【連載】藤原雄介のちょっと寄り道⑥
恐怖のカメルーン時間
バンコク(タイ)他
もう20年前になるが、2002年に日韓合同で開催されたサッカーW杯を思い出してもらいたい。この年、カメルーン共和国の代表チーム「Les Lions Indomptables(不屈のライオン)」が大分県中津江村でキャンプすることになっていた。ところが、到着予定日になってもやって来ない。結局、彼らは5日も遅れて到着した。日本人からすれば、とんでもない「大遅刻事件」である。
西アフリカのカメルーンと日本では、時間に関する概念が全く異なるようだ。時間に追いかけられるように生きている日本人。一方、カメルーン人は、ゆったり、ノンビリと時間に逆らうことなく、流されるように生きている。
そんなノンビリしたカメルーンに、7、8回出張した。2000年から2007年頃にかけてのことである。カメルーンを西アフリカのコンテナ物流の拠点とすべく、コンテナクレーン2台を供給し、港のコンテナヤードを整備するプロジェクトの第五代目の営業担当者になったからだ。
「プロファイ」開始から契約に至るまでおよそ15年を費やした息の長いプロジェクトだった。先輩たちが築き上げた礎の上で工事完成を見届ける幸運に恵まれたというわけである。
プロファイとは、プロジェクト・ファインディングの略で、円借款の対象となる海外優良プロジェクトの発掘を指す。プロジェクトを特定したら、融資契約締結に至るまで多数の組織が絡む複雑なプロセスに一つひとつ取り組んでいかなければならない。
円借款によるカメルーン最大の貿易港ドゥアラ港のコンテナターミナル近代化プロジェクトの追加契約交渉、JBIC(国際協力銀行)と現地銀行の間を取り持っての融資条件の調整、フランスのサブコン(下請け業者)対策などが主な任務だった。
さて、カメルーンのことを知らない人が多いので、ざっと説明しよう。まず国名の由来が面白い。1470年に最初にこの地を踏んだヨーロッパ人はポルトガル人だった。沿岸にエビの多いことに驚き、「カマリォウ(camarão)」、つまりエビと呼んだという。因みに、カメルーンはフランス語の発音である。
一番早くカメルーンの植民地経営に乗り出したのはドイツだった。が、第一次世界大戦後、フランスがドイツ領カメルーンの5分の4を占領し、英国は残りの5分の1を手に入れる。現在、カメルーンの人口は約2400万人だ。うち約80%がフランス語圏に、残りの約20%が英語圏に属する。当然、言語が違えば、文化も違う。
私が付き合ったのは、主にフランス語圏の人たちだったが、英語圏の人々を味の分からない田舎者とけなす。一方、英語圏の人々は、カメルーンに蔓延する汚職の土壌はフランス人が耕したものだと罵る。
▲▼制作中のコンテナクレーンを背景に
▲ドゥアラ事務所のスタッフ
冒頭で触れた「大遅刻事件」でもわかるように、カメルーン人は時間をあまり気にしない。何事も時間に正確で、几帳面な日本人とは正反対である。だからカメルーン人の行動パターンに翻弄される日本人が少なくない。私もその一人だった。
カメルーンに輸出するコンテナクレーンは、インドネシアにある子会社で製造していた。そのクレーンの製造状況確認と品質検査のため、お客様のトップを団長とする7人の検査チームをインドネシアに招聘したのだが、インドネシアに向かう途中、日本に立ち寄ってもらうことに。当社幹部との顔合わせのためだ。
しかし、何の連絡もないまま、メンバーの一人が予定日に到着しなかったのである。当時、カメルーン人が訪日ビザを取得するのは、結構大変で、招聘状と日本滞在中のトラブルや金銭問題について保証する旨を記した身元引受証を発行せねばならなかった。
そんな面倒な準備をしていたにも関わらず、本人が現れない。真面目な日本人が大騒ぎしたのも当然である。そして数日遅れてやってきた彼は、悪びれもせずに言った。
「多分、一生に一度しかない日本出張ということで、空港には家族、友人、親戚が大勢見送りに来てくれた。みんなと話し込んでいるうちに飛行機が勝手に飛び去っていった」
勝手に飛び去った…はないだろう、と怒りがこみあげてきた。ところが、「何をそんなにカッカしているの?」と言いたげな彼の顔を見ていると、不思議なことに、怒りは徐々に消え失せてしまった。
インドネシアでの立会検査は無事終了し、カメルーン行きのエアフランス機に搭乗するため、バンコクに向かった。日本でも、インドネシアでも自由時間があまりなかったので、バンコクでは楽しんでもらおうと有名な観光地に案内したが、彼らの関心事は、専ら買い物とカメルーンの民族衣装に似た服やドレスをオーダーメイドで仕立ててもらうことだった。
ショッピングセンターに立ち寄った時は、3時過ぎだった。私は、事実上の添乗員で、てんでんばらばらに行動する彼らに手を焼いていた。「4時半には、ここに集合してください」と言って、自由行動にしたが、これが間違いの元だった。
4時頃に3人ほどが戻ってきたのだが、他に誰もいないのを見ると、またどこかへ。その後、また何人かが戻ってきたが、同じことの繰り返しである。結局、全員が揃ったのは、7時半だった。
その日の午前中は、たった一日で服を仕立てるので有名なテーラーで過ごした。一人ひとり、色鮮やかな生地を選んでは、デザインを指定する、実に楽しそうだ。彼らは5人で、一人3着くらいオーダーしていたから、全部で15着ほどである。心配になった私は、愛想のよい、中国系の店主に訊いた。
「彼らは、明日の夕方のフライトで、バンコクを発つけど、本当に間に合うの?」
「もちろん、大丈夫。ご心配なく」
と自信に満ちた表情で店主は答えた。イヤーな予感がしたが、どうすることもできない。
バンコクの駐車事情は極めて厳しいので、チャーターしているマイクロバスの運転手と待ち合せ場所と時刻の変更をしっかり行わなければならない。それに、レストランの予約時刻も変更しなければならない。私は、カメルーン時間に慣れ親しんでいたと思っていたが、この時はブちぎれて不機嫌な表情になっていたらしい。
「ミスターフジワラ、集合時間に遅れてすまない。だけど、ゆっくりととても良い買い物ができてラッキーだった」
彼らは謝った。が、言葉とは裏腹に全然申し訳ないと思っていないのが手に取るように分かった。
その翌日、心配は的中した。愛想のよい店主は、全ての仕立てが完了するのは、離陸時刻の3時間前だと言う。夕方の混雑する時間帯に、空港まで何時間掛かるか分からない。
「私が、バンコク駐在事務所に頼んで、みなさんの服は責任を持ってカメルーンにお届けしますから、早く空港に向かいましょう」
そう促すが、誰も聞く耳を持たない。
「たとえ、きちんと送ってもらったとしても、どこかで行方不明になって届かない可能性がある。全部できるまで、ここで待ち、自分で待って帰りたい」
結局、全ての服の仕立てが終わったのは、離陸2時間前だった。総勢7名は全員ファーストクラスのチケットを持っている。バンコク事務所のT駐在員に泣きつき、タイ人秘書を通じてエールフランス航空に無理な交渉をしてもらった。
「少し遅れるが、必ず全員搭乗するので、離陸を遅らせて欲しい」
エールフランスにとっては、とんでもない話であったに違いない。だが、ファーストクラスの乗客7人を見捨てて離陸する訳にはいかなかったのだろう、渋々了承してくれた。
「ご一行様」は、無理が必ず通ると信じていた節があり、こちらの苦労などあまり意に会しない様子である。何とかチェックインを済ませた彼らとハグを交わす。
「ボン・ボアヤージュ」
と見送ったが、私の笑顔は強張っていた。同時に緊張が解け、頭が空っぽに。
私達カメルーン・プロジェクトチームでは、カメルーン・ビジネスの要諦を少し理解している人を「半カメ」、相手から理不尽な要求を受けても軽く受け流すことができるようになった人を「本カメ」と呼びならわしていた。
私は、自他ともに認める立派な「本カメ」だった筈なのだが、まだまだ修行が足りないことを思い知らされた。
その夜は、T駐在員とパッポン通りで痛飲し、翌日は、酷い二日酔いに苛まれた。ひどく酔っ払ったのは、「カメルーン旋風」のせいに違いない。
▲バンコクの仕立て屋で
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、NHK俳句通信講座講師を務める夫人と白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。