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『1Q84』村上春樹の世界観!(その7・メタファー)

2010-04-05 16:21:48 | 村上春樹の世界観
こんにちは、テツせんです。
桜の花のあの妖しいまでの気配は人を酔わせて惑わすちからをあふれさせているようですね。
そこに狂気や屍さえ想像した詩人たちがいたのもうなづけます。

さてと、今回はいつも以上に気合が入っています。
これが空回りにならないことを念じつつすすめていきましょう。

みなさんもお気づきかとおもいますが、
これまでは(天吾)と(青豆)の生き方・ものの考え方について集中してお話してきました。
語るべきことは粗かた話せたとおもいますので、
もうそろそろ次にひかえている登場人物や奇妙なものやそれに関係する役割について、
解読をすすめていきたいとおもいます。

この『1Q84』には(天吾)と(青豆)のほかにも、
(ふかえり)、(さきがけとリーダー)、(リトル・ピープル)、さらには(マザとドウタ)、(空気さなぎ)、(二つの月)、
といった名称がメタファーとして使われています。

作者はいかにもトリッキーなキイワードを駆使していて、読者を惑わす術にたけているようです。
ここのところがこの作品の真骨頂であって、
読者を魅了してなお惑わすという作者村上春樹の作風なのでしょう。

これらのメタファーを縦横に自在にあやつって、
「どうだい、この難解な物語を読み解いてごらん!」と語りかけている風にもとれます。
なぜなら作者はただのファンタジーとして読むことを拒むと、作品のなかで宣言していますし。・・・

しかし心配無用で、難問をひも解くヒントはこの本の中にあるわけですから。
まず(リーダー)と(リトル・ピープル)の関係に
メタファーを解く取っ掛かりを見つけることにしましょう。

作品のあとの方には、
-「リーダーとふかえりは多義的に交わった。
そしてその行為をとおしてリトル・ピープルを彼の中へ導いた。
ふかえりが『知覚するもの』であり、父親が『受け入れるもの』だった。
そしてその男は特別な声を聴き始めた。
彼はリトル・ピープルの代理人となり、『さきがけ』は宗教団体になる。
その後ふかえりは教団を離れる。今度は『反リトル・ピープル』のモーメントを担う。」
とあります。-

これだけきちんと整理して書いてくれているのは作者の親切というものでありがたいことです。
それでわたしたちはこの一見おそろしくリアルにみえる寓話から、
メタファーが示している意味とメッセージを読みとることができるわけです。

( この作者の説明があらわすメタファーってなんのことだかようわからん、
とおもうかもしれませんね。
日本人は元から、このように構成された文章の理解、
さらには言葉の比喩がもたらす本質的な意味を理解することをあいまいに放置してきたと、
鈴木孝夫氏や大野晋氏に指摘されています。
文脈の中で擬人化されたとたんに、
その者をそとに置くか内に親和させるかという認知だけがクローズアップするため、
そのキャラクターがさも本当のように感じられて、作者の術中に簡単にはまるのです。

おそらく評論家や作家先生たちも、
ことこの作品のメタファーに関しては的確な解読に至ることは稀なように予測されます。)

ここでは、(リーダー)が起こす、言ってみれば《聖性としての性の交わり》などといった、
社会のタブーを破ってくる確信犯としての《観念の肥大》そのものである『宗教性(霊的な)』、
いいかえれば凶暴や狂気といってもよいその発現を、

『(リトル・ピープル)という古代以来の精霊』 と 『(リーダー)という根っからの観念論者』の、
二つの目に見える媒体に分割・分化して物語を構成しようとしているわけです。

作者はつまり、いつの時代にあっても、こうしたタフな観念論者が出現するときには、
人類史の暗闇からリトル・ピープルのような霊的な因子がくっついて、
肥大化して、世間を騒がす事件に至るのだと言いたいのでしょう。

( お分かりのように
この作品では「オウム真理教の出現と暴走」をそのようなもののモデルにしていて、
当時のあの事件が与えた衝撃が
作者村上にこの作品を書くことを強いたのだといえるでしょう。 )

ただもっというと、作者のさらにバックボーンになっている考え方が
老婦人に語らせているつぎの言葉によって告げられています。--

「私たちは昔も今も基本的に同じだという事実です。
私たちが考えることややっていることにそれほどの変わりはありません。
人間というものは結局のところ、遺伝子にとってただの乗り物(キャリア)であり、通り道に過ぎないのです。
彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。
そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。
私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。
私たちはただの手段に過ぎないわけですから、
彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かということだけです。」・・・

リトル・ピープルの背景に在る『暗い底流』が
観念の言葉にくっつくように古代から持ち込まれてきた精霊や悪霊的なものであるというとき、
じつはわたしたちが、
その古代から引き継いできた観念や想像力の歴史をはるかにさかのぼった生命の起源、
生命の分子レベルの『遺伝子』なるものにさらに規定されているのだと、
作者は言いたいわけです。

しかし言うまでもなく、この科学に依拠する考え方・思想は
人間の、《個としての生存の根拠》を否定するものです。
「あなたでもなく、わたしでもない」というように
《すべての人間の存在》が代替可能なものとして
乗り捨てられるだけの雌雄の馬の利用価値しかないのだという。・・・

社会00学といった学者やその同伴者はいつもこのようにして、
科学知を媒介なしに絶対価値の勝者のごとくにふるまうことで、
皮肉なことに自らが安直な観念論的な立ち位置にあることに気づいていない。

(今回も最後までお読みいただきまして恐縮です。
またしても、次回につづきますことをご容赦ください。)
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