鉄道廃止後の幌加内駅を最初に訪れたのは平成08年09月02日の夜の事であった。
前年の鉄道最終営業日前日と同じように、深川の銭湯で疲れを癒し、駅前のローソンで明日の食料を調達した私は、深名線転換バスに乗り込み、幌加内へと向かった。
私の他に数名の地元の方々を乗せたバスは、多度志を抜けるとほとんどの乗客が降りてしまった。
もう乗客も乗るまいとうつらうつらしていると、宇摩でバスが停車した。バスに乗ってきたのは、昼間に跡地で見かけた登山用ザックを背負った客だった。
ザックを背負った客も私と同じように終日開いている待合室で宿泊する事を考えていたようで、終点の幌加内バス停の待合室で荷を解いた。
現役の頃は殺風景だったこの待合室も、色々とデコレーションがなされていて、とてもきれいであった。風が吹きすさぶ幌加内バス停の待合室で、2人きりの宿泊者は遅くまで深名線の話で盛り上がった…。
旧幌加内駅で連泊しているうちに、待合室をデコレーションしている有志の皆様が集会を開いたので、そこにひょっこりお邪魔して、色々と話を聞いた。
当時、バスには便所がなくて、複数箇所でトイレ休憩をとっていたのだが、ガソリンスタンドのトイレを借りていた休憩場所は、休業日には使えないといった問題があった。
だが、バスにトイレがない問題は、高齢者には非常に切実な問題であり、トラブルになってしまった例を聞かされた。
待合室のデコレーションについては、花を飾るところから始めていったと聞いたと思うが失念してしまい、出札口付近に一段高いステージが設けられたが、たしか沼牛で宿泊施設を経営する阿部光治氏の手によるものだと聞いたように記憶している。
その会合では道内各地から深名線に魅せられた人達が集まり、何人かと知り合いになった。
そのうちの一人とは、平成10年の時に幌加内駅で再び会おうと約束して、広尾・中標津・紋別・稚内・羽幌を経由する廃線跡を巡る旅行中に絶えず連絡を取っていたのだが、会う直前になって急に連絡が取れなくなってしまった。
幌加内駅前にあった電話ボックスから別の知人と連絡を取った時に、その知人が急遽連絡が取れなくなった理由を聞かされ、身近にいるのに何もできない己の無力さを嘆いた。
深名線を、幌加内町を彼はあれ程愛したというのに…と寂しい夜を待合室で過ごしたのが、幌加内駅駅舎を見た最後となった。
北北西方向を望む
旧幌加内駅の便所が撤去された後、駅務室に便所を設けて、待合室と駅務室を結ぶドアを新設したらしい。
南南東方向を望む
南側の壁に防災無線が設置されており、平成07年09月10日に政和付近を調査中にひぐまとニアミスだった事を、突然の豪雨で雨宿りさせていただいた幌加内町字大曲の米森様宅で特製のカレーライスを食している時に防災無線で聞いたものだったが、今は防災無線に代わる設備になったらしい。
南南西方向を望む
防災無線に代わる設備というものについて、平成23年10月に幌加内町在住の方と会った時に説明されたが、電話機のようなものである事しかわからなかった。
名寄方を望む
画面左側にバスの車庫があるが、建物が建てられた当時は、路線バスはJR北海道の一部門だった事に今更ながら気がついた。
2002年6月1日に、幌加内バス停から改称されたJR車庫前バス停が廃止になったそうだが、建物が残っている事がわかったので、廃止後に着目しなかったバス車庫を調査するつもりだ。
深川方を望む
画面奥の右手に鉄道官舎が見えるが、今だったら、鉄道官舎をも調査の対象にして建物財産標を確認していたはずだが、無念である。
前年の鉄道最終営業日前日と同じように、深川の銭湯で疲れを癒し、駅前のローソンで明日の食料を調達した私は、深名線転換バスに乗り込み、幌加内へと向かった。
私の他に数名の地元の方々を乗せたバスは、多度志を抜けるとほとんどの乗客が降りてしまった。
もう乗客も乗るまいとうつらうつらしていると、宇摩でバスが停車した。バスに乗ってきたのは、昼間に跡地で見かけた登山用ザックを背負った客だった。
ザックを背負った客も私と同じように終日開いている待合室で宿泊する事を考えていたようで、終点の幌加内バス停の待合室で荷を解いた。
現役の頃は殺風景だったこの待合室も、色々とデコレーションがなされていて、とてもきれいであった。風が吹きすさぶ幌加内バス停の待合室で、2人きりの宿泊者は遅くまで深名線の話で盛り上がった…。
旧幌加内駅で連泊しているうちに、待合室をデコレーションしている有志の皆様が集会を開いたので、そこにひょっこりお邪魔して、色々と話を聞いた。
当時、バスには便所がなくて、複数箇所でトイレ休憩をとっていたのだが、ガソリンスタンドのトイレを借りていた休憩場所は、休業日には使えないといった問題があった。
だが、バスにトイレがない問題は、高齢者には非常に切実な問題であり、トラブルになってしまった例を聞かされた。
待合室のデコレーションについては、花を飾るところから始めていったと聞いたと思うが失念してしまい、出札口付近に一段高いステージが設けられたが、たしか沼牛で宿泊施設を経営する阿部光治氏の手によるものだと聞いたように記憶している。
その会合では道内各地から深名線に魅せられた人達が集まり、何人かと知り合いになった。
そのうちの一人とは、平成10年の時に幌加内駅で再び会おうと約束して、広尾・中標津・紋別・稚内・羽幌を経由する廃線跡を巡る旅行中に絶えず連絡を取っていたのだが、会う直前になって急に連絡が取れなくなってしまった。
幌加内駅前にあった電話ボックスから別の知人と連絡を取った時に、その知人が急遽連絡が取れなくなった理由を聞かされ、身近にいるのに何もできない己の無力さを嘆いた。
深名線を、幌加内町を彼はあれ程愛したというのに…と寂しい夜を待合室で過ごしたのが、幌加内駅駅舎を見た最後となった。
北北西方向を望む
旧幌加内駅の便所が撤去された後、駅務室に便所を設けて、待合室と駅務室を結ぶドアを新設したらしい。
南南東方向を望む
南側の壁に防災無線が設置されており、平成07年09月10日に政和付近を調査中にひぐまとニアミスだった事を、突然の豪雨で雨宿りさせていただいた幌加内町字大曲の米森様宅で特製のカレーライスを食している時に防災無線で聞いたものだったが、今は防災無線に代わる設備になったらしい。
南南西方向を望む
防災無線に代わる設備というものについて、平成23年10月に幌加内町在住の方と会った時に説明されたが、電話機のようなものである事しかわからなかった。
名寄方を望む
画面左側にバスの車庫があるが、建物が建てられた当時は、路線バスはJR北海道の一部門だった事に今更ながら気がついた。
2002年6月1日に、幌加内バス停から改称されたJR車庫前バス停が廃止になったそうだが、建物が残っている事がわかったので、廃止後に着目しなかったバス車庫を調査するつもりだ。
深川方を望む
画面奥の右手に鉄道官舎が見えるが、今だったら、鉄道官舎をも調査の対象にして建物財産標を確認していたはずだが、無念である。
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