についたころは見えていた頂上も次第に見えなくなり、やがてあたりは暗くなって雨が降り出し、この頃はすでに夕方になっており、懐中電灯を頼りに八合目の山小屋を目指したのです。
                            つづく

人前で歌うのが嫌いな私

2010-02-05 | 日記
子供の頃の私は「臆病な弱虫」で、同級生の女の子に良くいじめられ、余り目立つ存在ではなかったのだが、私が通っていた小学校は「合唱」でかなり有名な学校で、「全国学校音楽コンクール」で優勝した事があるほどなので、5年生になるとコンクールのために合唱部員が選ばれるのだが、人前で歌うことが嫌いな私が選ばれてしまうのです。
音楽の時間に一人で歌う事さえ嫌だった私がコーラス部員に選ばれるとは、なんとも皮肉な話なのです。
しかし、私がどんなに嫌だと思っても逃れる事は出来ず、観客が1000人もいるステージで何度も歌わされたのだが、ステージに上がって整列するあたりまでは覚えているのだが、何時も伴奏が始まる頃には頭が真っ白になり、自分が本当に歌ったのか全く記憶にないのですが、そんな私が「日比谷公会堂で3000人の観衆を前に、2番をソロで歌う」と言うことになってしまったのです。
「東京都の予選」だったと思うのだが、こんな私が歌うのだから「落選」するのは仕方ないでしょうが、今考えても「本当に私は歌っていたのだろうか?」と疑問に思うのだが、同じステージに上がった同級生が「ちゃんと歌っていたよ」と言うのだから歌ってはいたのだろう。
中学に入ってからもコーラス部員に指名され、早稲田祭で大隈講堂のステージにも立たされたのだが、ここでも全く歌った記憶がなく、今でも人前で歌うときは「緊張して足が震える」事がよくありますが、昔に比べればかなり良くなっています。
2年前に行きつけのカラオケスナックが赤字で店を閉めてしまい、それ以来全く歌っていないのだが、カラオケボックスに一人で行く勇気がなく困っているのです。
一緒に行こうと思えば相手はいないわけではないが、歌う歌のジャンルが全く違うために一緒に行っても少しも面白くないのです。

父と母の死

2010-02-04 | 日記
父は15年ほど前に亡くなり、母もその4年位後に亡くなったのだが、父が未だ生きていた頃は何かに付け父の悪口を言っていた母が、「父が死んだ後は元気になるだろう」と思っていた私たち兄弟の予想を裏切り、3ヵ月後には「早くおじいさんのところに行きたい」とか「おじいさんと一緒に死ねばよかった」などと口走るようになったのです。
これには私たちも呆気に取られるしかなく、「生前の父に対する態度は一体なんだったのだろうか」と思ったものです。
父は元々血圧が高かったので2回脳溢血で倒れ、その後遺症で体が不自由だったのだが、子供が嫌いだったばかりか「料理を作る事も嫌い」と言う有様で、姉たちが良く料理を作って持って行っていたのだが、毎日と言うわけにもゆかず、母が作らなくてはいけなくなるのだが、料理を作る事が嫌いな母は「小さく切ったパンと牛乳」を父に与えていたのですから驚きです。
私が何か持っていっても父が喜ばないので「もう少しマシな物にしたら」と私が言っても、母は「おじいさんが美味しい美味しいと言って食べているから心配は要らないよ」と言うだけで、全く取り合おうとはしなかったのです。
そして、父の生前は「おじいさんのおかげで旅行にも出来ない」と愚痴をこぼし、「おじいさんがいなければ旅行に行けるのに」と言っておきながら、父が死んだ後は旅行の誘いがあってもけして出かけることはなかったのです。
これ以外にも様々な事で父が生きている頃に言っていた事と正反対のことを言うようになったので、正直な話、「早く死んでしまえばいいのに」と思ったこともよくありました。
そして、母は90歳になる少し前に老衰による多臓器不全で亡くなったのだが、私はお通夜には出たものの、葬式当日私は日本にいなかったのです。
「エッ?!」と思う方もいるだろうが、当日は上海で結婚式を挙げることが2ヶ月前から決まっていため、息子を代役にして欠席をしたのですが、このとき何となく虫が知らせたのか、どうしても母の死に顔を見る気にならなかったのが不思議だったのだが、帰国して1ヶ月チョット経った頃、全くの偶然から「過去の真相」がわかったのです。
この事はすでに書いているので省略するが、事の真相がわかった事で「死に顔を見る気にならなかった」と言うことにも説明がつき、最終的には「墓参りもする気にならない」と言う事で、今では兄弟とも「絶縁状態」になっているのですが、なんとも不思議な事に、母が死ぬまではしばしば「親兄弟がらみの悪夢」に悩まされていたのだが、母が死んだ直後から全くと言ってよいほど見なくなったのです、が、最近になってからはまた「別の原因の悪夢」に悩まされるようになってしまったのです。
これが八回目の転倒にあたるのだが、ここに至って「七転び八起き」と言う言葉に違和感を感じてしまったのですが、こんな事を考える人はいないのでしょう。
それにしても「7回しか転んでいないのに8回起きる」とは、なんとも不可解な事である。

ここまで駆け足で書いてきたのだが・・・・  ②

2010-02-03 | 日記
実は、シドニーオリンピックの時私は上海にいたのだが、この少し前に13年勤めた会社をリストラされて失業していたのです。
リストラされた当初はそれ程深刻に考えてはおらず、「時間があるから上海にでも行ってくるか・・・・」と言った程度の軽い気持ちで行っていたのですが、帰ってきてからの職探しで苦労するとは夢にも思っていなかったのです。
失業保険が切れる寸前に何とか仕事は見つかったのですが、その会社も1年後には倒産。
再び職探しの日々が続くのであるが、この頃は正に「就職氷河期」で、職安に行っても「職を探す人ばかりで、職はない」と言った状態で、ついに新たな仕事を見つけることができず、子供が大学を卒業する少し前だったので「授業料の工面に奔走」する事になってしまったのです。
授業料の工面は何とかなったのですが、60歳になる5ヶ月前には失業保険も切れ、基礎年金が入るまでの7ヶ月は「全くの無収入」と言う状態だったのですが、生命保険の「契約者貸付」を利用して乗り越える事は出来たのですが、結局仕事を見つけることが出来ず、それ以後は職探しは諦めました。
そして、65歳になるまでは「耐乏生活」を続け、その結果ある程度の蓄えが出来、今に至っているのですが、十分とはいえないながらも蓄えが出来たのは、普通の人にはとても真似の出来ないようなライフスタイルを実行したからこそ出来たので、かなりの努力をしないとこのような蓄えは出来ないでしょう。
「月額16万2千円ほど」の年金しかもらっていないのだが、一人暮らしとはいえ、車を持ち、ボーリングに「月2万近く」使いながら「月に5万くらい残す」と言う生活は、子供の頃からお金に不自由してきた事で身に付いた「倹約精神」のおかげで出来る事で、現代人にはかなりハードルが高いのではないだろうか。
それにしても、近年の不景気で職を失い、生活が困窮している人をテレビなどでよく見かけるのだが、私に言わせれば「そんなやり方をしていれば生活が苦しくなるのは当たり前」としか思えないのです。
昔であれば極当たり前に行われていた事が忘れられ、なんでもお金を払って済ませようとするからお金が足りなくなるのであって、お金がなくても何とか遣り繰りが出来た昔を見習うべきだと思うのですが・・・・。

これまで駆け足で書いてきたのだが・・・・  ①

2010-02-02 | 日記
書きたいことはまだまだ山ほどあるのだが、最近10年の話で一区切りつけ、後は思いつくままに書いて行きたいと思います。
11年前、それまで一度も乗ったことのなかった飛行機にに乗ることになったのですが、元々旅行が好きでない私は、北は仙台までしか行った事がなく(仕事で)、西に至っては、乗換えのために降りた「名古屋のホーム」と言う有様で、実際には静岡の海岸までしか行っていないのです。
そして、乗換えのために降りた名古屋からは北陸線で片山津温泉に行ったのですが、翌日行く予定だった「金沢兼六園」には、予定外の事で時間がなくなってしまい、行くことが出来なかったのです。
ここで、「修学旅行で関西に行っているだろ!」と言うお叱りを頂きそうなのだが、ここでも不運が重なり、小学校の修学旅行は「日光から箱根に変更」と言うことになったのだが、翌年の中学1年の旅行で日光に行くことは出来たのですが、中学の修学旅行は「裏磐梯(福島)」で、関西旅行は高校の修学旅行で行くことになっており、高校を中退した私は行くことが出来なかったのです。
このように、国内旅行もろくにしていない私が「いきなり飛行機に乗って海外旅行」と言うことになるのですが、行った先は中国の上海で、ある結婚相談所の紹介で「お見合い旅行」に行ったのですが、これをきっかけに10回も中国へ行くことになるとは思っても見なかったことです。
上海に9回、香港に1回行ったのですが、ここで親切な二人の中国人に会えることが出来、上海から香港に移住した一人(30代の男)とは現在も交流が続いています。
今でもかなりの中国の人が日本に対する憎しみを持っているのですが、そのような中で私は「あなたは私たちのファミリーだ!」と言われた事もあるのですが、中国の人が言う「ファミリー」は、日本人が一般的に使うファミリーとはかなり意味が違い「信頼しあった仲間」と言う意味が強いので、「家族であってもファミリーとは言わない」こともあるのです。
一月に香港に移住した彼が、上海で素敵な女性と結婚したのでお祝いに行きたいと思っていたのだが、私の都合で行くことが出来なかったのが残念で仕方ありませんが、中国に行くことによって、それまでも感じていた「日本人の心の狭さ」と言うことを実感しないわけには行かないのです。
私から見ると、オバマ大統領が「アメリカの競争相手は、中国、ドイツ、インド」と言って、日本を無視するような発言をするのもわかるような気がするのです。

「新たな不運?」

2010-02-01 | 日記
本題に入る前に、今まで書いていなかったことを少し書いてみようと思います。
私は37歳で結婚をしたのだが、この歳まで結婚をしなかった(出来なかった?)のには様々な事情があるのだが、20代前半はいくらでもチャンスはあったのだが「自分に生活力がない」と言う事で諦めざるを得なかったのだが、いざ自分に生活力が出来てくると、今度は「入り婿」の話ばかりで、それも、今で言うところの「逆玉の輿」が多かったのです。
主だった例では、「画商の娘で、資産数十億」「銀座に店のある老舗の京呉服店の娘」「中堅の建設会社の社長の娘」・・・・と、私には気の進まない話ばかりなのですが、相手の女性は美人ばかりなのだからなんとも皮肉な話なのです。
老舗の京呉服店の場合は、和服のカレンダーのモデルに成る程スタイルも良く「お嫁さんに頂けるのならば」と言っては見たのだが、「跡取りなので」と断られてしまいました。
と、ここまでは東京に住んでいた頃の話で、家を建てて現在のところに引っ越してからは「パタッ」と話が来なくなってしまったのです。
仕事が変わり、周りに知っている人もいなくなったのだから当然と言えば当然の話で、たまたま会社に出入りしていた保険屋のおばさんの紹介で見合いをしたのですが、正直な話、お互いに年齢的なことで焦りがあったのでしょう、余り気乗りはしなかったのだが結婚する事にしてしまったのですが、後になって考えれば、これが「大きな間違いの元」だったのです。
結婚当初から嫌な予感はしていたのだが、直ぐに子供が出来てしまった事もあり、子供のために我慢をしようとは思ったのだが、「夫である私より、自分の家族や友達の方が大事」と言う基本的な考えが年とともにひどくなり、子供が中学2年の3学期に別れる事にしたのですが、私は「6人兄弟の長男だが、継子扱い」だったのに対して、彼女の方は「6人兄弟の末っ子で、甘やかされて育った」と言うのだから、明らかに「性格(育った環境)の不一致」だったのですが、更に、私が「応用は得意だが、丸暗記は苦手」なのに対して、彼女に方は「応用は苦手だが、丸暗記は得意」と、全く正反対だったのだから話が噛み合うはずはなかったのです。
その3年半後にある結婚相談所の紹介で、中国人の女性と見合いをして結婚をするのだが、これもまた大失敗だったのです。
この失敗の原因は、私の中国に対する認識が甘かったことと、一方の中国では「数年前に崩壊したバブル期の日本の話が広がっていた」と言うことが根底にあり、この頃は私と同じようなケースがかなりあったようです。
「日本は豊かな国で、贅沢が出来る」と思ってやってきた彼女たちにとって、バブル崩壊後の日本は「想定外」だったのです。
「時給1000円以上の仕事がいくらでもある」「日本人は金離れが良い」などと聞かされて来たのに、いざ日本に来て見ると「時給800円でも仕事が見つからない」と言う現実を前に夢が破れたのでしょうが、元々腎臓が悪かったため、日本に来て1年半後には「人工透析」が必要になってしまったのだが、中国では「20万元(日本円で300万円位)で腎臓移植が出来る」と言う話を聞き、仕方なくお金を工面して渡したのだが、1年後に無事移植手術は成功した物の、バブルに沸く上海から日本に帰ることを嫌がるようになり、そのまま別居状態になってしまったのです。