田舎主婦の日日是好日

今日も生きてることに感謝かな。

武者と武士:光る君へ第41回

2024年10月28日 | 趣味・本・テレビ他

双寿丸が登場しましたが、

彼は武士(ぶし)なのではなく、

武者(むしゃ)ですね。

双寿丸は、

しゃと言ったように聞こえましたが、

発音は現代と平安時代では、

違うでしょうからいいと思いますが、

江戸時代などで言う武士とは違い、

平安時代の武士は、

<系譜が明らかなこと>位階と官職を持つこと>

だそうです。

 

つまり、

朝廷に認められたのが武士なのですから、

そうでなければ、

ただの武者だそうです。

(光る君へ時代考証 倉本一宏さんのお話)

 

なお、

武士は貴族から生まれ、

貴族が武士を育てたとのことですが、

次第に力を持っていきますよね。

 

ドラマでは、

武士が政権をとるまで、

まだ180年あるあたりですが、

もうそういう萌芽がでているのですね。

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第41回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

東宮の敦成(あつひら)親王

あの撫子の花の色は、

灰鼠の衣装の色合いに映えてましたね。

そして中宮の歌もいい歌でした。

 

見るままに 露ぞこぼるる おくれにし

心もしらぬ なでしこの花 

三条天皇は、

なかなかのやり手のようで、

人選が今までとは違いますね。

 

一条朝を、

改革?しておられるような感じに思いました。

 

一条天皇が身罷られ傷心の、

中宮彰子を励ます歌の会。

 

御簾越しに見える色合いが美しく、

その場で詠まれる歌も情緒あって、

女房の宮の宣旨(小林きな子さん)の表情に、

心が和みました。

 

というのに、

ききょう(清少納言)の登場でぶち壊し。

ここは、

私が歌を詠みたくなるような場所ではございません。

何だか失礼な清少納言。

 

ドラマですから脚色されてますが、

確かに『紫式部日記』には、

清少納言の悪口は書かれているのです。

 

実際に紫式部と清少納言が、

面識があったかどうかは別として。

ほの暗い月を見あげる藤式部と道長。

政権トップとしての、

道長は孤独なのでしょう。

 

そんな中で、

藤式部(紫式部)だけは自分を理解してくれる。

と、

思いたいのでしょうね。

 

でも、

2人の気持ちが少しずれ始めてる??

定子のお子である敦康親王は、

彰子を母のように思い慕っているのですから、

(少しは恋心はあるかも)、

元服をしたのにも関わらず、

御簾をあげて入ってきてしまいます。

(後方に控えているのは行成)

そのことを行成は、

道長に強く咎められるのですが、

恐れながら、

左大臣様は敦康さまから、

多くのことを奪いすぎでございます。

と、

道長に意見しました。

行成あっぱれ!!

 

俺に意見するのか

と、

左大臣(道長)は行成に言うのですが、

左大臣様がおかしくおわします。

と、

返すのです。

 

上司に向かいハッキリと意見を言える、

行成は立派です!!

今回は、

左遷を覚悟で言ったのでしょう。

 

中宮彰子もまた、

この先も父上(道長)の意のままになりとうない。

と、

決意します。

 

妾(しょう)明子の次男:顕信(あきのぶ)について、

顕信には蔵人頭はまだ早いと、

父親の道長が三条天皇に断ったために、

私は父上に道を阻まれたのですね。

私はいなくてもよい息子なのでございますね。

と、

顕信は出家をしてしまいます。

 

顕信さま、

お若いのですから、

急いては事を仕損じますぞ。

もう間に合わないですけれど。

 

妾(しょう)の明子も、

けっして貴方を(道長を)許しませぬ。

なんて言ってしまうんだし。

 

ああ~ああ~

明子さま方は感情的過ぎます。

お怒りはもっともなんですけどね。

 

正妻:倫子の長男は、

次男が先に取り立てられても、

長男(頼道)は耐えてますよ。

 

色いろ盛りだくさんで目が廻るような回でした。

(写真はNHKよりお借りいたしました)

 

ではまた来週。

 

 

 

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あと8回:光る君へ第40回

2024年10月21日 | 趣味・本・テレビ他

紫式部日記や、

道長・実資・行成などの日記を読んで、

ドラマを観ていると、

楽しいのですけれど、

ビギナーズで読んでいるのです。

 

初心者向けの日記ですから、

日記の全てを読んでいるわけではありません。

すると、

??ということが生じますので、

間違えて書いているのかも。

 

でも私。

恥を書いても、

書いてみようと思うだけ、

興味深い平安絵巻ドラマなので、

残り8回も突っ走ります(笑)

 

こんな記事にお付き合いいただき、

いつも感謝です。

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第40回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

またも色いろありすぎた回でした。

 

寛弘8年(1011)

『源氏の物語』朗読会

藤式部(紫式部)は、

女房頭の「宮の宣旨」の横ですよ。

 

藤式部(紫式部)は物語を書くだけでなく、

女房として、

様々な実力が認められてきたのですね。

 

有職故実に詳しい、

シッカリ者の実資(さねすけ)も、

中宮への取次には、

藤式部を通していたようなことが、

彼の日記に書かれてるのです。

 

どこか具合がお悪そうな一条天皇。

まだ32才でいらっしゃいますが、

お身体不調の模様です。

 

道長が陰陽師に占わせると、

崩御の卦(け)が出ていると言われるのですが、

その代替わりあたり、

公卿の駆け引きのようなことが、

起きるのですね。

行成だって最初は、

定子のお子の敦康(あつやす)親王が東宮になるべき、

と言っていたのに、

恐れながら天の定めは、

人知の及ばざるものにございます。

と、

手をひるがえし、

道長の孫である、

敦成(あつひら)が東宮になるのは必然と言い、

一条天皇を説得となりました。

 

左大臣道長に従わねばと思ったのでしょうか。

真面目で聡明な行成ですから、

ただ己のためにだけではないとは思うのですが、

ああ・・・です。

 

実資の日記にも、

一条院の陰口をいう人々のことが書かれてあり、

その先頭の人は、

源俊賢であったということだ。

本人は一条院の一族ではないか。

嗟乎、々々、(ああ、ああ、)

と、

あるのですよ。

 

政治のドロドロ・・・

 

出家され病床で詠まれた、

一条天皇の辞世の句。

 

露の身の 草の宿りに 君を置きて

塵を出でぬる ことをこそ思へ

 

露のような儚い身の私は、

草で編んだ仮屋のような、

あやふやな世界にあなたを残して、

一人だけ塵の現世を去ってしまう。

それが私にも堪え難いことであるのを、

わかってください。

(歌と訳は『御堂関白記』より借用)

 

※ テレビでは確かと言っておられましたね。

露の身の の宿りに 君を置きて

 

藤原行成の日記『権記』では、

露の身の の宿りに 君を置きて

塵を出でぬる ことぞ悲しき

 

行成の日記『権記』に記されている歌と、

道長の『御堂関白記』の歌とは少し違うのですが、

この歌は、

どうみても傍に居られた、

中宮彰子に向けての歌だと思いますのに、

行成の日記「権記」には、

亡き定子への返歌だと書かれてあるのです。

 

でも、

断然彰子に向けてだと私は思いたい。

 

少し前後しますが、

敦成の母でもありますが、

敦康さまを、

元服までお育てしたのは私でございます。

と、

毅然と父の道長に言う彰子は、

ご立派になられました。

 

そして!

一条天皇役の塩野瑛久さん。

最後の最後まで好演でした。

品格がおありで、

このドラマを格調高くされてたと思います。

 

なお今回、

すごく残念と言うか気になったこと。

 

双寿丸(そうじゅまる)に、

伊藤健太郎君が起用されたこと。

 

この大河ドラマの場合には、

別の方のほうが良かったのではと。

 

彼だけにかぎらず悪評を払拭するには、

長い時間がかかるのでしょうね。

 

一杯触れたいこともあるのですが、

長くなりますので、

また来週。

 

(写真はNHKよりお借りいたしました)

 

 

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罰があたる:光る君へ第39回

2024年10月14日 | 趣味・本・テレビ他

藤式部(紫式部)が弟に、

「罰が当たる(ばちがあたる)」って、

先々週言っておりましたが、

この言葉は今も使われるのでしょうか。

 

私は祖母育ちでしたので、

「悪いことをすると罰が当たるよ」

という言葉を、

何度も言われて育ちました。

 

そして、

自分に何か悪いことが起きると、

罰が当たっちゃったなんて、

思ったりしてました。

 

今は、

「悪いことをすると罰が当たるよ」なんて、

子に言う祖父母は少ないのかな。

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第39回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

おめでたいこともありましたが、

何だか辛い回でした。

 

藤式部(紫式部)は、

道長から頂いた、

娘の裳着(もぎ)の絹織物を持ち帰ります。

 

すると、

弟の藤原惟規(ふじわらののぶのり)は、

やっぱり自分の子は可愛いんだな

そんなことを言って、

賢子の父親が実は道長であることを

為時にバラしてしまうのです。

 

惟規の乳母のいとは、

為時には黙っていたのですね。

 

事実を知った父親の為時も、

左大臣である道長に娘の子はあなた様の・・・

なんて言えないでしょうし、

でも過去のことが思い出され、

心中は複雑であったと思います。

 

病んでしまった伊周。

不本意な人生だったことでしょう。

TVではかなり悪者に描かれておりましたが、

両親や妹さえ亡くならなければ、

また別の人生が開けたのではと、

見ていて気の毒でなりませんでした。

 

弟に諭されて良いお顔になられたと思ったのに。

俺がなにをした

父も母も妹もあっという間に死んだ

俺は奪われつくして死ぬのか

 

死の床の伊周の目から一筋の涙が流れ、

父上・・母上・・定子・・・・・・・・・

36年の生涯を終えました。

 

弟の隆家も、

兄上あの世で栄華をおきわめくださいませ

と言っておりましたが、

どうか来世は、

その才能を遺憾なく発揮されますように。

 

若かりし頃の藤原伊周。

伊周を演じた三浦翔平さんは、

上手い演技でしたね。

 

弟の隆家を演じている、

竜星涼(りゅうせいりょう)さんの話。

恨みを含めすべてをの思いを受け入れた先に、

新しい未来がまっているのだと、

隆家は感じているはず。

そんな隆家は様々なものを飲み込み、

左大臣道長に仕えていきます。

 

さて、

道長と倫子の次女の、

藤原妍子登場。

居貞親王(いやさだしんのう)の后になっていきますが、

18才もの年の差や、

既に愛后がおられることにも不満一杯。

 

そんな不平を言う妹に、

宿命にあらがわず、

その中で幸せになればよい。

という、

姉の彰子は成長しましたね。

最初の頃は、

仰せのままにしか言えない女性でしたのに。

 

以前紹介した『月ぞ流る』の本に、

この妍子が登場するのですが、

彼女もまた、

成長していく様子が描かれておりました。

 

そして、

藤式部(紫式部)の父親邸。

 

それぞれの衣装が質素であっても、

赤系・緑系・桃系・黄色に鼠色と、

何とも言えない色分けで、

いつも暖かさが感じられるのです。

 

でもでもですよ~

よりによって、

惟規が父親より早く亡くなるなんて。

弟を亡くした藤式部(紫式部)の気持ちもですが、

腕の中で息子を看取った父の為時の心を想うと。

弟が斎院の中将(さいいんのちゅうじょう)との、

逢引のとき、

そんなことをしたら罰が当たるわよ

と、

姉の藤式部が言ってましたが、

私にはそうは思えませんでした。

 

何だか、

今回は悲しすぎです。

 

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百人一首:光る君へ第38回

2024年10月07日 | 趣味・本・テレビ他

藤原定家(1162~1241)が、

京都・小倉山の山荘で選んだとされる、

小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は、

歌がるたとして広く用いられております。

 

中学のころ暗記させられた、

思い出がある方もおいでることでしょう。

 

飛鳥時代から、

鎌倉時代までの歌人、

100人が取り上げられておりますが

そのうち女性は21人で、

17人が宮仕えの女房達の歌だそうです。

 

あとの4名は、

持統天皇・式子内親王(しきしないしんのう)

そして母親2名

 

下はドラマに登場した6名。

 

儀同三司の母( 伊周 の母)

右大将道綱の母

紫式部

和泉式部

清少納言

赤染衛門

追記

わだじゅんさんよりのコメントから、

「五色百人一首」というのを知りましたので、

追記致します。

 

五色百人一首(ごしょくひゃくにんいっしゅ)は、

小倉百人一首(以下、百人一首と表記)を、

20枚ずつ5色「青・桃・黄・緑・橙」の札に色分けした教材です。

 

札が20枚のため、

一試合を約3分間で行うことができるので、

授業の隙間時間でも有効に活用することができます。

 

また、20枚ずつ無理なく覚えることができます。

教室で子ども2人が机を合わせて試合をすることができ、

教室の人数に合わせて4人でも行うことができます。

情報に感謝です。

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第38回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

光る君の物語読みました。

引き込まれました。

男のうつけぶりを笑いものにするところ、

どれもおみごとでございます。

才気あふれている・・・

 

とかなんとか、

最初は源氏の物語を誉めていた、

ききょう(清少納言)。

 

しだいに藤式部(紫式部)への口調が、

荒々しくなっていきましたね。

 

帝のお心から、

「枕草子」の存在をなきものにしてくれと、

左大臣から頼まれたのですか。

 

私は腹を立てておりますのよ。

源氏の物語を恨んでおりますの。

次々ぶちまける清少納言。

 

帝(一条天皇)のお気持ちが、

定子から彰子へと動いていったわけですから、

そう思われるのも無理ないことです。

 

しかし、

1000年経っても貴女さまの『枕草子』は、

煌々(こうこう)と輝いておりますよ。

 

貴女さまが『枕草子』に、

星は昴(すばる)と書かれたことで、

あの六連星(むつらぼし)を見上げた方は多いでしょうし、

春はあけぼのという始まりは、

子供たちだって知っておりますよ。

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

なお、

史実においてはドラマのような、

紫式部清少納言の、

直接対決は無かったと思うのですが、

何かがあったから紫式部も日記に、

清少納言の悪口をしたためたんでしょうね。

 

でも紫式部は、

その部分を後世に残すつもりで、

書き留めたわけではなかったかもしれず、

それを想うと、

現代のわれわれにまで読まれるのは、

お気の毒でもあります。

 

日記を読みとくにも、

色々な方面から見ていかないと、

当時の真意はわからないと思いますけどね。

 

<書いてある:残されている>

こうしたことだけでの判断は危ういような。

 

で、

ドラマに戻ります(汗)と、

月を見ている藤式部に声掛けをした、

宮の宣旨(小林きな子さん)は、

なかなか良い人なのですねぇ。

 

それなりに物事をまなんできたゆえ。

 

と、

藤式部に言うのですが、

うんうん、

伊達には年をとりませぬよね。

 

あの方が出てこられると、

ホッコリした中に厳しさもあり、

その場も引き締まるような気がするのです。

 

和泉式部再登場。

貝合(かいあわせ)をやってましたね。

造花のようでしたが(笑)

藤の花びらが舞い散り綺麗な場面でした。

 

彰子に甘える敦康親王(あつやすしんのう)。

『源氏物語』の、

光源氏を思い出すな~と思って観ていたら、

道長も、

その部分を読んでいて(笑)

「これは2人を早く離さねばイカン」と想ったんですね。

 

ですが、

家の繁栄のためではなく、

民のために良い政を行うことが目的なのだ。

と、

息子に諭すところは、

父親の兼家に似てきましたよね。

 

正妻の倫子は、

俺が今日あるのはそなたのおかげである。

と、

道長に言われ、

自信を取り戻した感じで、

落ち着き払った笑顔でしたねぇ。

 

同じく、

道長の妻?妾?の明子のほうは、

道長の息子・頼通(よりみち)に対して、

意外に素直で、

なにか意味ありげな感じでしたけれど。

 

それにしても伊周(三浦翔平さん)。

何もかもお前のせいだ~~

と、

狂気のような感じになってます。

 

再び参内を許されたというのに、

凋落がお気の毒です。

 

長くなるのでまた来週。

(映像写真はNHKさんよりお借りいたしました)

 

 

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人生儀礼:光る君へ37回

2024年09月30日 | 趣味・本・テレビ他

前36回で、

彰子のお子の「50日のお祝い」がありましたが、

昭和時代でも子供を身籠る(みもごる)と、

一般家庭でも、

様々なお祝い事がありました。

 

まずは、

5か月目の戌(いぬ)の日に、

着帯(ちゃくたい)の儀式。

(イヌはお産が軽いからと聞いております)

 

流産してしまわないように、

岩田帯と言われる布(晒)をお腹に巻くのです。

戌の日の帯祝い、岩田帯セット 晒、補助腹帯、コルセット、鶴の赤晒の実用セット 日本製

(画像はAmazonよりお借りいたしました)

 

「帯祝い」とも言われてましたが、

今は腹巻仕様のもの?

何もしない?

 

お産は病院でしたので、

ドラマのようなお祓いはありませんでしたが(笑)

「安産お守り」を頂きました。

 

そして当時は婚家では産まず、

里帰りして出産という方が多かったのですが、

私は婚家にいたままでしたので、

甘えられず(涙涙)

 

子が生まれると、

ひと月で「お宮参り」があり、

100日目の「お食い初め」があり、

「節句祝い」に、

生後1年の「誕生祝い」もあり、

「七五三」に「入学祝い」もありました。

 

家族でお祝い事をするだけでなく、

他家へもお祝いに伺いましたが、

今は家族だけで、

簡略化されてるのでは?

 

現代と平安時代とは、

着るものも住まいも変わってはおりますが、

子供を身籠れば、

多くの家庭で似たような行事を、

なさったことでしょう。

 

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第37回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

嫉妬の心。

 

中宮彰子の母である倫子は、

彰子が、

藤式部の物語を一条天皇へのお土産にしたいと、

言われた時、

表情は少し変えたものの、

それは帝もお喜びでしょう

と、

大人の対応でした。

でも心の中には、

藤式部への複雑な嫉妬はあったでしょうね。

ずっと昔から、

殿のお心には誰かがおられる

と、

感づいてましたから、

相手が藤式部とわかれば心穏やかではないでしょう。

 

前回、

藤式部は道長さまとはどういうお仲なの

と、

藤式部にたずねた赤染衛門。

お方様だけは傷つけないでくださいね。

何もかもお見通しの赤染衛門。

こちらも大人の対応でした。

 

女房の宮の宣旨(みやのせんじ)は、

以前と違って、

随分表情が和らいできました。

彼女は醍醐天皇の曾孫かな。

彰子にお子がお生まれになられ、

そのことだけで嬉しいのか、

藤式部に対しての嫉妬の心はどこへ行ったのかな。

彼女の笑顔に和まされます。

 

昨夜は、

昔の冊子の作り方を、

興味深く見ておりました。

冊子づくりの場面では、

女房達の十二単の色合いに、

料紙には染紙あり、

金銀の砂子や切箔などのものもあって、

美しかったです。

中宮の彰子の衣装は、

ご本人のお好きな空色になりました。

そして藤式部の里帰り。

10才の賢子は複雑な気分でしょうね。

あちらの暮らしのほうが楽しいのでしょう。

と、

母にいう賢子の気持ちは、

寂しさと同時に、

子供であっても母への嫉妬があるのかな。

それにしても、

いつも父と娘の会話には胸を打たれます。

お前が幸せならば答えずともよい。

父親役の岸谷五朗さんはピッタリハマってます。

 

道長のお陰もあって、

従二位になった伊周は、

道長には感謝するどころか、

ず~っと嫉妬だらけだったかもしれません。

能力が高く見目好くの伊周が自尊心を、

もう少し抑えられていたら、

道長への恨みや嫉妬が少なくなり、

穏やかな人生になったかもしれないと思うのですが。

 

一方、

伊周の弟の隆家は、

道長にも信頼されていくと思います。

父親さえ健在ならば、

叔父である道長にお株を奪われることは、

無かったのですから、

こころ内には悔しさや嫉妬はあったと思いますけれど、

しっかり現実を見てますね。

やんちゃだけれど、

どこか心が美しい弟です。

 

明子の兄の、

源俊賢は醍醐天皇の孫であり、

父親は左遷の憂き目にあった境遇にも関わらず、

こちらも、

道長に誠実に仕えていくわけですから、

複雑な心を抑えて立派ですね。

それも裏腹にならず、

キチンと道長に寄り添っていく姿には、

爽やかさを感じます。

 

さて、

このお方は嫉妬心メラメラのお顔になられてます。

亡き中宮の定子の衣装に似てますね。

形見??

嫉妬とは、

① 自分より優れたものをねたみそねむこと。

②自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと。

(広辞苑より抜粋)

 

誰にもある?嫉妬ですが、

向上心につながるようなものだと良いかもですが、

過剰に、

相手に嫉妬して妬んでいるだけでは、

自分自身も苦しいし、

人生をダメにするかもなんて思うのですけどね。

 

ではまた来週。

(写真はNHKよりお借りいたしました)

 

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天動説の時代:光る君へ第36回

2024年09月23日 | 趣味・本・テレビ他

古代の宇宙構造説は、

地球中心の天動説でしたね。

 

天動説に対して、

地球その他の惑星は太陽の周囲をめぐるという、

地動説を発表したのが、

コペルニクス(1473~1543)でした。

日本でいえば室町時代のことです。

 

ガリレオはコペルニクスの、

約100年後くらいに生まれますが、

(1564~1642)

地球は動いているという地動説を支持したため、

裁判にかけられてしまいましたね。

江戸時代のことです)

 

地球が太陽の周りを回っているだけでなく、

地球も自転してますよね。

 

月だって自転してます。

地球のまわりを1公転する間に、

1自転

 

そして、

月と太陽といえば暦(こよみ)

 

現在使っている太陽暦は突然明治に、

改暦されたわけではないのです。

 

少し遡ってみると、

貞享暦(じょうきょうれき)というのは、

日本人により編纂された暦で1644年から1755年まで使用。

宝暦暦(ほうりゃくれき、ほうれきれき)1798年まで使用。

寛政暦(かんせいれき)1844年まで使用。

天保暦(てんぽうれき)1872年まで使用。

 

このように江戸時代には4回も改暦され、

天保暦(てんぽうれき)が、

1872年(明治5年)まで使われていたわけです。

 

現在私達が使っている暦(グレゴリオ暦)は、

太陽の動きをもとにして作られているため、

「太陽暦」と呼ばれます。

一方、

太陽暦が明治6年に採用される以前の日本では、

月の満ち欠けをもとに、

季節をあらわす太陽の動きを加味して作られた、

「太陰太陽暦」が使われていました。

一口に太陰太陽暦といっても、

歴史の中では、

たくさんの暦法(計算の規則)が使われてきましたが、

太陽暦への改暦の直前に使われていた、

「天保暦」と呼ばれる暦法のことを、

一般には「旧暦」と呼んでいます。

青文字は国立天文台より借用)

 

明治6年から、

新暦(グレゴリオ暦)になったわけですが、

この暦は、

世界各地で広く採用され、

事実上の、

世界標準暦として機能しているそうです。

 

グローバルな現代では、

各国の暦がばらばらでは不便ですものね。

 

ところで、

笑われそうですが私が、

月にウサギがいないってハッキリと知ったのは(笑)

1969年(昭和44年)に、

月に降り立った、

アームストロング船長さんの映像からでした。

 

驚きとともに、

いつも月を見上げていた私は、

ウサギやかぐや姫のロマンもなくなったことに、

非常に落胆したことも覚えております。

ワタシはお月様から来てココにいるの?

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第36回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

藤式部(紫式部)は彰子に頼りにされ、

彰子は漢詩も藤式部にコッソリ学び始めるのですが、

他の女房達は、

藤式部に嫉妬するでしょうね。

私もひそかに学んで帝を驚かせたい。

なんて、

可愛い中宮になられたのでしょう。

久々に揃った、

斉信・道長・公任・行成の藤原4男子。

 

彰子に皇子がお生まれになったら、

ややこしくなると誰もが思うでしょうね。

 

それを子供心に察している、

定子のお子である敦康親王(池田旭陽ちゃん)。

その親王さまに、

親王さまが私のおそばに居てくださいます。

ずっとずっといてくださいませ。

という、

彰子は成長しましたね~~

その時の庭には藤の花が咲いてました。

 

そして、

私が今あるのは藤式部のおかげと、

お産後に言われてましたね。

 

その言葉どおり、

彰子は自分の子が生まれても、

定子のお子も大切にしていくようです。

 

清少納言の再登場。

藤式部(紫式部)に戦闘意識がありありで、

顔がぴくぴく引きつってました。

 

そして、

9月11日(旧暦では10月12日)、

敦成(あつひら)親王がお生まれになります。

 

それにしても騒々しいほどの、

お産の儀式でしたが、

紫式部の日記にも、

お産の様子は事細かに記されてますので、

やらせではなさそうですよ(笑)

 

伊周は彰子を呪詛しておりましたが、

真偽のほどはともかく、

複雑な気持ちは存在してたでしょうね。

 

そして、

私が気になったのがここ。

望月を見ながら語り合う2人。

藤式部(紫式部)・道長

 

誰か見てないかと目を凝らしましたが(笑)

誰かいましたか?

 

そして気になったというのが、

そこで藤式部(紫式部)の詠んだ、

めずらしき光さしそふさかづきは

もちながらこそ千代もめぐらめ

 

この歌が、

今回のドラマに置いては、

道長の、

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の

欠けたることも 無しと思へば

の、

歌につながるのかなって思ったのです。

 

だってね、

道長は藤式部(紫式部)に、

その歌のこころを教えてくれ」といい、

「覚えておくぞ」と言いましたもの。

このドラマに置いては、

2人はソウルメイトという設定ですし、

お月様を大事にしてますし。

 

そして、

「御五十日のお祝い」の日。

「おほんいかのおいわい」というそうです。

訂正です。

 

藤式部(紫式部)と道長の歌のやり取りを見ていた

道長の妻・倫子は、

カチンときて席を立って行ってしまうのですが、

それはそうでしょうね。

倫子さま心中お察しいたします

 

最後!

気立てよく聡明な赤染衛門にまで、

「藤式部は道長さまとはどういうお仲なの」

なんて聞かれてしまいましたね。

どう答えるんでしょう。

 

ではまた来週。

 

(写真はNHKよりお借りいたしました)

 

 

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心が動く時:光る君へ第35回

2024年09月15日 | 趣味・本・テレビ他

人の心が動くとき。

恋に落ちたり、

一気に冷めたりなどは案外、

感情が司ってる?

 

人が恋に落ちるのに必要な時間はなんと0.2秒だということが、

研究で明らかになっています。

その0.2秒というのは、

恋に落ちてからホルモンが脳内に広がるまでの時間。

ドーパミン、アドレナリンなど、

聞いたことがあると思いますが、

恋に落ちるとこういったホルモンが頭の中を駆け巡るのです。

(ネットより)

 

理性的に冷静に考えているようなときでも、

感情は自然に湧いてきますね。

でも,

冷める時も一気ですよね(笑)

 

これまた、

理性ではなく感情の仕業のような。

 

両者絡み合っているのでしょうが、

このあたりは脳科学者にお任せにして(笑)

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第35回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

道長は、

金峯山(きんぷせん)から無事帰られました。

 

史実では、

大変身体が弱かったようですから、

現在の奈良の吉野までは命がけだったと思いますし、

金峯山の奥の本堂まで行かれたようですし。

 

彰子の懐妊祈願は、

もちろんあったと思いますが、

そればかりではなかったでしょうね。

 

道長の日記に詳しく、

金峰山について書かれてますが、

途中のお寺にも寄り巡礼の旅だったようです。

 

行成の日記には、

左大殿(ひだりのおとど)金峯山に詣で給ふと、

ありますが、

山とも金山ともいうのですね。

峯と峰の違いは?

 

 「峰」が《正字》で、

「峯」は《異体字》とされているそうです。

金峯山寺のホームページでは峯です。

 

岩のような山肌に、

山伏の着るような白い衣装が映えてました。

 

道長の嫡男の頼道が、

明子の兄の、

源俊賢(みなもとのとしかた)に手を差し伸べる姿は、

美しい心がけだと思いました。

俊賢は甥である、

明子の子も賢い良い子であっても、

今後は頼道に一目置くのでは?

 

道長の暗殺計画は(噂では)あったようです。

(書き物に残されていると言っても史実とは限りませんが)

 

道長を憎む伊周(これちか)が、

弟の隆家に阻まれ、

毒矢(矢の先端に緑の色が)を放たなかったけれど、

あの兄弟愛も美しく描かれてましたね~

 

兄を助けるための邪魔をする弟。

これが俺にできる詫びと隆家が言った後、

伊周の顔は、

とっても穏やかでしたね。

 

人の心の棘(とげ)みたいなものが抜けると、

人の心は安らかになるのでしょうか。

 

さて、

奥ゆかしくて、

あまり感情を表さなかった彰子は、

ようやく、

帝に想いを告げました。

最初に一条天皇にお会いした時も、

きっと!ステキ!と、

思ったのでしょうが、

言葉にできなかったのですね。

それにしても恋敵?の定子の皇子(敦康親王)を、

慈しんで育てるって、

彰子は心の美しい中宮ですね。

 

雪のちらつく三日月の夜に、

帝は藤壺にお渡りになられました。

雪の映像が美しかったです。

 

そして仲睦まじい、

こちらの二人。

見られてますよ。

ではまた来週。

 

 

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戸籍:光る君へ第34回

2024年09月09日 | 趣味・本・テレビ他

有名な『源氏物語』を書いた紫式部ですが、

ハッキリとした、

生没年さえわかっていないのです。

 

上級貴族の子女や后になるような女性は、

生没年も、

どなたかの日記などに残されていて、

わかるのですが。

 

例えば、

一条天皇の后の藤原定子の生年は976年で、

没年は1000年。

 

道長の正妻の源倫子は、

生年は964年で没年は1053年。

 

ですが、

当時は紫式部だけでなく

女流作家の清少納言和泉式部他も生没年未詳。

もちろん庶民もですね。

 

でも仕方がなかったことでしょうね。

 

当時は、

戸籍がなかったでしょうし、

今のように、

出生届け出の義務もなかったわけですから。

 

で、

戸籍ができたのは、

明治からって思いますよね。

 

でも広辞苑によると、

6世紀ごろから朝廷管轄領の一部で造り、

大化の改新後の、

律令国家では6年ごとに造ることとしたが、

10世紀にはほぼ廃絶。

明治維新後に復活した。

とあります。

 

別の説明では、

律令国家は民衆を把握するための台帳として、

戸籍を作った。

 天智天皇9(670)年の、

庚午年籍が最初の戸籍であり、

持統天皇4(690)年の飛鳥浄御原令にもとづく、

庚寅年籍が、

全国的規模で実施された、

最初の戸籍と考えられている。

とのことで、

案外早くに全国的に、

戸籍が作られていたことに驚きました。

 

追記

ブロ友さんのtibinekoさんよりのコメント。

(感謝です)

 

岐阜県加茂郡富加町に、

大宝2年(702)に作成された、

日本最古の「半布里戸籍(はにゅうりこせき)」が、

残されているそうです。

実物は正倉院で保管されてるようですが、

欠けもなく、

1300年も前の戸籍が残されているって、

すごいことですね~

 

私が生まれたころは、

戸籍はもちろんのこと「母子手帳」があり、

何年の何月何日○時○○分に生まれたと、

記されております。

 

母子手帳のお陰で、

「お前は二重橋の袂(たもと)で拾ってきた子」

なんて言われても笑い飛ばせます(笑)

皇居正門鉄橋(二重橋)のご紹介 : 皇居外苑 | 一般財団法人国民 ...の画像

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第34回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

興福寺のことは小右記にも載ってます。

対応には苦慮したことでしょうね。

 

まだ打ち解けないお二人。

そなたは朕の中宮である。

胸を張っておらねばならぬ。

といわれる、

一条天皇のお優しさと彰子への眼差し。

心に沁みますね~

 

藤式部(紫式部)は、

中宮さまのお心が帝にお開きにならねば、

前へすすみません

と、

娘を案じる道長に言うのですが、

彰子は藤式部に真っ先に心を開きましたね。

 

昨晩もまた、

御自ら(おんみずから)藤式部の坊が見たいと、

訪ねるのですものね。

そして、

また来てよいか。

ですものね。

 

藤式部が物語を執筆しているところに、

帝までいらっしゃるのです。

これにはびっくり。

 

そなたの物語は、

朕に真っすぐに語りかけてくる。

(中略)

また来る。

です。

 

天皇と中宮のキューピッド役としての、

藤式部が描かれてますね。

 

道長邸での、

曲水の宴(ごくすいのえんきょくすいのえんとも)。

3月3日参会者が曲水に臨んで、

上流から流される杯(さかずき)が、

自分の前を通り過ぎないうちに詩歌を作り、

杯をあげ酒を飲み次へ流す。

終わって別堂で宴を設けて披講(ひこう)した。

(広辞苑)

 

斉信と行成

それぞれが、

「光源氏」は誰なのか想像しているようですが、

源俊賢(みなもとのとしかた)の父親の、

源高明(みなもとのたかあきら)も、

モデルと言われるお一人ですね。

 

ただ、

このドラマにおいては、

道長が藤式部の「光る君」なのでは?なんて、

私は思ったりもするのですが、

最後どう描かれるのでしょう???

 

彰子と藤式部(紫式部)が、

打ち解けて話をしている様子を見つめる、

道長の姿が印象に残っております。

 

彰子のお顔つきが少しずつ、

和らいでますね。

 

そして金峰山(きんぷせん)のこと。

金峯山寺のホームページよりの抜粋です。

写真もお借りいたしました。

 

吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、

古くから金の御岳(かねのみたけ)、

金峯山(きんぷせん)と称され、

古代から世に広く知られた聖域とされました。

現在では金峯山修験本宗の総本山として、

全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。

徒歩で行くのですから、

(素足にわらじでしたね)

途中において幾つもの寺や仏堂を訪れた、

巡礼の旅だったようです。

(御堂関白記より)

 

同行には源俊賢と、

道長の嫡男の藤原頼通(渡邊圭祐さん)ですが、

道長は史実では病弱でしたから、

命をかけての御岳詣で(みたけもうで)だったんでしょうね。

 

ではまた来週。

(写真はNHKよりお借りいたしました)

 

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月ぞ流る:光る君へ第33回

2024年09月02日 | 趣味・本・テレビ他

先週の「光る君へ」では、

まひろ(紫式部)の内裏の案内役は、

赤染衛門(あかぞめえもん)がつとめました。

 

その赤染衛門を主人公にした、

澤田瞳子さんの『月ぞ流る』を読んだのです。

 

帯には、

日本初の女性による、

女性のための歴史物語『栄花物語』の作者である、

朝児(あさこ:赤染衛門)との紹介があります。

他の説でも、

『栄花物語』は、

40巻あるうち正編30巻は赤染衛門の作だと、

ほぼ断定できるとありますし、

先のNHKの放送でも、

赤染衛門は『栄花物語』の一部を執筆したと、

ナレーションがありました。

 

元宝塚歌劇団宙組トップスターだった、

凰稀かなめ(おうきかなめ)さんが演じる赤染衛門は、

本の中でもドラマ同様に、

美しく淑やかで聡明な女性に描かれております。

この『月ぞ流る』には一条天皇の後の三条天皇と、

道長や娘の妍子(彰子の妹)との、

確執が描かれているんですが、

終盤には涙があふれ何度も本を閉じました。

 

三条天皇の歌。

 

心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな

 

望んでいないにもかかわらず、

この辛い世の中に生きながらえていれば、

いずれはきっと恋しく思うであろう。

今夜の夜半の美しい月を

(訳は本より)

 

それに対する道長の次女、

中宮である妍子の御返歌は、

天の河 雲の水脈(みお)にて はやければ

光りとどめず 月ぞ流る

 

妍子は、

帝の膝に片手を置き詠ったのです。

ようやく心がつながった、

お二人。

 

この歌は自作ではなく、

古今和歌集からの歌なのですが、

本の題名『月ぞ流る』はここからなのですね。

 

放送のほうは、

まだまだ彰子の時代ですが。

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第33回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

昨夜の放送で最初に思ったこと。

 

あの藤壺女房軍団に、

まひろは大きなイジメを受けなくて良かった。

ホッ!でした。

少しは、

どこの世界にもあることで。

 

それにしましても、

まひろは藤式部という名前を拝命しましたが、

地味でつまらぬ女は、

己の才を生かすしかほかありませぬ。

と、

公任に昔の借りを返すとは(笑)

 

雨夜の品定めのように、

まひろをけなしていた公任に一本でしたね(笑)

斉信は覚えていて、

当の公任は忘れてましたけど(笑)

 

彰子は空の色が好き。

少しづつ意思を示し始めました。

帝は続きができたら、

お前に会いたいと仰せだ。

なんて、

まひろは道長に言われましても、

几帳(きちょう)で区切られただけの坊(小部屋)では、

物語の続きを書こうにも、

書いていられないですよね。

 

あのドローンで撮影したような、

映像の撮り方は面白いものでした。

 

源氏物語絵巻などに見られる、

天井を取ったような、

吹抜屋台(ふきぬきやたい)という描法を、

見ているようでした。

それぞれ女房の寝相が凝ってましたが、

上手く写真が撮れず載せられず。

 

かがり火?の音が、

パチパチなっている中での、

公卿たちの中宮拝謁(はいえつ)の大饗(だいきょう)も、

華やかな平安時代の趣を醸し出してましたね。

 

再び参内の藤式部。

庭には藤の花が咲き、

彰子のお部屋の御簾も綺麗でした。

一条天皇が、

まひろの書く物語に興味を持たれ、

藤壺を訪れたことの褒美に、

道長より扇子(せんす)を頂くのですが、

幼き頃の二人の出会いの絵でした。

三郎(道長)とまひろ(紫式部)の出会いの扇子を贈るとは、

粋です。

 

追記

 ブロ友kazuyooさんからお教えいただきましたが、

この扇子は、

「檜扇(ひおうぎ)」というそうです。

 

宮中で位のある人が用いたもので、

檜(ひのき)の板を重ねて、

作ってあるそうです。

 

大和の興福寺の別当が道長を訪ねてきました。

強訴(ごうそ)ですね。

 

すべては些細(ささい)なことから始まるのです。

と、

帝に言う道長の言葉にも心打たれましたが、

朝廷は強訴を押さえるため、

武士の武力を重用していくことにより、

武家も力を持ってくるという、

そういう芽も出始めているのですね。

 

昨晩は不穏なまま終わりましたが、

また来週。

(映像写真はNHKよりお借りいたしました)

 

 

 

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日記という史料:光る君へ第32回

2024年08月26日 | 趣味・本・テレビ他

ドラマと並行させ、

初心者向きの日記を読んでおります。

(道長の日記・実資の日記・行成の日記)

 

月食のことや、

内裏の火事のことや八咫鏡(やたのかがみ)※

焼損のことも載っておりました。

※ 八咫鏡は三種の神器の一つ

 

火事の部分は、

なぜか、

道長の日記にはないのです。

 

初心者向きだから、

全て載っていないこともありますし、

対応に忙しすぎて、

書いてる間がなかった?

別の本(物語)に、

意味深なことが書かれてましたけど。

 

小右記には、

公任の辞表のことや、

伊周の歌のことも書かれています。

 

各々が、

こうして書き残してくれたおかげに、

1000年も前のことがわかるのですね。

 

そして奇しくも!

道長行成亡くなった日が、

同じなのです。

 

1027年12月4日没 

(旧暦だと1028年1月3日)

 

道長は糖尿病による多臓器不全らしく、

 62才でした。

行成は、

12月1日に食べられなくなって、

12月4日に、

厠(かわや)へ行くときに倒れたそうです。

55才でした。

(厠というのはお手洗いのこと)

 

2人が亡くなったことも、

小右記に記されておりますが、

実資は道長より10歳ほど年上で、

かつ長生きをし(89才)、

84才まで日記を書いていたようです。

        

それぞれ書き方に特徴があり、

行成は亡くなってしまった妻との結婚記念日や、

結婚年数も覚えていて、

どの日記も面白いです

 

°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第32回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

 

今回も盛沢山でしたね~

 

伊周の漢詩も良かったです。

策略はあろうとも、

上手いな~と思いました。

 

そして、

まひろは、

誰のためでもなく、

自分のために物語を書くのです。

それが自分の道であるとわかったのですね。

茶目な実資は斉信と公任に、

従二位(じゅにい)従二位(じゅにい)で、

自分は正二位というのですけれど、

公任邸を訪れて、

便宜をはかってもらえたから(先週の話)

「辞表を出す」という知恵を授け、

公任に返礼をしてあげたのですね!?

 

色んな陰謀(いんぼう)や駆け引きが、

行われていたのでしょうが、

同じ二位であっても、

とでは、

俸禄に大きな差があるそうです。

今夜の光る君へ>第32回「誰がために書く」 物語が仲を深める ...の画像

久々に笑顔の倫子。

殿が(は)なぜまひろさんをご存じなのですか

(なぜが意味深)

公任に聞いたのだ

うんうん確かにそうではあるけれどね。

 

名案ですわ 殿さすが♡

まひろさんは昔から存じておりますが、

私も嬉しゅうございます

(なんかアッサリ受け入れすぎの感)

 

倫子が良いならそうしよう

道長はもう決めてあるのにね(笑)

 

でも、

まひろ(紫式部)が中宮に、

ご挨拶に伺った時の倫子はにこやかで嬉しそうでしたが、

道長とまひろの関係に何かがあると、

感づいいてたんでは?

 

2人の関係を知っている、

私の深読みかな(笑)

 

倫子には、

彰子と天皇の結びつきを願う親心はあるのでしょうが、

夫との関係を知っているにしても(?)

倫子は堂々と振舞っていましたね~

 

そして死にゆく安倍晴明

 

呪詛も祈祷も人の心の有りようでございます。

人の心はかってに震えるのでございます。

 

流れる音楽に、

月と星空の映像がとても綺麗でした

(享年84才)

 

皆既月食の日に内裏の火事

光る君へ】第32回「誰がために書く」のあらすじ 道長の思惑 ...の画像

こちらの、

ギクシャクされておられるお二人。

ご両人の御人柄の良さが溢れてましたね。

 

雪が舞う、

まひろ邸の椿。

しっとりした父娘の語らいがありました。

お前が女で良かった

やっと父親に、

女であることを受け入れてもらえたのですねえ。

 

そして、

まひろを迎える、

十二単の藤壺女房軍団の冷たい視線。

衣装が煌びやかでした。

その女房達の中で、

笑顔なのは赤染衛門(あかぞめえもん)だけでした。

 

ではまた来週。

(映像写真はNHKよりお借りいたしました)

 

 

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