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遠いたび12 高句麗 平壌城1

2007-03-27 21:38:20 | 極東古史考
漢の武帝 元封2年 BC108年
朝鮮 其の王を殺して以って降る
楽浪 臨屯 玄菟 真番の4郡を置く

衛満朝鮮 都城は蓋平 其の橿域は 今の中国東北地方だ
「後漢書」に謂う 楽浪郡 故朝鮮国也 遼東にある
朝鮮及び辰韓の地に遼東郡 楽浪郡 臨屯郡 玄菟郡 真番郡
郡とは領域でもあるが 基本的に 郡城そのものを指す

玄菟郡
「漢書」注 故真番朝鮮は 胡の国である
「史記」注 玄菟は 本真番国(真番は辰韓である)
      全燕 始めのころより 嘗て真番朝鮮を略しその属国としていた

BC82年 だが漢は真番郡城はもち堪えられず 廃止される 烏桓また塞を犯す
      「後漢書」 鮮卑 烏桓は 貊人(高句麗と同種だ)
BC75年 最初の玄菟城 やはり持ち堪えられず 遼寧省の老城の地に新たに玄菟城を築く

ずっと降って 清の時代
清にとっても聖地でもあり 通化省の一部は遼東の禁地であった
そこへ みだりに入ることはできなかった

BC37年 元辰韓 朝鮮の地 漢の玄菟郡高句麗県の地域に 
高句麗の始祖朱蒙(東明王BC37~19年)は高麗国を建てた 
これ以前の記録は満州扶余時代の神話だ
(高句麗の名は ここの辰韓地名からくると思われる)
桓仁県の地である 渾江は 古の沸流水 また婆猪江とも言う 
高句麗初期の小規模な古墳群がある

(実在の王都である以上は 必ず墳墓を伴わなければならない
その他の考古学的品物も重要であるが まず大型の墳墓の存在が必要である)

2代瑠璃王(BC19~AD18年)
「三国史記」AD2年 瑠璃王21年3月 国人の薛支が 逃げた豚を追って 国内尉那厳城を発見した
見れば山水深く険しく 地は五穀に適し 獣も沢山いて もし都をそこに移せば
民の利益ばかりではなく 兵革の患いから免れることができます 
王はそれを聞き 1年半ほどで 修復が終わったのだろう 翌年10月国内尉那厳城へ遷都した

四面壁立 100m近い崖で 
頂上部は1000m掛ける2から300メートルほどの広大な台地 テーブルマウンテン 
五女山城と今は言う
天池と呼ばれる湧き水からなる池がある 天然の要害の地だ

その麓 平原部には 前漢の五銖銭 新の大泉五十が出ているところから見ると
その前後の時代の 高句麗王都だと思われる
部族連合国家は 城 あるいは 環濠城柵集落 と言う自治国家の集合体だ
高句麗は5部族連合国家でもあった

「與地勝覧」央土口子 鴨緑江と婆猪江2江を北へ渡ると 大野中に城あり
名を兀刺山城という

五龍(wu lung)山 五女(wu nu)山 五牛(wu niu)山 尉那(wei nei) 兀刺(wu la) 全て音韻転化だ
関係ないが 魏 衛 倭 呉 越 閲 すべて 読みは wei だ

「三国史記」3代大武人王(18~44?)の11年
漢の遼東太守は 尉那厳城を囲み 数十日間囲みを解かなかった
乙豆智が言う
ここは厳石の地 水や泉はない だから我々が困窮するのを待つ と漢人は言ってます
ですから 宜しく 池の鯉魚を水草に包んで ねぎらったらどうでしょう
王はこの進言に従った
これを以って 漢将は言った 城内に水がある 城を抜くのは無理だと
そして 城を抜くのをあきらめて 囲みを解いて引き退いた

ここが 高句麗の最初の国内城尉那厳城であろう


丸都山城は 積石ではあるが 厳石ではない
水泉は豊富にある 兵糧攻めは無駄である
丸都山城は 最初の国内城ではない

險濆(xian-du)は 国の移動の際持ち運ばれた地名 移住先の朝鮮王の居る所につけられた地名である
玄菟は(xuan-tu)と読む 通音である

玄菟城は 推定ではあるが BC195年 衛満に朝鮮国を乗っ取られ 国を逃れた朝鮮王準が最初に寄った所ではなかろうか
險濆(xian-du)の音が残る

東胡 倭 蒙古 契丹 渤海 金
漢字は 仮借したもの 音が大事だと思う
万葉仮名と同じで 漢字によって表記された1音が意味を持つ

漢の玄菟城 不耐濊城を兼ねた

「海東釈史」
或いは称す 不耐 或いは称す 不而 国内の音転である

丸都山城は その玄菟城から2,3km離れたところに築かれた山城
高句麗10代 山上王位宮3年 漢の建安4年(199年)丸都を築き始める
山上王位宮13年(209年) 12月に遷都 社稷を 尉那厳より丸都へ移す
築くのに10年 かなり大規模な工事であっただろう

瑠璃王(3年)より山上王(209年)まで 国都は尉那厳であると思われる

高句麗は 衛満朝鮮故城や 前漢の捨て去られた郡県故城を修復し 国の礎としたと推定される

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