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自称“流川市民”の、鉄道橋梁&トンネルと北海道の国鉄(JR)廃線跡が好きな人間がブログに挑む。(最近は迷走の日々…)

国鉄標津線 東標津信号場(1998年10月)

2015年03月15日 | 鉄道―石北本線・釧網本線周辺廃線調査
この記事は、ホームページに発表した平成10年10月当時の東標津信号場の記事を若干補足したものである。


中標津駅を出てまもなく、標津川に架けられた第1標津川橋梁(撤去済)を渡った列車は、かつてはいくつもの丘と川を越えて上武佐駅へ向かっていたが、その昔、その途中に東標津信号場があった事は知られていない。そして、そこから側線が分岐して今の中標津空港へ向かっていた事も、知られていない。
この信号場は、戦争もたけなわになった昭和19年に、当時の海軍飛行場建設の資材輸送の為に敷設された側線の分岐点として開設されたが、わずか1年足らずで戦争に負けた後、昭和20年11月に正式に廃止となった。
当時は男性の多数が出征していたので、この側線と信号場について知っている地元の方はほとんどおらず、確か、女性から若干の情報が得られたように記憶している。

この信号場が開設されるきっかけとなった飛行場について中標津町経済部経済振興課に問い合わせたところ、高松様から町史のコピーが送られてきたので、引用する。

 …四三年(昭和一八年)には兵制が改正されて、四十五歳未満の男子はことごとく要員とされ出征兵士は増加した。
 こうしたなかにあって、計根別飛行場の建設が始まった。陸軍の軽爆飛行場として…四四年(昭和十九年)春に完成したが、この飛行場の完成を前にして、海軍も中標津(二十二線北六号付近一帯)に第一標津海軍航空基地の建設に着手した。…
 陸海軍の飛行場が建設されることは、軍事要塞化されることであり、空爆の標的になる危惧も合ったが、四五年(昭和二十年)七月十四、十五日の米軍グラマン機は、海岸沿いに標津上空へ飛来し川北に爆弾二発を投下した。
 このとき、中標津市街地上空にも姿を見せたが、幸い被爆することはなかった。ただ、国鉄標津線春別~中標津駅間を通過中の列車が機銃掃射を受け、機関車一両が転覆、死者三人、重軽傷者六人の被害を見た。…


信号場から分岐していた側線は道道774号を横切っていたはずだが、道道付近でははっきりと確認出来ず、また、信号場付近の跡地は、信号場から分岐する側線なのか、ただの道なのかはっきりしなかったので、空港付近の線路跡から紹介する。

道道774号を川北方面へ走ると、空港の外れに十字路があるので、そこを左折すると良い。なお、平成10年当時には、交差点の手前に軽食・喫茶店ティコティコの看板が設置してあった。





交差点の角にある喫茶店を右に見ながら十字路を左折すると、道路の右手に土手みたいなものが見えるが、その土手が、線路跡であったそうだ。なお、喫茶店のマスターは、地元の方によれば自分の店の敷地にかつて線路があった事は一切知らないらしいのでご注意を。









信号場の場所だが、件の十字路を過ぎると、右手にあるホテル(ラブホテル?)の手前に十字路がある。
町道は林へ突入するが、まもなく左右に一直線に切れ間が見える。

52.1km地点より根室標津方を望む



52km118m地点 携帯電話端子箱





標津線の跡地である線路一本分の林の切れ間を標津方向へ歩くと、林の左手に砂利が敷かれている奇妙な空地が見える。狭かった道が急に開けたような場所の辺りが東標津信号場であったようだ。



おまけ





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