心理カウンセラーの眼!

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再び性同一性障害について(その1)

2014-11-07 16:38:54 | 性同一性障害の根拠

(--「 男らしさ女らしさって、・・・ありのままの自分でいたいのに 」 --)

こんにちは、のほせんです。

暦では はや立冬ということですが、

みなさんはいかがおすごしでしょうか?

この国も、世界でも、ますます個々人が端っこに追いやられてゆく様相を呈しています。

-- アメリカ経済を自律成長させるための5年以上にわたる3兆5000億ドル以上のFRB金融緩和政策は完全に失敗に終わり、副産物として金融市場バブルを残した。

このFRBの失敗を知りながらの日銀緩和だから日本の所得はマイナス、GDPも下降線なのは当然の結果。
黒田総裁は金融緩和の大リスクを知りながら何故ここで再びバズーカを発射したのか?

むりやり円安金融相場創出による見せかけの好況演出・消費税値上げをもくろんでのことにちがいない。
財務省役人が大喜び。 しかしまたFRB失敗の「補てん係り」でもある日銀黒田総裁は、
アメリカの為の意図的ドル高円安政策でもある一石二鳥の「悪手」をうったことになり、

おかげで日本の産業の米であるエネルギー価格は高騰、電気代値上げ、ガソリン代値上げ、中小企業・零細自営業の疲弊、、等々の日本の衰退を尻目に喜ぶアメリカ政府の顔だけみている。--

株式相場だけが行き場のない巨額の「カネ」の遊び場を提供するというこの国の情況は

常軌を逸した連中のバブル破綻をまえにした狂宴の姿にほかならない。

こんな連中の尻拭きなど、ごめんこうむりたい。・・・

-- さて今回は、「 再び性同一性障害について」というタイトルです。

性同一性障害の生き難さに苦悶しつつ、若くして亡くなられた方についての記事が、

先日の朝日新聞デジタルに載っていました。

「男らしさ女らしさって、・・・ありのままの自分でいたいのに 」というタイトルでした。

その記事からは、つぎのような「生き難さ」がうかびあがってきます。

-- 小5の時、女子児童から「男女(おとこおんな)」といじめられた。03年4月、横浜市にある中高一貫の女子校に入学。自伝「暁の空」(文芸社)によると、セーラー服が届くと母親が言った。「女の子らしくしないと、学校でやっていけなくなるわよ」

 「性同一性障害に生まれて」という廣田さんの詩から葛藤の跡がみえる。「自分で自分をおかしいと思いたくなくて/必死になってふつうを振る舞い続けた」

 しかし、心と体の不一致は大きくなる。先生に配った4枚の手紙によると、制服に耐えられず、高1で体操服の着用を願い出た。「自分を偽り、耐えてきた。もう限界なんです」

 高2で、男子制服の着用が認められる通信制高校のサポート校に転校。男性ホルモンの投与を受けるため、18歳と偽り、東京・新宿のクリニックを訪れた。注射の後、恩師に「人生で初めて生きててよかったと思えた」とメールした。

 コンビニのアルバイトに明け暮れ、手術費用をためた。08年12月からの2年で3回手術し、男の体を手に入れた。11年1月、戸籍上の性別を男性に変更した。

 ところが、心は満たされない。ブログにはこうある。「自分らしくの前に男/女らしくにこだわってしまう。性別なんて……そう言っている当事者が一番性別のことを気にしている」

 同居していた准看護師の00さん(43)には「全部終わったら死んじゃう気がする」と漏らしていた。「手術しても『ふつう』になれないと絶望していたのかもしれません」

 ノートには廣田さんの乱れた文字が残る。「ふつうを求めてなにがいけない」

 「女らしさ」を強いられた廣田さんは、あらがうように「男らしさ」を求め、苦しんだ。性同一性障害などの性的少数者は20人に1人とされる。彼ら彼女らがありのままに生きることを、何が阻んでいるのか。 -- -

・・「何がはばんでいるのか?」この記者の疑問は、みなさんの疑問でもあるでしょう。

「ふつうを求めてやまない」人と、相対して
そういうことが「理解できかねている」ふつうの人が

おたがいに途方にくれているというところが実情だとおもいます。

前にもお話したように、
男女の「性差」というものは本来的に自覚的ではなく、つまり逐一意識的なものではなく、

ほとんど自体的に無意識に男性であり、女性であるという存在なのです。

つまり幼児期いらいの長い時間をかけて、性的な自分と折り合いをつけながら

そういったほぼ無意識の自体性をつみあげてくるものなのです。

そこで仮に、男性の身体機能をもって生まれた人が、ある時点で

「ほんとうは女なんだ」という異和意識をつよく抱いた場合、

たとえ性転換手術をうけ、今回の方とおなじように切望した性にあらためて属したとしても

「自体的な性」性ではない存在ゆえに

「ふつうに生き難い」疎外感に苦しまなくてはならないわけです。

つまり、ひとは希求した女性(男性)に属したときから、

じぶんの生育歴の中の知覚や体験からイメージする女性(男性)の様式を

「たえずなぞって」生きてゆくほかないからです。 

するとその「あらたな性」性ゆえの「わからなさ」から、過剰さや、ぎこちなさがつたわるために

おたがいに違和感をキャッチボールしあうことになってゆきます。

したがって彼女(彼)は同性にたいして「よけいな憧憬や羨望あるいは嫉妬」から免れがたく

社会のなかで、また同性のなかでも、日毎に孤立を感じ精神をすりへらすことになるわけです。

いったいではなぜ? 性同一性障害という異和がありうるのだろうか?

その根源に迫ってみようとおもいます。
(次回につづきます)
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