【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」④
ノーベル賞の本庶先生も
エイジシュートを!
京都大学特別教授、本庶佑先生のノーベル医学生理学賞受賞が決まった。なんでも「オプジーボ」という癌の治療薬の一種が、やっと日の目を見たという。私は最初、「癌患者にとっての特効薬でもできたのか」と思ったが、「21世紀は免疫の力で癌を抑えられるのではないか」ということらしい。つまり癌の進行にブレーキをかける働きをするのだそうだ。
日本人がノーベル賞を受賞したから、どのテレビ局も一斉に競ってこのニュースを流していた。が、本庶先生にしてみれば、「インタビューする人はもう少し勉強してから質問を」という思いもあったに違いない。
後輩の研究者に対しては、「より良い環境になることを願う」とか「教科書などでは基本を学び、しかしそれを鵜呑みにしない」などの内容が話されていた。レベルの低い私である。難しい話はよく分からない。ただゴルフ好きであるという本庶先生の話だけがいやに心に残った。
本庶先生がゴルフに出かけたとき、ある人から「自分は肺癌で、これが最後のラウンドだと思っていた。しかし、あんたの薬のおかげで良くなって、またゴルフが出来るんや」と話されたエピソードを披露され、「自分(本庶先生)の人生の存在として、これほど嬉しいことはない。なんの賞をもらうよりも、これだと思っています」と素直に喜ばれた。先生の人柄が分かる話ではないか。
ゴルフ好きであることを知った女性レポーターが、あからさまな質問をした。
「ベストスコアはいくつですか?」
先生は少しムッとして、
「78」
と短く答えた。
本庶先生は76歳である。不機嫌ともとれる先生の返事に、なぜか私は変に納得してしまった。ゴルフを知らない人に説明したい。エイジシュートとは、自分の年齢以下の打数で1ラウンド(18ホール)を回ること。
つまり、ベストスコアが78の本庶先生の場合、年齢が76歳なので、エイジシュート達成に2つ多い。そう、もう少しでエイジシュートを達成できたのである。悔しいのも当然だろう。
いつもゴルフ好きの夫の姿を見ている私なので、「あと少しだったのに…」という悔しいというか、腹立たしい気持ちがあったのではと勝手に推測してしまう。ことほど左様にエイジシュートとは、ゴルファーの誰もが抱く願いである。そして、我が夫の切なる夢でもあった。
夫がその夢を見始めた経緯を思い出してみることにしよう。
30歳ごろだったろうか、夫が初めてゴルフのクラブを振り始めたのは、江戸川の河川敷にある練習場だった。夫が札幌に転勤になると、家族そろってゴルフ場にちょくちょく出掛けたものである。夏ともなれば、私は幼かった子供たちをゴルフ場に隣接したプ―ルで遊ばせた。当時はゴルファーも少なかったので、のんびりと楽しんだものだ。
札幌での勤務から東京に戻ってくるころには、世間も空前のゴルフブームになっていた。我が家もあちこちのゴルフ会員権の勧誘を受けた。千葉県の奥のほうの、これから開発というところを買わされて、大失敗した経験もある。そんな苦い経験をしながらも、市川に住んでいたこともあって鎌ケ谷カントリークラブの会員になった。もちろん家計に余裕があったわけではないので、生活のやりくりには苦労をした。
ゴルフ仲間がプレーを終えると、たいてい我が家にやって来る。それからは麻雀を楽しむというパターンとなった。夫がアメリカのロサンゼルスに転勤になっても、ゴルフ仲間には不自由しなかった。プレー代の安いこと安いこと。日本と比べるとタダみたいなものだ。
そんな訳で、私も夫に連れられ、グリーンに出るようになった。クラブ2~3本持って。もちろん、ヘタである。でも、飛距離は出ないが、幸いなことに、ほとんど空振りはしないし、球も曲がらなかった。それが唯一の取柄だったろうか。とにかく迷惑をかけないようにと、走るように歩いたものだ。
当時の日本は、バブル景気の真っ只中。日本から送られてくる週刊誌を見ると、ゴルフ会員権はびっくりするほど高騰しているという記事が載っていた。夫が通っていた鎌ケ谷カントリーもご多分に漏れなかった。カリフォルニアに一軒家が買えそうな値段と知って驚くことしきり。だから、ロサンゼルスの気候がすっかり気に入っていた私は、このままロサンゼルスに住み続けたいと切望した。でも、そんなことは「夢の夢」で終わってしまう。
アメリカから日本に戻ると、夫は「鎌ケ谷のマイホームを売らなくてよかった」とばかり、休みの日になると、嬉々としてゴルフに出かけた。そこで知り合った人たちとすぐに意気投合。また競技大会にも積極的に参加してゴルフ・ライフを謳歌する。55歳のときには鎌ケ谷カントリーの大競技会で優勝し、理事長杯を手にすることもできた。
ところで、対戦した人たちはというと、どなたも夫の貧弱ともいえる体形とは対照的だ。体格も素晴らしく、いかにもスポーツ選手といった感じの人ばかりである。それなのに、なぜ夫が勝ったのか。多少の小技を駆使することもあるものの、「あきらめない」「プレーを楽しむ」といった夫の気持ちが功を奏したのだろう。
こうして、ますますゴルフにのめり込んでゆく日々であったが、夫が60代になったころ、体のあちこちの器官にガタが来はじめた。とくに腰痛にはひどく悩まされるようになる。マッサージや針灸、あちこちの整形外科にも通う。「逆さつり」という荒治療にも挑戦した。挙句の果てには、歩くこともままならず、救急車の出動騒ぎまで起こす。
でも、確たる治療法もなく、痛み止めの注射もしてもらえず、ただひたすら安静にするということで落ち着いた。少し良くなると、「運動をしてくる」と言って、ゴルフ練習場に出かける。そして、また腰痛が再発するという繰り返しが2年ほど続く。あんなに好きで夢中だったゴルフはできなくなってしまった。
68歳まで勤めた会社をリタイアすると、夫は今まで我慢してきた器官たちの「大修理」に取りかかった。その最たるものが痔と前立せん肥大の手術である。がむしゃらに仕事をしてきたことでストレスが溜まっていたのだろう。そんなストレスから解放されたこともあって、悪かった体調も徐々に戻り始めた。
(ゴルフの練習よりも、まずは足腰を鍛えることが先決だ!)
と夫は家の周りの散歩から始めた。公園でグラウンドゴルフに興じる人たちと出会った。その後はパークゴルフも勧められた。ゴルフと名がつくだけで嬉しくなった夫は、瞬く間にパークゴルフにのめり込んでゆく。私もこの「遊び」が面白いと思い始めた。いつの間にか夫の腰痛は治り、このブログの「村民の主張」①(「パークゴルフで元気になった!」)にも書いたが、私の踵の痛さも解消された。
夫にとってパークゴルフでの功績は、腰痛が治り、足腰を強くしただけではない。年齢とともに球の飛距離が落ちてしまいがちだが、その弱点を解消することにもつながった。ゴルファーにとって嬉しいことの1つにホールインワンがあるが、どちらかというと、そのときの幸運に左右されることが多い。
70代半ばを過ぎても体調が良い人たちは、誰もがエイジシュートを意識し始める。夫も悲願達成のために、「エイジシュート達成」と大きな字で墨書きをし、枕元に貼り付けたほどだ。パークゴルフにも精を出しながら、グリーンに出ない日はゴルフ練習場に通い、仲間との談笑を楽しむ。病院の待合室でないことが何よりである。ある日、新しく知り合ったパークゴルフの仲間から、夫の年齢を聞かれた。「もう80歳ですよ」と答えると、「あ、そう。オレも、まだ80歳だよ」と怪訝そうな表情を浮かべた。
「もう」と「まだ」の考え方の違いを思い知らされた一幕である。さっそく夫に話したのは言うまでもない。以後、ゴルフ仲間に年齢を尋ねられたら、「まだ」を常用することしている。仲間から笑われながらも、心意気を称賛されるようになった。このことは心理的にも大いに功を奏したのか、夫は昨年秋に80歳を迎えてすぐに出場した八千代カントリークラブの競技会で「77」というスコアを出す。エイジシュートを達成することができたのだ。
よほど嬉しかったのか、クラブから「達成証明書」をもらうやいなや、それを写真に撮って娘や関西に住む親友にメールで送信した。少年のような喜びようである。カワイイとしか言いようがない。つい先日も、夫は2回目のエイジシュートを同じく八千代カントリーで達成した。ほう、なかなかやるではないか。もうすぐ夫は81歳になるが、今後の目標は、ホームコースの鎌ケ谷カントリーでエイジシュートを達成することだ。
ところで、2015年のノーベル医学・生理学賞は、北里大学特別名誉教授の大村智氏が受賞している。受賞テーマは「寄生虫によって引き起こされる感染の治療に関する発見」。アフリカでは毎年5万人以上が感染症で失明していたらしい。しかし、大村氏が発見した抗生物質によって、失明の原因となった寄生虫の増殖を抑え、感染症の拡大を防いだという。
この大村氏もゴルフ好きで有名だ。なにしろ「世紀の発見」につながる微生物は、ゴルフ場で採取した土から生まれたのだ。受賞後は身辺が忙しくなって、ゴルフが思うようにできなくなったことが大村氏の悩みらしい。
本庶佑先生も受賞式出席でストックホルムに飛んだり、次々と講演依頼が殺到して多忙なことだろう。「一段落した後には、必ずやエイジシュートを達成されるよう」と祈らずにはいられない。先生、頑張って!