真上から、フラッシュ使えば、大抵こうなる。
皿も横からとという見所もあるでしょうが
やはり皿なら、上からということで
全面、渦巻き状に
一気に飛びカンナが、かかってます。
ここまでやってくれましたか、見事です。が感想。
思い切りの良さに魅かれました。
作者は女性です。
だって、普通の皿の倍以上の工程
削るわけですから、失敗したら無価値。
削りはじめたら、一か八かの勝負ですよね。
歩留まりの悪い仕事ですが、それに敢えてトライする
陶芸家でないとやらないかな~
まだ、許可貰っていないので、お名前は後日。
納豆鉢(市川窯) 金結晶
こういうの、嫌いな人は嫌いかな。
納豆鉢って、幾つも持っているけど、使うようで使わないなぁ。
一瞬、いいなぁ、これで納豆か、乙だね。なんて思う。
だから買う。毎回、心が動く。
でも、使用限定の食器の存在は
今の日本の家庭の食卓では無理なのかな。
それとも、そういう習慣が、我が家に無かったのか。
納豆はいつも、パックの中でかき混ぜてしまう。
だって、席のところに、ポコンと置いてあれば、
そうするしかないだろう。
納豆鉢の使用例は絶無と言って良い。
集めて楽しいのは、箸置きだね。五個セットでね。
陶工・陶芸家の手遊びってのが狙い目
デザイン的に面白いのが多い。割と廉価
意図的に集めると良いコレクションになりますよ。
飲み屋の箸置きみたいな、型押しはいかんです。
箸置きも、家庭の食卓では、特別なことでもないと
出てこない食器の一種だと思うのだけど。
いざって言うとき、
「箸置き」が無いのは、情けない。
栃木県と言ったら「益子焼」ということですが
もうひとつ、窯場があるんですね。
那須郡馬頭町に「小砂焼」(こいさごやき)
どんなところか、なんてことはホームページをご覧あれ
http://www.koisagoyaki.com/
これこそ阿武隈山地の中!
存在は知っている。場所も知っている。そんなに遠くない
だけど、足が向かない。今日は、一念発起、行ってきました。
小砂に向かう途中、お出迎えは
「もうひとつの美術館」
小学校を改造した「美術館」。
赤松の下には、「二宮金次郎」が薪を背負って鎮座
運悪く、何かの撮影中で、中には入れませんでした。
ただの水のみ場と思ったら、そりゃ、観察不足
左下、これこそ「足洗い場」
裸足で体育の授業を行っていた証拠です。
ここで足を洗って、そのままペタペタと教室に行くのですねぇ。
かく言う拙者も、裸足で体育やりましたよ。
雨上がりの翌日の昼は、校庭の石拾いが定例化してました。
雨で浮いた小石を拾うわけ。
さすがに、足裏の皮が厚くても、小石に乗るとちょっと痛いんだな。
窯元は、
市川窯~国山窯~朱雀窯~藤田製陶~いさご陶芸と見て回りました。
金結晶とかいう釉、面白かったし、国山窯の青磁も興味をもてました。
国山窯には、古代窯の復元がありました。
歴史好きを自認する私としては興味津々
斜面を利用した、いわゆる登り窯
巨大なつちのこみたいで、気味悪いですね。
私の住んでいる近在に
小幡北山埴輪製作遺跡(国指定史跡)があるのですが
そこにも、同様の斜面を利用した登り窯跡がありますが
こちらの方が、いかにもこの通りであったろうと思わせます。
こういう窯では素焼きぐらいしかできないのでしょうね。
もう少し、三ヶ月くらいは笠間周辺や市内を紹介してからと思っていましたが、
なかなか時間が取れなくて、さわりのさわりで一応止めて
いよいよ、本題の笠間焼に入りましょう
私も、そんなに作家の方を知っているわけではないし
陶芸に詳しいわけでもないし、まして、自分で作るわけでもないし
いわゆる「門外漢」
でも、陶芸に触れる良い環境で生活できていると思います。
名声・評価の定まった方のものは、下手に評価すると
己の浅さ・無知を暴露するだけなので、そういうことはしませんよ。
さて、第一回は「田山健司」さん
今日、水戸市内で個展を開いていたので見てきました。
小遣いの範囲内で買えるもの、(本当に残念)
買ったものの画像なら、許可不要と勝手に判断していますので
「ぐい呑み」灰釉です。
私も、相当の「呑み助」ですので酒器には、つい目が行きます。
ちょっと大振り、畳の折目の数で判断してください。
本人が「私が作るとちょっと大きめになってしまう」ということでした。
じゃあ、相当酒が好きとみました、と返すと
ただ、笑っているだけでした。
なみなみ注いで、口の下の凹みに指を掛けて、グイッと
グイッ、は少々キツいですね。一口には、少々余る。
注ぐ量で調整しろってことですかね。冷酒向きです。
作品は自然釉(松の灰釉)の作品が多いようです。
次回も「田山さん」で行きます。まだ、言い足りない(^^)
元治元年(1864年)7月29日 天狗党田中隊vs鯉淵勢 のバトル「明神山合戦」が繰り広げられた笠間市土師(旧岩間町)です。神社は淡島神社、おひなさまの神社
ものの本によると、鯉淵勢 230名+α
鯉淵勢は、周辺村々の農民を中心とした自警団組織、猟銃、竹槍、長脇差、山刀、鋤諸々の武器を手に、戦の半プロ集団田中隊と渡り合って、死者4名重傷1名を出しながらも、これを撃退。田中隊は、死傷者25人を出して駆逐され、この地方の安全は確保されたのでありました。めでたし、めでたし。
天狗党田中隊は、略奪集団というか、はぐれ者ヤクザ集団というか、天狗党を語る上での汚点だな。皇国史観で、なんとかこの田中隊を正当化しようとしたけど、やったことが酷過ぎる。隠し切れなかった訳だ。最近の本では、この田中愿蔵一派を天狗党から切り離して贔屓の引き倒し、本質を隠しちゃいけません。
さて、この明神山合戦場のすぐそば、岩間街道沿いに、本日のメイン。宍戸陣屋門がある
一万石の陣屋の門も、 ちょっとした農家の長屋門といった風情
移築前は、茅葺屋根であったそうな。
よく見れば、赤い塗料がかすかに残ってますね。赤門です。
柱にしても、梁にしても、材料は無節、板張りに節のあるものが
見られましたが、一万石でもそれなりに「大名普請」
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門自体と、梁にかかる家紋3つが県の重要文化財。
道端にあるので、車で行ったときには、路上に駐車せず、
淡島神社の脇に駐車場があるので、そこを利用しましょう。
場所が場所なので、駐車違反の取締りは、間違ってもないでしょうが
通行の邪魔であることに違いはありません。
おまけです。
この近くに「小澤栗園」があります。
特に親戚でも、知り合いでも、客でもないのですが
確か、ここのホームページの出来が良かった記憶があるのです。
http://homepage3.nifty.com/kozawakurien/
ここと、もうひとつ
小田喜商店 http://www.kurihiko.com/hyousi.shtml
ビジネスでホームページ持つなら、こう作りたいと思わせる作りです。
秋になったら、岩間の栗良いですよ。
高圧線が日本の風景をどれだけぶっ壊してきたか
その恩恵を十分に浴びながら、文句を言う。
その時々、自分の都合で身勝手な正義を振り回す。
それには、誰も気付いている。「正義」とは別物なんだよなぁ
対象が、こちらに手を出して来ないことを知っての上でのカラ威張り
「じゃあ、電気止めます。ありがとうございました。」
それなら、こんなこと書かないよ。TEPCOさん、ごめんね。
標高182m 笠間氏が笠間城を築く
土塁と堀、少々の石垣、石組みが残るだけ
平地の城跡と違って、人為的な破壊は少ないけど、ちょっとさびしい。
小高くなっているところが、天主台で二層の櫓が立っていた。
平坦な部分に二の丸、三の丸があったわけ
詳しくは「笠間城」「佐城山」で検索してね
ついでに、昨日の宍戸も調べてもらうといいですね。
意外な事実を知っていただくことになります。
城跡まで、ほぼ車で行けるので、山城では見学の楽な方です。
本丸下に石倉と呼ばれる巨石群がむき出しで転がっている場所がありますが
ここからの眺めは、なかなか良いものです。
城跡の見学は、冬~春が良いですね。
夏に調べて、冬に現地へが城ファンの常識です。
草木が枯れて見通しが良く歩き易い。地形を読みやすい。
蜂・蚊・蛇等はいない。
湿度・気温が低く、体力を消耗しない。
天候が安定
良いことづくめ、ということですね。
気が向いたら、城跡歩きでもトライしてみてください。
「宍戸焼」をgooで検索すると、一番最初に出てくる「地域」
極々、簡単に
「宍戸焼・手越焼・箱田焼を笠間焼に統合し販路を拡張し現在に至る。」
「宍戸焼は現在の磯部幸克が7代目として伝統を引き継いでいる」
宍戸焼なら、ウチにもあった。「茶壷」です。
これを認識したのは、宍戸の歴史民族資料館の二階の展示室
少数の宍戸焼の壷が展示してあったのですが
これは、高さ30㎝くらい。これを一回り大きくしたもので、全く同じ釉
多分、口周りの釉は、藁の灰釉かな(間違っていたらご指摘を)
元々、我が家にあったものじゃなくて、知り合いの蔵を壊すとき貰ってきたもの。
・・・しばらく床の間に置いていたが・・・(恥)
宍戸城を調べるために、この資料館を訪れて、気が付いた。同じじゃないか
えーっ、茶壷?宍戸焼?どこにでもあった日用品?
件の茶壷は、無残にも再び物置の奥へ放り込まれ永久の眠りについたのでした。
七代目磯部幸克さん、この宍戸の歴史民俗資料館から北西方向
概ね、1.5キロメートル清水寺の裏手「いそべ陶苑」さんです。
この宍戸という盆地状の地域は、丸ごと宍戸城とその城下町
宍戸氏の古館、秋田氏の宍戸城、徳川氏の宍戸陣屋
主要部分は、宅地となってしまいましたが
400年前の古地図と変らない道筋が、そのまま田んぼの中に残っています。
歴史好き・城好きにはたまらないエリアなのです。
常磐線が友部を通ったことで、宍戸には急激な変化が及ばなかった。
ご他聞にもれず、宍戸も姿を変えつつあります。
今のうち、まだ、道路一本だけの開通ですが、これからどんどん変るでしょう。