心理カウンセラーの眼!

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飯島愛の死に至る時代性について(最終回)

2009-02-25 10:03:50 | 飯島愛の死に至る時代性

やがて世間がバブルの破綻にとまどう頃になると

ディスコ「ジュリアナ東京」では、飯島愛の表現によれば

「パンツを見せるためだけの女たちが、お立ち台の上で扇子を持って踊る」時代が始まる。

明らかに時代の風が変わったことが

ディスコのダンス風俗にまで反映してきたわけだ。

そのとき、飯島愛たちの世代が神輿(みこし)の担ぎ手から退場し

次の若者たちが新たに時代の継ぎ目に登場したのである。

彼らは「より没個性化」し、

「より意味を削るようなアップビートなダンス音楽」を

否応なしに求めていったといえよう。

それはまた、直前の時代の「形式と意味」を

「拒絶しなければ生きられない」という

より閉塞する時代の中で嗅ぎつけた危機感の表現に違いない。・・

このとき、飯島愛(たち)は「直前の時代」の「生き難さ」に取り遺されたまま

なおも新たな時代の不安意識を抱え込むという

いっそう「キツイ」所に立たされていくことになる。・・

それと並行して彼女たちの親世代もまた

もう一世代前の共同幻想とその破綻を重ねてなお

同じく新たな時代の風に晒されてきたのだが、

すでに上辺をつくろうのもままならない程の崩壊局面にある。・・・


飯島愛がアダルトビデオの仕事を始めたのはそんな時期であった。

彼女は借金の清算とニューヨーク生活への夢を言い訳にしているが、・・

「AVする」ことと「オヤジに売春する」こととは何が違うと言うのだろうか?

商売としての性行為を「公にする」という一点において

彼女の周囲にはまだ「タブー」が残っていると思いたかっただけであろう。

しかし「AV」というシステムが 売春産業が薄められ水増しされて、

形を変えたビジネス展開に他ならないのは周知のこと。

ここでわたしは「良い、悪い」を問うているのではない。

彼女が本当はどこまでそれらのタブーを信じていたのか?

そこに彼女の時代の「性へのタブー意識」の虚実や距離感を確認しておきたかっただけである。

AVで「本番をやったかどうか」に固執せざるを得なかったことに

飯島愛の切々たる哀しみ、生き難さをおもい、こちらまで切なくなる。・・


なぜなら「オヤジに売春する」ことや「タレントと寝ること」が

すでに自身の中でタブーではないにもかかわらず、

「AVする」ことには「大義・言い訳」がいるというタブー意識は

どこか偽善的で、分裂症的な考え方に他ならないからである。

これは飯島愛に固有な関係妄想による「固執」といえるものか?

「AV女優」一般にみられる偽善としてのタブー意識というものか?

じつは、そこはよく見えないところであるが。・・

だが飯島愛の次の世代のAV女優たちには

そのような偽善はもはや必要のない

むしろ社会的に認知を得たというように

あっけらかんとしたポジションに立っているように見える。・・

「時代」が何もかもを その相貌を変容させ、

たとえばヒットチャートの歌詞が意味を失くしたように

すべての存在が 意味や価値をどんどん希薄にしていく。

人びともまたこの時代に「薄められて」、

老いも若きも存在の不安に孤立する。

老いた者はすでにその存在をうとまれ 

死しても尊厳など微塵も失せ、

またその希薄化が若い者にはね返って 無力感を植えつけた。

(余談になるが映画「おくりびと」の時代錯誤の思考はどうしようもない!)・・


その当時に飯島愛がテレビ出演して、母親に知られるわけだが

そのときの電話のやり取りでは 

14歳で家出して以来9年ぶりにしては呆気ない「和解」が

唐突に、虚実を含んで綴られている。・・

その「和解」が正しい和解では無かったことは

彼女の死に至るまでの「寒い」「寂しい」孤立による「鬱」と

もはやブログで語る言葉も失くして

幻聴を聴くまでに進行した分裂病(スキゾフレーニァ。日本だけが統合失調症と呼称)が示唆している。・・


この本の解説に精神科医の香山リカ氏がどうでもいいことを書いているが、

飯島愛が苦しみ抜いて生きた何もかもを

速読のようにさらっと見逃してしまっては

余りに飯島愛に失礼ではなかろうか。・・・

飯島愛の生きた時代が

これからの時代の地肌に塗りこめられてゆくと了解し 

形式と意味の拒絶の時代性をものみこんだ巨大な負の継続性を

凝視しつづけることが 残された者のつとめではないだろうか。・・・



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