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20230309

2023-03-09 06:37:20 | 極東古史考
日本仮説ⅲ(論理構築中)

暢 鬯艸
「説文解字 五下」
「一曰鬱鬯百艸之華遠方鬱人所貢芳艸合醸之以降神鬱今鬱林郡也」
(鬱林郡 現在の広西省桂平県地域)

「有倭人以時盟否」建寧年間(168~172年)
曹操宗族墓群「元宝坑村一号墓」

引用whiki 

(「盟」古代中国の近接する国々の間で
 神明にかけて交わされる不可侵や同盟の誓い)

越人は単一の民族ではなく百越と呼ばれる
長江下流域に住んでいた百越の一つである倭人が北上
山東半島から朝鮮を経て 日本へ渡来

日本列島 倭人渡来略歴
BC1000年以前 
陸稲・焼畑 地面に棒で穴を開け5,6粒ずつ蒔く
縄文人と倭人の混血である弥生人が列島全域で徐々に増加

BC1000年頃から 
水稲の普及 結界としての鳥居
鰹木・棟持ち柱・心柱形式が支配層に普及し始める
基本的に縄文人は竪穴式 
この頃より列島では 
夏は高床 冬は竪穴 の生活習慣が始まる

BC300年前後 
朝鮮半島南部の倭人と九州の弥生人が 
対馬海峡を挟む環玄界灘文化圏を形成
博多を中心とする部族連合国家「九州ヤマト国」が出来始める

AD200年前後
縄文人と倭人と亡命漢人による「畿内ヤマト国」成立
「九州ヤマト国」は
磐井の乱527年(継体天皇21年)によって 
「畿内ヤマト国」に完全に併合される

和語について
和語 列島倭語
夫余語 満州倭語(부여)
高句麗語 遼東半島倭語
百済語 朝鮮半島北部倭語
伽耶(伽倻 加耶)語 朝鮮半島南部倭語

とくに間違えやすい言語として現代韓語がある

現代韓語 古代粛慎(拼音:Sùshèn)語
{粛慎 息慎(Xīshèn)稷慎(Jìshèn)は自称
挹婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)は同系の民族
「日本書紀」など古文献における粛慎(みしはせ)も同系の民族}

引用whiki
将軍標  장군표 
朝鮮半島の村落に見られる魔除けのための境界標
第二次世界大戦前までは除魔将軍標と称され
略称の将軍標も用いられていた
かつての朝鮮半島では疾病や災難をもたらす鬼神信仰があり
その魔除けのための木製標を村落の入り口に設置していた
異形相の人面の下に漢字が刻まれた木柱がバラバラに設置されていたが
現在の日本国内に設置されているものは
「天下大将軍」「地下女将軍」と刻まれ
男女の標が対になったものとなっている

近年の朝鮮語でチャングンピョ(将軍標)という
別の表現ではチャンスン(장승、長栍、長丞)
ポクス(벅수、法首)やチャンシンイ(장싱이、京畿道方言)ともいう
竿頭に鳥が止まった神竿をソッテ(朝鮮語版)(솟대)
人面を彫った神木をチャンスン(長栍)という
鳥は天地を往来して神の使いをすると信じられて神格化され
神木には人面を彫って人格神化したという
日本における将軍標は埼玉県日高市の高麗神社のものが有名である
同じく日高市の聖天院西武池袋線高麗駅前にもある
さらに東京都西多摩郡日の出町の東光院妙見宮にもある
妙見宮例大祭(5月3日)には韓国舞踊が奉納される 

これは
倭人の風俗 村の結界としての鳥居と
漢人の 文字信仰 文字崇拝
粛慎人の トーテムポール結界と同じ
これらの 風俗が習合したものだ

アリランは 
現代の朝鮮半島民が 
バイカルからの 
5000年に渡る南へとの放浪の結果
彼等が見失ってしまった 
古代粛慎人の古代民謡

大多数の朝鮮半島庶民は 
粛慎族の血を引く

精選版 日本国語大辞典  
「粛慎・稷慎・息慎」の意味・読み・例文・類語                    
                
しゅくしん【粛慎・稷慎・息慎】
                                             
〘名〙 中国古代の北方民族
古典にみえる夷狄(いてき)・東夷の一つ
黒龍江、松花江流域のツングース族と推定され
後漢の挹婁(ゆうろう) 六朝の勿吉(もっきつ)
隋唐の靺鞨(まっかつ)も同系統とみる説もある
日本史上の「みしはせ」は、この名を古代の東北民族にあてたもの
しゅくちん。〔晉書‐四夷伝・東夷・粛慎氏〕

whiki
『アリラン』(朝鮮語:아리랑、中国語:阿里郎)

キキョウを掘る娘を歌った『トラジ』とともに
朝鮮半島内外で最も有名なものの一つ
明るいメロディーのトラジと哀調を帯びたアリランは
朝鮮民謡の代表作と言える
韓国の文化体育観光部は
アリランを「韓国の100のシンボル」に選定している
歌詞に歌われているアリラン峠は伝説上のもので
朝鮮半島各地にある同名の峠はこの歌にちなみ
後から地名としてつけられたものと考えられる
アリランという単語の語源は
キム・ジヨンの
『我離郎・我離娘、我耳聾、我難離、阿娘、兒郞偉、閼英』の6説が基本説といわれている
その後高権三の「唖耳聾」説
李丙燾の「樂浪」説
梁柱東「アリ嶺」説をはじめ
沈載德、丁益燮、任東權、崔載億、元勳義などの
独立初期の研究者・学者がこれらの説の研究をさらに深め
現在も多くの語源説が発表されているが未だ決定的な説はない
歌の起源は高麗王朝末期に江原道旌善郡で歌われたものとするものもあれば咸鏡道地方の農民歌から[要出典]とするものもあるが、日本統治時代の1926年に公開された映画「アリラン」の主題歌として全土に広まったものと考えられる珍島アリランや密陽アリラン等
地域により様々なバージョンがあるが
一般的によく知られているものは京畿アリランである
多くは三拍子であるが
中には四拍子のバージョンや3拍‐2拍の変拍子風のもの
日本の追分節のように拍子が明確でないものもある
アリランは元々楽譜化されていなかったものだった
初めて楽譜化(採譜)したのは
アメリカ人宣教師・言語学者・史学者のホーマー・ハルバートで
1896年2月に出版された
『朝鮮留記』内にある「KOREAN VOCAL MUSIC」に記載されているその中で「いつ、どこでも聞くことができる歌で
数多く即興曲に置き換えられたために
どれほどあるか明らかではないが後半部分は同じである」と記載している
韓国などで
ときには4拍子にアレンジされてサッカーの応援歌になったり
さまざまな所で歌われている
オリンピックやアジア大会などの国際ゲームで
南北合同行進のときなどに流れることもある
特に2018年に開催された平昌オリンピック・パラリンピックでは
OBS提供の国際中継放送において
オープニング・クロージングや競技紹介時などのBGMとして用いられ
1988年ソウルオリンピックで表彰式に使われた 
朝鮮民謡の主題による変奏曲はアリランをベースにしている
北朝鮮のマスゲームの主題もアリランであり女性歌手の独唱が披露される
なお
アリランは本来3番までだが
北朝鮮では4番以降をつけ加える事もあり
その場合は金日成や金正日・朝鮮労働党を称える内容になることが多い
また
まったく別の曲であるが「軍民アリラン」・「強盛復興アリラン」など
アリランの名称をつけた曲も製作されている。
2012年
韓国のアリランが
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産代表一覧表に記載された
また2014年には
北朝鮮のアリランが韓国とは別件として代表一覧表に記載された
京畿アリラン 原詞
  1. 아리랑 아리랑 아라리요
    아리랑고개로 넘어간다
    나를 버리고 가시는 님은
    십리(十里)도 못 가서 발병(-病)난다
  2. 아리랑 아리랑 아라리요
    아리랑 고개로 넘어간다
    청천(靑天)하늘엔 별도 많고
    우리네 가슴엔 꿈도 많다
  3. 아리랑 아리랑 아라리요
    아리랑 고개로 넘어간다
    저기 저 산(山)이 백두산(白頭山)이라지
    동지(冬至) 섣달에도 꽃만 핀다
日本語訳
  1. アリラン アリラン アラリよ
    アリラン峠を越えて行く
    私を捨てて行かれる方は、
    十里も行けずに足が痛む。
  2. アリラン アリラン アラリよ
    アリラン峠を越えて行く
    青い空には小さな星も多く、
    我々の胸には夢も多い。
  3. アリラン アリラン アラリよ
    アリラン峠を越えて行く
    あそこのあの山が白頭山(朝鮮民族の霊峰)なんだね、
    冬至師走でも花ばかり咲く

新羅王の祖先は「金日磾」
前漢の政治家であり軍人でもある 
字は「翁叔」匈奴の「休屠王」の太子

後の「金禕」
「金日磾」の末裔 父は「金旋」  
小説『三国志演義』にも登場

「大唐故金氏夫人墓銘」
 韓国古代史研究 2009, vol., no.54, pp. 395-422  UCI:G704-000848.2009..54.001   
発行機関:韓国古代史学会  
 クォン・ドクヨン/ Deukyoung Kwon 
 釜山外国語大学
<大唐故金氏夫人墓銘>은 1954년에 중국 陝西省 西安市 교외에서 출토되어, 현재 서안 碑林博物館에 소장되어 있다. 묘지석이 특별히 크거나 화려하지 않고 또 고관을 역임한 유명인사의 묘지가 아니어서인지, 중국학자들은 이 자료에 별다른 관심을 가지지 않았다. 그러나 한국고대사를 연구하는 입장에서 보면, 이 묘지명은 각별한 가치를 가지고 있다. 우선 <大唐故金氏夫人墓銘>는 현재 알려진 재당 신라인 묘지명으로서 유일한 금석문이라는 점에서 의미가 있다. 그리고 이 묘지명은 4대에 걸친 김씨부인의 가계와 선대의 활동을 생생하게 보여준다. 즉 조부 金忠義와 부친 金公亮은 기존에 알려진 사실보다 훨씬 다양한 관직을 역임했음을 말해주고, 김씨부인의 선대는 원래 신라 왕실의 일원으로 증조부 金原得 때에 입당하여 정착했음을 암시한다. 뿐만 아니라 이 자료는 신라 왕족 김씨의 시조관념을 구체적으로 보여준다. 주지하듯이 7세기 후반 이후 신라에서는 김씨의 시조를 少昊金天氏와 金日磾에서 구하는 경향이 있었다. 김씨부인묘지명은 그러한 의식을 고스란히 담고 있다. 또한 이 묘지명은 장안에 살던 재당신라인 群像들의 다양한 삶의 한 형태를 보여준다는 점에서 가치가 있다.                                                                                                                        
  <大唐故金氏夫人墓铭>于1954年在中国陕西省西安市郊出土,现藏于西安碑林博物馆。由于该墓碑既不是特别大也不华丽更不是历任高官的知名人士的墓志铭,因此在中国国内没有得到很高的重视,但从研究韩国古代史的角度来看,这一墓志铭具有特殊的意义。 首先,<大唐故金氏夫人墓铭>作为现存已知在唐新罗人墓志铭中唯一的金石文,极具意义。而且,该墓志铭将金氏夫人家族四代的延续和先祖的生活生动地呈现在人们的眼前。即,并不是简单的记述了其祖父金忠义、父亲金公亮存在的事实,而是将其祖父及父亲历任的官职也一并交代得清清楚楚;并且暗示了金氏夫人的祖先本为新罗王室成员,到其曾祖父金原得这一代入唐并定居下来。 不仅如此,这一资料也将新罗王族金氏的始祖观念具体的呈现出来。众所周知,从7世纪下半叶开始,在新罗便有从少昊金天氏和金日磾追溯金氏始祖的倾向。金氏夫人墓志铭将这种意识原封不动的保存下来。而且,该墓志铭也反映了当时在长安生活的新罗人丰富多彩的生活群像,而这一点也是极具价值的。 金石文据有真实反映当时生活和思考方式的特点,而这一特点使其与其他任何资料相比都具有更高的史料价值。<大唐故金氏夫人墓铭>当然也不例外。虽然对于现在才对这一资料进行考察研究感到多少有些迟了,但是,能向学术界广为介绍该史料仍是十分庆幸的。







「新羅文武王陵碑」を含む新羅の各種金石文などでは
新羅王家は「金日磾」の末裔と記録されいる



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