柏市若白毛の庚申塚は、05月19日に全景を撮影して以降、別の場所に浮気をして思いの外時間がかかってしまったが、以下、左側から順に紹介をする。
文政九(1826)年建立の庚申塔だが、猿は扇で口を押さえているようだし、何か羽織っているみたいだし、今まで見てきたのとは一味違うようだ。
こちらの石碑は、文化十四(1817)年はかろうじて読めたが、白い染みのような模様が邪魔をして何月なのか読めなかった。
寛政六(1794)年十一月建立の文字塔の右隣にある駒形社の祠は、一部が崩れてしまって、傍らに残骸が転がっていた。
享保六(1721)年十月建立の青面金剛塔は目を見開いて怖い表情だが、右隣の宝永五(1708)年十月六日建立の青面金剛塔は対象的な表情で、かえって怖さを増しているようだ。
道路の向かいに成田・流山方面の道標があったが、他の面にも何か刻印されていたようだが全く読めなかったので、とても気になる。
道標の近くには道祖神が置かれていたが、それよりも、道標の近くの「皈元」と刻印されている石碑に目が留まった。
“皈”は、“帰”の異体字で、帰元とは、涅槃(ねはん)の世界に入るという意味らしく、建立の背景がとても気になる。
ところで、「皈元」の石碑が建立された天明六(1786)年は、1783年の浅間山噴火から間もないが、当時、伊能忠敬や長谷川平蔵が38歳だった事に驚かされた!
来年、私も38歳になるが、志がある訳ではなく、身を固める気もなく、働きたくないでござるとつぶやきながら仕事をしているし、この落差は何なのだ…。
文政九(1826)年建立の庚申塔だが、猿は扇で口を押さえているようだし、何か羽織っているみたいだし、今まで見てきたのとは一味違うようだ。
こちらの石碑は、文化十四(1817)年はかろうじて読めたが、白い染みのような模様が邪魔をして何月なのか読めなかった。
寛政六(1794)年十一月建立の文字塔の右隣にある駒形社の祠は、一部が崩れてしまって、傍らに残骸が転がっていた。
享保六(1721)年十月建立の青面金剛塔は目を見開いて怖い表情だが、右隣の宝永五(1708)年十月六日建立の青面金剛塔は対象的な表情で、かえって怖さを増しているようだ。
道路の向かいに成田・流山方面の道標があったが、他の面にも何か刻印されていたようだが全く読めなかったので、とても気になる。
道標の近くには道祖神が置かれていたが、それよりも、道標の近くの「皈元」と刻印されている石碑に目が留まった。
“皈”は、“帰”の異体字で、帰元とは、涅槃(ねはん)の世界に入るという意味らしく、建立の背景がとても気になる。
ところで、「皈元」の石碑が建立された天明六(1786)年は、1783年の浅間山噴火から間もないが、当時、伊能忠敬や長谷川平蔵が38歳だった事に驚かされた!
来年、私も38歳になるが、志がある訳ではなく、身を固める気もなく、働きたくないでござるとつぶやきながら仕事をしているし、この落差は何なのだ…。
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