心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

なでしこ選手と原発誘致の東北と映画「悪人」と

2011-07-19 18:25:37 | のほせんの心理カウンセリング
こんにちは、のほせんです。

昨日、女子サッカーワールドカップドイツ大会で、なでしこJapanチームが優勝しました。
試合中はどの選手も手だれの剣士の真剣での立ち合いのように、
冷静沈着に見切るセルフコントロールを当然の境地とするレベルをみせていました。
そのうえに、
しのぎをけずる(たがいの刀がこすれあうような打ち込みでどちらかが必死。)ように、
ちからをみなぎらせた渾身の打ち込むをみせて難敵をたおしました。
そういう意味で、最高度の試合だったとおもいます。

それはまた、
相手よりも1センチ、1ミリ先んじて始動し、
1センチ、1ミリとおくまで駈け抜けつづけた結果にちがいないようにおもいます。

そのような戦い方を修得、実行させ得るためには、
動機付けと目的が、なにより清明かつ高邁であり、
なおかつ明確であることが絶対的にもとめられます。

その条件付けが、
現代の若い人たちにとってもきわめて魅力的であったということでしょう。・・

とはいえ、
おおくのふつうの若い人たちには、
このような魅力的な未来や目的が動機付けられるような機会もないのが社会の現実でもあります。
というよりも、
たいがいは思春期のころにはすでに自尊像を極端に崩されていて、
「未来」は魅力的どころか、
「時間を切り売りする」だけの職場にがまんしている明日の自分の姿をみているのである。

なぜなら近年の社会の趨勢は 「べつに」「自分を必要とせず」、
「だれでも差し替え可能」な部品や商品でしかないことがはっきりとしているからである。

なでしこの選手たちといえども、
このシステム社会とけっして無縁ではいられない。
彼女たちもまた、故障した時点で差し替えられる商品ということからまぬがれないのである。
現代は個々の方向転換やリベンジを自在にに受け容れる器量のある社会とはほど遠い。

この生き難さから現代の「鬱病」がどんどん生産されて来たのは当然の結果だといえる。・・・

一見自由でやりたい放題におもわせた日本の社会が、
若者にとってなぜこれほど「生き難い」のか?
単に不景気だからということが要因ではないのはあきらかである。

ひとつには、企業経営者が
<仕事・労働> そのものに<人間の意味と価値> を削除して見失って久しいからである。

それは、日本はいまだに、「いかにコストを削って大量生産できるか?」が
大企業製造業にあっても研究投資の主たる命題であるように、
社員・労働者をコストの要素としてしかかんがえられないことにある。

コストの思想からは「創造的な意味も価値も」みとめることが不可能であるために、
日本の企業では仮に独創的な発明であっても見逃され、葬り去られることになっている。
そしてますます安売り競争をしてデフレ構造の元を延々とつくることにはげんでいるのである。

このコストの思想はサービス業においてもおなじように、
社員・従業員を消耗品のように安い給料でつかっている。
ファンド資金とタイアップして、スクラップ&ビルドを頻繁におこなうことで、
見かけの本社決算をとりつくろっている。
ここでは最終的に営業店舗自体がコストでしかないという究極の資本主義に到達している。
「いかにコストを削るか」というサービスには、当然だが
安全も顧客すらもコストでしかないのである。(おそるべし!)

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ところで、3月11日の大震災が東北関東沿岸に起こって4ヶ月以上になろうとしている。
いったい被災地はどうなるのだろう?

過疎をみこして原発を設け、それとおなじ発想で
大企業が雇用と引き換えで、おんぶに抱っこの甘い誘致条件下で最新工場を配置した。
むろん雇用者たちをコストとみなす立場である。

企業は従業員= コストとして必然的に従業員と対立し、従業員から孤立していく。
従業員は代替可能なヒトとされ、働く職場から孤立させられていく。・・・

はたしてこんな労働社会構造で地方がどうにかなったのか?
たいした雇用もないまま、地方行政が大きな顔をする意味があるのだろうか?・・・

わたしはずい分以前に映画「悪人」について記事を書きました。
地方の若者の生き難さを映す秀作に触発されたわけですが、
いまそのことをすこしひろいだしておきましょう。

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- 登場人物の男、解体土木作業員の清水祐一(妻夫木聡)は、
長崎のはずれのさびれた漁村で生まれ、
まだ幼いころに母親に置き去りにされ、祖父母に養われて育ってきている。
(この青年の生い立ちはすくなくとも、かれを「不安神経症」においやる。)
そして若い衆に成長したいまも、老いた祖父母の面倒をみながら暮らす毎日がつづいている。・・・

とはいえ、若い祐一の心身の鬱屈はおさえがたく、
車を飛ばす快感を手にすることで、一日の自分の<生> の帳尻をあわせようとするが、
かえって、それだけでは充ち足りないことを実感させられる。
内心の「人恋しいおもい」は、祐一の「母に捨てられた」記憶からして人一倍にちがいない。
やがて、言いようのない孤独の感情が祐一のかかえる心の闇の底から湧きおこってくる。・・・

ひとの心はそんなに折れやすいものではないが、
堪え難きを堪えて生きる現代日本の男も女も
心のリミットの閾値がおおきく下がっているのはたしかだろう。

殺人のあとに、祐一は光代という女性とサイトでめぐりあう。

女子学生とはまたタイプのちがう、どこにでもいるごく普通の女性のひとりとして、
佐賀県の紳士服量販店に勤める馬込光代(深津絵里)は、
出会い系サイトをつかって祐一とつながっていった。

光代も妹と2人で暮らすアパートと職場の往復という毎日を送ることに、否応なく鬱屈していた。

「本気で誰かに出会いたかった…」と祐一に告白する光代が痛々しい。・・・
彼女の言葉が多くのひとの共感をさそうのも、
ここには、今日的な時代の感情がたまりにたまっていることを物語っている。

この映画のなかの「イカさないふたり」の出会いは、
現代日本にいかにもありそうなリアルな「風景」にみえる。

人は今、だれしもが
このふたりの主人公のように《 社会 》から遠ざけられている《 不安 》の感覚に、
まるで小動物のようにおびえている。

ただの若者の性的な欲求の現代版システム化によって出てきた「出会い系サイト」とはいえ、
この時代的な孤立不安の感情は、
この心の闇そのものの商品化システムに利用されるどころか、
それを承知のうえで
「本気になって誰かをもとめる」ところまで、潮位がせり上がって来たといえよう。


この超消費社会の日本のなかで、人が地方に生活することは、
都会とはまた別の、どうしようもない敗北感におしひしがれるような
感情のタメコミをしいられることが、現代の風景としてよく表現されています。

それにしても、「出会い系サイトしかない」時代が、
心の闇が無限に拡大する時代が、
日本に根をおろそうとしている!・・・・

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