心理カウンセラーの眼!

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女性自身の心の解剖学:<第三話>”ライブドア事件より心の闇だ!・・”

2006-05-01 12:40:17 | 中村うさぎの女という病
 世の中、ライブドアだ、ホリエモンだといって、
なんだかうれしがって、騒いでいる今日この頃です。

ホリエモンといえば、
有名になった「会社は株主のためにある」という言葉がある。

これはアメリカのヘッジファンドの成金勝ち組の論理の受け売りの言葉だけど、

この言葉の裏には、

株価至上主義の錬金術マジックの意図がチャッカリ隠されていたわけだ。

またこの言葉をあえて額面どおりに受けてみても、

その考えはやはりおかしい。破綻している。


 会社が社会の中で存立できている本当の理由は、

あきらかに社会的な価値を産み続けているからに他ならない。

社会に貢献できなければ市場価値が無く、

早晩、社会から退場せざるを得ないのだ。


 ホリエモン一派には、この「社会」という概念が欠落していた。

そうすると、どこまでも社会性から逸脱し、

あっという間に、「拝金主義のどこが悪いのか」という、

人間的な破綻に打ち寄せられることを、

今回の事件がよく知らしめてくれている。


まあ、ホリエモン一派のは、

闇は闇でも、ようするに錬金術師どものダーティな世界の話。

しょせんは「ゼニ」で済ませられる闇なのだ。


 ところが、こっちの中村うさぎの闇は、
心の闇だ。

「ゼニ」でも「モノ」でも解決できない、途轍もなくとらえ難い、

本当の壮絶な闇とでもいうものなのだ。


それは、
中村うさぎが力を込めて書いても書いても、

「女という病」、「女性の自己実現」といったテーマに収斂されていくばかりで、

なかなか肝心のうさぎさん自身の心の病に触れることも、

解決することも難しい「闇」なのだ。


たしかに、あの東電OLの心の闇に迫る迫力は、

他の論客をよせつけないものがあります。

「彼女を読み解くことが、私を読み解く鍵となり、

 ひいては現代の多くの女性の抱える問題に迫ることになる。」

と考えた中村うさぎが切り拓いた女性論として、

それは秀逸であるわけです。


だがしかし、その問題設定そのものに、
中村うさぎの心の病がいっしょに塗りこまれているとしたら、

どうなるでしょう?・・

前回にもちょっと書いたけれど、

うさぎさんは個人的な買い物依存症体験から、

「自分の欲望のままに行動してみること」と、

「そんな自分を観察して、読み解くこと」。

この二つのアングルを駆使していこうとされているわけですね。

言い換えると、心の病の中村うさぎと、評者としての中村うさぎの
二枚看板を立てていこうというわけです。


それはたいへん結構なんですが、ただひとつ、

心の病を読み解くためのキーワードが、当然とはいえ、
うさぎさんの経験知からしか及ばないこと、

つまりそこには、心の病を読み解くために必要な、「概念」が欠落しているわけです。


同時に、心の病というものが、あくまでその人固有の心の病であることを無視しては、

「読み解き」も、うさぎさんのような帰納的風な独善傾向になるか、
はたまた、心理学のデータ検索のようなものにしかならないわけなのです。


ちなみに、その人固有の心の病は、

その人の生育暦のプロファイリングを通して解き明かしていくものです。

........ ........ ........ ........ ........ ........ ........

というような訳で、
中村うさぎの「読み解き」の論考に散りばめられた言葉には、

カウンセリングの「概念抜き」ゆえに、

「無自覚なバッドワード」や「無自覚な自己愛」が

卓越した文章と同居していて、そこんとこが、わたしにはじつにやるせないのだ。・・

たとえば、中村うさぎ流の語られ方は、こうだ。


☆・「私たちの不幸は、なんとかして自分以外の自分になりたがる点なのだ。
もし(犬の)チャウチャウが痩せたら幸せになれるのか!?」・・

「銀座のエルメスに並んだ女たちも、パリのエルメスのバーゲンに並んだ女たちも、
全員、エルメスに救いを求めた女たちなのである。
彼女たちは、何から逃れたくて、エルメスにすがるのか。
答えは、『凡庸』だ。・・(中略)・・

私は特別な女になりたい、・・(中略)・・抜きん出た存在でありたい。・・・

しかし、こうして脱『凡庸』を図った女たちが寄ってたかってエルメスに殺到した結果、
エルメスが『凡庸』なブランドになりつつあるのは、皮肉なはなしだなあ。」・・
(「グレースケリー伝説」)

また、こうも言う。

☆・「この女には、罪悪感や自責の念がないのだろうか?

不倫体験のある女なら誰もが堕ちそうになり、必死で踏みとどまる深淵に
自ら身を投げておきながら、

『悪いのは先方だ』と言わんばかりの盲目的な自己憐憫に、
私は反吐が出るほど不快を感じるのだ。」(「日野OL不倫放火殺害事件と私」)


またまた、こうも述べている。

☆・「ところが彼(宮崎勤)は、狂気もなく、ナルシズムもなく、

自己イメージの投影すらなく、淡々と、

『自己不在のフィクション』を語るだけなのだ。」(「幼女連続殺害事件と私」)

そしてさらに、こう語っている。

☆・「自分に対して、極力、客観的でありたい。

そのためには、ナルシズムの防護膜を一枚一枚、剥ぎ取っていかなければならない。・・」

「ただ、興味を惹かれるのは、佐川君の自意識なのだ。・・(中略)・・

不本意な容貌に生まれついてしまったひとりの人間の自意識に、

私は想いを馳せてしまうのである。」(「パリ人肉事件と私」)・・


 ここまでの中村うさぎが語る論考で特徴的なキーワードは、

「凡庸」であり、「自己憐憫」であり、「ナルシズム」であり、「自意識」である。

中村うさぎにとってそれは、「脱凡庸」でなければならず、
「反吐が出るほど不快な自己憐憫」であり、
「ナルシズムの見当たらない、自意識の在り様」への執着であるわけだ。


それでは、それについてどのように考察すれば、

カウンセラーとしての捉え方といえるだろうか。・・


果たしてここで、「エルメスに群がる女たち」を社会現象として論じることが相応しいことなのか?・・・


これは「NO!」である。
もちろん、エルメス女性たちは、

ただ憧れのエルメスを手にすることに欲求と目的と満足があり、
別段、「凡庸」から逃れようと意図した行動ではないのである。

まあ百歩ゆずって、脱「凡庸」の意図があったとしても、
エルメス買いによってその目的が叶ったかといえば、

バッグひとつで、「そんなことは無い」わけだ。


 ここで問うべきは、むしろ、「脱凡庸」というキーワードを持ち出してきて、

社会現象と自分の買い物依存行動を一緒に洗濯機に入れてしまっている
中村うさぎ流の「解釈」そのものであるはずだ。


それは、カウンセリングの概念でみれば拡散、あるいは逸脱ということになる。
ここではあくまでも、中村うさぎは、

「私自身は、脱凡庸に異常なまでに執着している」と述べるにとどめなければならない。


そうすれば、彼女の買い物依存症のキーワードとして、
「脱凡庸」があることが、あらためてハッキリしてくるのだ。



 そのつぎのキーワードとして、「自己憐憫」はどうか。・・

日野OLの言い訳も、
精神科のグループセラピーで語られる自己陶酔と被害者意識にも、
太宰治の甘ったれ人生にも、

そんな自己憐憫の者たちに、我慢ならないと噛みつく中村うさぎである。


自称ナルシーを公言してはばからない彼女の「自己愛」と、
その一方で憎悪する「自己憐憫」とのあいだには、何があるのだろうか。


「可哀そうな私」という思いが、
卑怯で甘ったれな自己愛(ナルシズム)の「自己憐憫」とするならば、
中村うさぎの「自己愛」は何と言えようか。


美しく言えば、「孤高のナルシズム」。
茶化して言えば、「糊口のナルシズム」。なんてね。(おこられるぞ。)


まっ、ナルシズムについては、今日のところはここまでにとどめておきましょうか。

 それで次は、宮崎勤と佐川一政君のうさぎ流の捉え方に注目してみようとおもいます。

あの宮崎勤がすべての事件に関与したかどうかには異論もありますが、
ここでは問わないでおきましょう。


中村うさぎはそれよりも、
彼の「ナルシズムもない」「自己不在のフィクション」の言葉に

「砂漠」をイメージしている。・・


ナルシー中村うさぎは、「自己愛の無い人間」には過剰なまでの関心を示すのだ。


だがしかし、この解釈もまた、
サイコパスの男の「虚言・作為とリアル」の取り出し方を違えて、

結論づけているようにおもうのだ。


なぜなら、スキゾフレーニーでサイコパスの人間は、

自分の欲求・欲望のためには、どんな嘘でも作るわけで、
そういう意味では、「自己不在」ということはあり得ないことでしょう。


ひた隠す自己愛の脇で、平然と今田勇子の手紙を書くことができるのが、
サイコパスたるゆえんであるのだ。



宮崎勤には、屈折し倒錯した性的欲望のイメージが断固として、

渦巻いていたというのが、疑いようのない病理の真実である。



中村うさぎは、心の病としての妄想や虚言を弄する者は、

四六時中、狂気や嗜癖の世界に、浸っているものだと受けとっているようだが。・・


スキゾフレーニーの幅といおうか、症状は多様ではあるけれども、
ごくふつうの人であるほうが多いということを認識しておいてほしい。

もちろん、当人たちは、他者と自己との狭間で、不適合に悩まされているわけだが。・・


その中でも、サイコパスやソシオパスの人は、

自己の欲望の実現にはどん欲であり、
人をだますことも意に介さないのが特徴的である。


 佐川君もまた、自分の欲望のおもむくままに、パリの女性の肉を食べてしまったわけだ。

たとえ、彼の描く自身の似顔絵が、

残酷なほどそっくりだったとしても、
それが「一ミクロンのナルシズムにも守られていない」とは言えまい。


それはむしろ、自己憎悪の上にかぶせられた、それゆえの自己表明であり、

完璧なまでの自己正当化の意思と読みとるべきではないだろうか。


佐川君が、「他者の視線に脅え、自分の視線に分析される」感覚が
自分(うさぎ)にもわかるというとき、
それは関係妄想としての症状を示していることになる。

まず「分析」というのはカッコ良過ぎであり、単なる自己解釈にすぎない。
中村うさぎと違って、佐川君の場合は、

もっとハッキリと病的な、監視されているという妄想であるわけです。

また、「犯罪に踏み込む時間から分裂が始まる」という佐川君の証言も、
誤解を生む言葉だ。

なぜなら、分裂それ自体は、

日常の中で現実から乖離している時点でしばしば起こされているわけです。


そのように乖離しているときの妄想イメージが、

過剰に倒錯した性的快感や破壊する快感欲望にまで

肥大・蓄積・増強・完成されたとき、

いよいよ犯行に、すなわち欲求の実行に向かうのである。


そして、最初の欲求の実現の快感イメージが薄れてくる中で、

機会があれば、

またさらなる次の実行に手を染めていくことになるのだ。

~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~ ~~~
えーっ、今回は、中村うさぎの論考のキーワードを拾いあげてみました。

すこしはカウンセリングの概念の必要なことをご理解いただけたでしょうか。


でもなかなか、うさぎさんの個別性まで行けないでごめんなさい。

今回はひとまず、こんなところでご勘弁をねがいます。

......................... ....................... ...

最後までお読みくださってありがとうございました。

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2 コメント

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あなたの中村うさぎに対する感情も ((b^-゜))
2009-11-26 21:02:24
近親憎悪を感じます。頼まれてもいないのに、中村さんに対して執拗に…。
本人に直接言ったらどうでしょう?
コメントにおこたえします。 (テツせん)
2009-11-27 08:46:29
アハハ、たしかに頼まれてもいないに違いないですね。
しかし、うさぎさんが公開された書き物に沿って、
その興味深いところと危うい点について、
カウンセラーの視点から皆さんにお話しすることにはなんの問題もありえません。
まして、「本人に直接言う」とかは少し『論評』ということに関してご理解いただけていないようにぞんじます。
また、わたしが何か悪意を持ったような心象を感じられたとしたら残念なことです。
むしろ、うさぎさんの腹の据わった姿勢が気に入っていて、
好感をもって書いてきたことを読み取っていただきたいですね。
また「執拗に・・」とおっしゃっておられますが、
これはうさぎさんの心の動き・変移についていっているだけで、
本当は未だにフォローしきれていないので、
時間が許せば補足したいなとかんがえています。

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