心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

貧困と超消費社会の日本の病理Ⅱ

2010-09-13 16:13:11 | 現代日本および世界
こんにちは、テツせんです。
まだ暑い中、みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

さてあたらしい首相を選ぶべく民主党代表選挙が終盤にさしかかっていますが、
それと並走してマスメディアの「大本営発表」体質が露出し、
またそれに見合った国会議員のレベルの低さにはあきれるばかりです。
「民主的選挙」がみんなの幻想でしかないと見切るべき時代にきたとつくづくおもいます。
連呼と握手だけでえらばれてきた者たちとそれをえらんだ者たちに、未来はあるのか・・?
官僚の専横と、命を懸けてたたかうというものが、一人しかいないのでは仕方がない。・・・

それはさておき、前回のおしまいのところで、
「超消費社会」という現代史観の先端に位置する日本では、
おなじ買い物をするにも、もはや夢の実現ではなく、
「強いられた時代の病理」から購買衝動がひき起こされる
という地点まで追いつめられているとおはなししました。

そしてさらにその病理発現は、
おそらく米国流のプラグマティックな「夢の終着点である持ち家」を実現しだしたことに符合して、
わたしたちは思いがけず、 その「アメリカ的な実現」に
《 物質世界の虚無 》をいやでも見るはめになったことに起因すると指摘しました。

なぜなら「最大の夢の達成であり、夢の生活を夢見た新居」は半年もたつと、
それが、ひとが内心熱望した「日々の充実」や「心のゆたかさ」などをもたらす
魔法の箱ではないことに、やっと気づかされるからだ!・・と。

そう! 日本の市民は、やっと「そのとき」を迎えたのだ。・・・

つまりアメリカ信仰・依存によるプラグマティズム(モノ消費信仰)は
それほど日本人のあいだに深く浸透していたことを意味している。
しかし、さすがに過剰な夢であった分、
“ 持ち家が「ただの新しい箱」にすぎない ” という
《 物質世界の虚無 》からの回答をうけとった「途惑いと失意」は、
やすやすとは受け容れがたいものであったとおもわれる。

わたしたちはこのとき、あわてて、物(モノ)消費信仰の虚無から目をそらすようにして、
それではとばかりに、
『 自己実現 』という美化のイメージをあらたに立てることを強いられたといえるだろう。

だがしかし、自己実現とは、一見哲学的な響きだが、
しょせんその実体は、
個々の人間の日常レベルの商品的差異を競わされるだけのものなのだ。
個人をも商品価値におとしめる《 消費社会の魔力 》は、とっくに市民の頭上に貫徹していたのだ。
消費社会は、けっして哲学的な理性にまで市民を上昇させるほど、上品でお人よしではない。
そのため、目をそらしたはずの消費の虚無とは縁切りできず、
いやでも商品化市場にひきもどされることになる。

このとき市民は、
消費行動に病理を発現させるようになり、日常生活がただの延命にまで退行していくことになった。・・・

- 「衣・食・住 プラス 娯楽 」 が現代日本の消費購買行動にみられる主要な類別項目とするとき・・・
そこにはそれぞれにむきだしの病理として、消費購買行動が発現されている。

まず、
「衣」の現代的かつ先端的な現象は、衣服にではなく、「姿形・容貌 」にあらわされています。 -
その現象は、欧米コンプレックスに由来する容貌コンプレックスが、
自己実現の美化のイメージを媒介に、
同性のあいだに《 同調意識と差異化 》をくりかえし欲求してくる強迫観念とみられます。
「モデルコスメティックの流行」「美顔整形」はその典型をしめすものです。・・

また「食」の現象は、《 美食・グルメ 》と《 健康志向 》となってあらわれ、
一方は、食のとどまることをしらない《 逸脱 》という鬱破り、
また一方は、
メディアにあおられた過剰な予期不安による《 強迫観念 》の病理をみせています。

つぎの「住」においては、
あらたな購買層 => 途惑い・失意の再生産という構図にとどまらず、
そこに秘められている動機はやはり、《 鬱破りの行動 》であったり、
《 現実生活の不全からの解離逃亡 》という病理の発動であることから免れがたいものをもっている。

あと一つの「娯楽」では、
市民社会の強迫的消費行動の先鋭化にともなって、
現実社会での孤立《不安意識 》が、人を落ち着かなくさせ、
常同症的に娯楽一般に接触していたいという依存意識がかかえられていることから、
より密着感をもとめてネットゲームなどにはまっていきます。
あるいはまた、
恣意的な自己実現イメージをうかべてフェティッシュな「ライフスタイル」をどこまでも希求することで
家庭の破綻をまねくといった、「壊れ方」の典型をよく目にします。・・・

こうして現代日本のわたしたちは、もはや素朴な消費購買行動からも疎外されて、
いつのまにか超消費時代のどん詰まりに立たされ、
病理としての消費行動を、常同症のようにくりかえしているわけです。・・・

以上の病理的行動には、その受け皿として、商品化システムによる細分化されたラインアップが
「みなさまにご用意」されているのが超消費資本社会の抜け目ないところです。

このことを俯瞰して見なおすと、
超消費資本社会の時代とは、もはや市民社会の突出した病理が需要を生みだしているということ。
また逆に見れば、市民社会の病理の要請にこたえて供給された商品群は、
つぎなる市民社会の病理を刺激する媒介になっているといえる。
こうして現代社会は、みずからの精神を腐敗させる道を無自覚にたどっていくようにみえる。・・・

すると時代の変容が社会の病理の昂進の姿そのものとなる。
今日さかんにいわれている社会的な関心でもある、
「市民の自殺が、十年このかた年間3万人を越す」ということの意味は、
日本の社会の《 精神の生き難さ》が、とっくに極限に達していることをしめしています。

マルクスが十九世紀に
「産業の拡大が、豊かな社会を実現させることにはならない」と喝破した見解は、
二十一世紀の超消費社会が、「精神のゆたかな社会」とは真逆の
「精神を腐敗させる社会」を生みだしていることを、遠くから指し示しているようにみえる。
そしてそれは、すべての市民の心的な病理的行動となって、消費行動に顕著にあらわされています。

たんに「 貧困 」が自殺に直結していると考えがちですが、けっしてそうではありません。
貧困の問題は、人に《 消費欲求の中止 》を現実的に迫ります。
それは一方では消費欲求や恣意的な自尊像の理性的《 覚醒 》につながる面もあり、
もう一方では、覚醒にたえがたい人たちを病的発現または現実破綻におしだします。

そのときはじめて、自殺の問題が現実的になるわけです。
もはや踏んばりがきかないということは、
病的依存がたたれて孤立という病をかかえる局面を意味します。・・

このように、
わたしたちは今日まで、物質消費社会のもたらす虚無と病理をあじわってきたわけです。
そして《 消費 》のほかにも、
「教育、科学、医療、労働」の概念とあり方においても、
プラグマティズムと機能主義に骨の髄までのみこまれたために、
わたしたちは《 生存の尊厳 》から遠ざけられ、
《 モノ・記号としての人間 》という位置に、捨ておかれて久しい。・・

ついでにいえば、
経済の自由競争主義に、弱者へのセイフティネットをくわえれば、
それでオーケーだという政治家の修正主義思考が誤まっているところは、

プラグマティズムと機能主義の病理的な思考が、まったく克服されないことにある。

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