私は息子を失ったとき、己の無力さと対面させられた。
そう・・・そんなものと対面などしたくはなかったが、無力だという現実が叩きつけられて・・横たわっていた。
無力でありたくなかった。出来る限りの努力をし、背伸びをし、己の無力を無視できる限りしてきたが、その努力の全てをあざ笑うかのような現実があった。
ノミよりも小さな存在で、無力、無知、無能であった私の結果としての現実があらわになってむき出しているようだった。
その状況を受け入れていくことさえも出来ず、ただ映画のフィルムが流れて行くのを眺めているような感覚以外なにもわからなかったが・・・ただ時が戻らない事だけは知っていた。
人の時間も体力も能力も限られているし、
魔法使いのように時を止める力もない。
誰かを助けたくとも、それには限界がある。
自分でさえも手に余る感情に翻弄させられる時があり、
時には恐怖さえ感じる、
なにが一番の怖いかと言えば己の無力さと向き合わなければならないときが一番恐怖心がわくのではないかと私は思う。
己を・・・全てをコントロールできない無力な自分・・・
避けることが出来ない惨事を目の当たりにし、恐怖におののく・・・
未知の世界へ向う時の恐怖心だって、己の限界を知る可能性が出る場所でもある。
とても小さな無力感でもそれを正面から受けた時には心は大なり小なり凹むものだ。
無力感と向き合い、その凹んだ己を立ち直らせていくのに何年も何年もかかるときがある、己の全てを消し去りたいほど大きくのしかかってくる無力感と出会ってしまったとき人は初めて問われるのだ、己の中の愛に向かっているのかと・・・
見栄も体裁も置き去りにして、ただ求めていく・・・漂うように求めて探す・・
自責の念に押しつぶされそうになる中で・・・己を愛する道を探す。。ほんのわずかなことでいい、ただ、今生き延びていること・・それだけの己を時間を掛けて愛せるようになるだけでも微力ながらでも愛を知ることが出来ると私は思う。
息子が逝く数日前に私に偶然にも投げかけた言葉、「僕は愛を伝えるためにこの身(命)を投げ出せるだろうか」と・・・彼が言う「愛」の意味は恋愛の「愛」や愛情の「愛」ではないことは私にもわかっていた。もっと深い生命から流れ出るものだと・・・しかし、それが何か私には良く判らなかった。
私達はその生命の深いところより流れ出る愛に対面しようとするときはまず、孤独と同居しているかのような無力な己と対面しなければならないのだと私は私の人生をもって体験した。
途方もなく続く孤独ともてあますほどの内側から押し寄せてくる哀しみを己自信でどうする事も出来なくなたとき、人は己の中のそれぞれの愛と言う信仰を試すチャンスなのだと思えるようになった。
信仰と宗教は紙一重だ。
ただ自分が信じ貫くことと他者にそれを強いる事は違う。
私は宗教と名のつく団体をすべて遠ざけてきたし、誰かに自分の思いを押し付けるのも嫌いだが、
この激動の世のなかで、踏ん張る必要があるとき、その人、其々が望んだ宗教で救われる道があれば、それはそれでいいのだろう。
そう・・・そんなものと対面などしたくはなかったが、無力だという現実が叩きつけられて・・横たわっていた。
無力でありたくなかった。出来る限りの努力をし、背伸びをし、己の無力を無視できる限りしてきたが、その努力の全てをあざ笑うかのような現実があった。
ノミよりも小さな存在で、無力、無知、無能であった私の結果としての現実があらわになってむき出しているようだった。
その状況を受け入れていくことさえも出来ず、ただ映画のフィルムが流れて行くのを眺めているような感覚以外なにもわからなかったが・・・ただ時が戻らない事だけは知っていた。
人の時間も体力も能力も限られているし、
魔法使いのように時を止める力もない。
誰かを助けたくとも、それには限界がある。
自分でさえも手に余る感情に翻弄させられる時があり、
時には恐怖さえ感じる、
なにが一番の怖いかと言えば己の無力さと向き合わなければならないときが一番恐怖心がわくのではないかと私は思う。
己を・・・全てをコントロールできない無力な自分・・・
避けることが出来ない惨事を目の当たりにし、恐怖におののく・・・
未知の世界へ向う時の恐怖心だって、己の限界を知る可能性が出る場所でもある。
とても小さな無力感でもそれを正面から受けた時には心は大なり小なり凹むものだ。
無力感と向き合い、その凹んだ己を立ち直らせていくのに何年も何年もかかるときがある、己の全てを消し去りたいほど大きくのしかかってくる無力感と出会ってしまったとき人は初めて問われるのだ、己の中の愛に向かっているのかと・・・
見栄も体裁も置き去りにして、ただ求めていく・・・漂うように求めて探す・・
自責の念に押しつぶされそうになる中で・・・己を愛する道を探す。。ほんのわずかなことでいい、ただ、今生き延びていること・・それだけの己を時間を掛けて愛せるようになるだけでも微力ながらでも愛を知ることが出来ると私は思う。
息子が逝く数日前に私に偶然にも投げかけた言葉、「僕は愛を伝えるためにこの身(命)を投げ出せるだろうか」と・・・彼が言う「愛」の意味は恋愛の「愛」や愛情の「愛」ではないことは私にもわかっていた。もっと深い生命から流れ出るものだと・・・しかし、それが何か私には良く判らなかった。
私達はその生命の深いところより流れ出る愛に対面しようとするときはまず、孤独と同居しているかのような無力な己と対面しなければならないのだと私は私の人生をもって体験した。
途方もなく続く孤独ともてあますほどの内側から押し寄せてくる哀しみを己自信でどうする事も出来なくなたとき、人は己の中のそれぞれの愛と言う信仰を試すチャンスなのだと思えるようになった。
信仰と宗教は紙一重だ。
ただ自分が信じ貫くことと他者にそれを強いる事は違う。
私は宗教と名のつく団体をすべて遠ざけてきたし、誰かに自分の思いを押し付けるのも嫌いだが、
この激動の世のなかで、踏ん張る必要があるとき、その人、其々が望んだ宗教で救われる道があれば、それはそれでいいのだろう。