心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

『1Q84』村上春樹の世界観!(その9・書き換え)

2010-04-19 08:56:35 | 村上春樹の世界観

こんにちは、テツせんです。
みなさんお元気でしょうか?

今日は日曜日でいつもよりブログ出稿が一日早いわけですが、
私事のために急遽書きあげました。
読みづらいところもあるかとおもいますがご辛抱のほどをおねがいします。

-- まあなんと、わたしがのほほんとしている間に、ほんとうにBOOK3が刊行されました。
まだ手元に無いので内容が分からないのですが、
どうにかしてもう一段上の水準まで上がってくれていることを期待したいものです。
文学というものが、
せめて社会生物学やらのプラグマティックな、かつ短絡的な因果論を乗り越えた地平に立てることを!

いまのところ作者は、どうみても
みずからが《つくりものの世界》に自閉していることに自覚的ではない。
それゆえにどうやらその作為はエンタテイメントの方向に向かう気配が感じられますが?・・・

はたしてメタファーとしての「さきがけ」や「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」の1Q84の世界は、
逆にどのように切実なリアリティをかかげられるのだろうか?
それらの世界性が天吾と青豆に何をつきつけることができるのかが問われるところでしょう。・・・

ところで、いままでBOOK1とBOOK2をとおして、
村上作品の問題点をそのつどキイワードを頭に付してお話してきたわけですが、
《記憶》《不倫》《自閉》《訣別》《信仰》《充足》《メタファー》《自己了解へ》という具合に。
このほかに書きのこしていることについて少し触れておきましょう。

手始めに、(ふかえり)という少女についてから見ていきますと、
ディスクレシア(識字障害)として、またサヴァン症候群として描かれている。
そしてまた(ふかえり)は現実解離の妄想をまわりのものに話して叱責されていたとも語られている。

それ自体矛盾した症状にみえるがある種の発達障害と分裂症の特異な発現とみてとれる。
その特異性が古代共同体以来の巫女的な能力の必要条件に見合っていると作者はかんがえたわけだ。

すなわち霊的な世界を『知覚するもの』としてふさわしいだろうとして、作者にえらばれたといえる。
また、《リーダーとのまじわり》とはキリスト教の処女懐胎に対応した《観念の懐胎》を連想させている。

ついでにいえば、作者は《霊的なものの肥大》をまるきり空虚ででたらめなものとは受けとってはいない。
それは第9章“恩寵の代償として届けられたもの”の会話のなかで、
畏怖すべき(リーダー)としてリアリティたっぷりに描かれていることからも分かる。
おそらくはモデルであるオウムの麻原のある種の宗教的な到達を認識・評価したうえでのことだろう。

それゆえに、黙認できがたい脅威そのものである《反文明の象徴》と位置づけて、
「暗い獣たちと精霊」として描く必要に迫まられたのだろうとかんがえられる。

つぎに(父親)と(天吾)とのおもわせぶりな不成立を強調する会話について見ていくと、

たしか父親が、
「あなたは何ものでもない。何ものでもなかったし、これから先も何ものにもなれないだろう」と告げている。
それに対して天吾が、
「誰をも愛せないで生きていくことにも疲れました」と応えています。

これはこれから誰か(青豆)を愛していくんだという伏線としていっているのでしょうが、
それよりも、
「人は何ものでもない者として生きられない!」という人間の本質を無意識にもらした言葉だといえます。

それから、過去を書き換えるということについて、天吾につぎのように語らせています。
「現在という十字路に立って過去を見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいくことだ。
それよりほかに道はない」・・・

この作品のなかの小説『空気さなぎ』をテキストにして未来を書き込むといっているわけだが、
その詭弁とおもえる考え方と行為が、
つまり、事実というものから解離して、過去(歴史)の欠落や過ちを書き換えたいという欲求自体が、
過去への執着・妄想という分裂病的な傾向をあらわしていることはあきらかなことです。
実際に「あのとき、こうすればうまくいったはずだ!」という類の、
恣意的でプラグマティックな《執着》はよくみられる症状です。

そこには、
現実や未来に対してまったく意味も価値も示しえない、錯誤が構造的に表されるだけです。
人は歴史(過去)の《事実》について深く学ぶことでしか、深い意味を獲得することができないし、
それによってしか未来に向かってより普遍的なものを指し示すことはかなわないのだから。・・・

ほかには、例の(資産家の老婦人)の言葉にこういうものがありました。
それはDVである男について語っています。

「治療の可能性もなく、更生の意志もなく、この世界でこれ以上生きていく価値を見いだせない連中」・・・

この老婦人の語っている言葉は、わたしたちのカウンセリングに無知であるとしても、
あまりにも性急で、その裁断の危険な臭いは《自己尊大》の指摘をまぬがれないでしょう。

いかに合理的な論理を尽くしても、それが唯一の考え方なのかという自問が欠落したとたんに、
それは私刑というものであり、社会不適合に立つ、
作者村上が口では嫌う《観念》としての自己解釈・自己観念に転落するのである。

最後にもうひとつ、残念な文章につまづきました。

「頭の悪そうな女が、醜い軽自動車を運転していた。
醜い電柱が、空中に意地悪く電線を張り巡らせていた。
世界とは『悲惨であること』と『喜びが欠如していること』との間のどこかに位置を定め、
それぞれの形状を帯びていく小世界の、限りない集積によって成り立っているのだという事実を、
その風景は示唆していた。」・・・

作者はこのような世界観をいだいて社会を眺望しているのかとおもうと、
「悲惨なのはあなたの方だ」とつい言いたくもなる。

そこにあるのは右脳に固着された自己観念による恣意的なイメージにほかならない。

ただ社会から孤立した者ゆえの、
上すべりな世界観が吐きだされていて、
切実さがなにもつたわってはこないのだ。
哀しいといえば、これほど哀しいことはない。・・・

もし恣意的であることが《自由》であることだと取り違えているとしたら、
こんな不幸なことはないといえる。

わたしたちに獲得されるべき《本当の自由》とは、
わたしたち個々の《生存の意味》とおなじ位相に不可分なものとしておかれなければならない。

それゆえに、わたしたちを規定している《現代という時代性》を解体していかない限り、
それは見えてこないし、到達できない領域にあるのだ。

(これにて一応おしまいとなりますが、BOOK3を読んだ後に付録を書くかもしれません。)
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