【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」(82)
先週の半ば「まだ少し早いんですけど……」と言いながら、隣に住むK子(息子の嫁)がカーネーションの鉢を、持ってきてくれた。鉢はオレンジ色と黄色のラッピング用紙にくるまれ、大きなリボンもかけられている。例年はピンクの濃淡が多かったが、今年の花の色は黄色。
「うわぁ、珍しいね。初めて見るわ。ありがとう!」と、お礼を言ってから尋ねた。「沖縄にも送った?」
沖縄はK子の実家なのだ。しかし、荷物を送るのに混乱が生じているのか、
「あ、止めました」
の返事。
「今年は5月いっぱいが母の日扱いになるそうよ」
「はい。でも、電話だけにします」
その理由を聞いてみると、沖縄では配達人も受取人も、荷物を挟んで長話をするとか。何かで集まりがあって、知らない同士でも話に盛り上がることもあるので、「今の時期、気になるから」とのこと。コロナ騒ぎさえなければ、ちょっと微笑ましい光景ともいえるのだが。
「母の日」なるものが出来たのは、いつ頃からだろうか。世界の各国によって諸説あるようだが、アメリカの南北戦争(1861~1865)の頃、夫や子供を戦場に送るのを絶対に拒否しようと、アン・ジャービスが「母の日宣言」として立ち上がった、というのが一番納得できる。
1905年、アンの娘アンナ・ジャービスが、苦労をした母の死をきっかけに「母が生きているうちに感謝を伝えるべき」として、亡き母の好きだった白いカーネーションを追悼式に飾った。それから母が健在の人であれば、5月の第2日曜日に赤いカーネーションを贈るようになったという。日本が、このアメリカの習慣に倣ったのは、どうやら1949年(昭和24年)頃らしい。
その当時、小学3・4年の私に、学校から胸につける形の造花の白いカーネーションが渡された。まわりの友達は皆赤いカーネーションで、「おかあさん、ありがとう」と、書かれた紙きれは、赤も白も同じであった。
なぜ、急にこうした造花をつけさせられ、何日かを登校しなければならないのか、その意味などさっぱり理解しないままに……悲しかった。なぜか、とにかく悲しかった。母はどんな声をしていたか、私にどんな話をしてくれたのか、肌の感触などの記憶も何もないからだ。
私が結婚をしてから、義母は私の母と同じ年齢であることが分かった。当初は私が両親と早々と死に別れていることで、危惧をされていたかもしれないが、そのことを口に出されたことはない。夫の実家は農家であったが、義母は婦人会や読書会の長を任されていて、周りからの人望があった。
彼女には4人の息子と娘が1人いる。一緒に暮らしている嫁と、他で暮らす嫁が3人の計4人いるが、嫁たちの誰の悪口も聞いたことがない。なので、私の至らなさにも安心していた。
5月の「母の日」が近づくと「私の母が健在であったならば」とか、「人前に立つことも多いから」と、そんな思いも込めて、義母の年齢に合いそうな、バッグとか、日傘とか、春ショールとか、カーディガンなど、身に着けるものを選び、手紙を添えて贈っていた。いつも、丁寧な礼状も返っきた。
時には、我が家に来てもらって、何日かを過ごすことや、近郊へ出かけることもあった。そういえば、赴任中だったロサンゼルスにも義弟と共に来てくれたことも。ディズニーランドや、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ(金門橋)などを案内したときなんか、殊の外大喜びをしてもらったことが懐かしい。
しっかり者だった義母は、義父との関係では「かかあ天下」であったように思う。いざ亡くなってみると近くのお墓参りが日課となった。義母も腰を少し曲げて歩くようになったので、墓参りに行くときのために、水や花なども入れられ、座って休憩もできる手押し車を贈った。
喜んでもらっていると思っていたが、私たちが盆休みで立ち寄っても、それを利用している気配がない。どうしたのか聞いてみると、「近所の人に迷惑をかけるから」との理由で、義兄が母屋の2階の奥に押し込んだらしい。それに、田舎道でそれを押しながら歩くと、車が来た時に邪魔になるとも。
その理由に仰天したが、私たちに口出しが出来ることでもない。その後、義母が意を決したように、「邦ちゃんが贈ってくれたものは、すべて引き出しに仕舞ったままで」と。義姉が「派手だね」と言って、良い顔をしなかったからだという。
義姉は私たちが里帰りした時には、ご仏前や手土産を喜んでくれたし、いつもにこやかに迎えくれていた。だが、義兄夫婦には義父や義母との、日々の暮らし方に苦労があったのかもしれない。遠い街で気楽に暮らしている私には、そのことへの理解が足りなかったことに、気づかされた。
しばらくして、義姉は重病(舌癌)に侵された。入退院を繰り返していることを、名古屋や岐阜の義弟たちから聞かされたが、彼らは病の名前も何も知らないことにし、義姉を訪ねることも控えているらしい。
我が家の子供(孫)たちも大きくなって、私たちが帰郷することはすっかり間遠になってしまった。夫だけが出張の際に、墓参りと母親に顔を見せてくることくらいに留めた。やがて嫁にも先立たれてしまった義母だが、近くに住んでいる娘や息子の家に呼ばれて大事にされている様子だった。
そんな義母に、私は我が家の近況として、夫や子供たち家族も元気に暮らしていることを書いて、時折手紙で送っていた。返ってくる返事は「ありがたい、ありがたい」と、ハンコを押したような文面ではあったのだが。最後の1年ほどは、施設で暮らしていたが、100歳の表彰を喜びながら、大往生を遂げた。
親孝行は出来なかった私だが、「母の日」を祝ってもらい、優しくもされている。有難い。でも、いずれ誰かに世話にならなければならない時が来るだろう。それも覚悟はしていのだが、少しでも長く元気でいることが、「子孝行」になるのかも。そう思っている。