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美の五色 bino_gosiki ~ 美しい空間,モノ,コトをリスペクト

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おだやかな島だからこそ、五感を研ぎ澄ませるアート鑑賞ができる ~豊島美術館

2017年08月26日 | 美術館・展覧会

どこまでもおおらかな豊島の海と空

 

 

豊島は、岡山と高松の間に浮かぶ直島の東隣にある小さな島で、小豆島も近い。「としま」ではなく「てしま」と読む。面積は直島の倍近くあるが、人口は1/3の900人ほど、瀬戸内の典型的な、のどかさとおおらかさを体験できる島である。

 

となりの直島で1980年代から始まったアート拠点としての開発は、2010年に豊島美術館を開館するに及んだ。使われていなかった棚田を利用し、建築家・西沢立衛と彫刻家・内藤礼によるインスタレーション(空間を芸術作品として表現)を体験できる。

 

美術館は海を見下ろす小高い丘の上にある。丘を登っていく道から見える海は明るくて大きく、どんなものが見られるか期待感を高める効果があるのでは?と思ってしまうほどの絶景だ。

 

 

 

「未確認飛行物体」のように見えるが、細道が誘(いざな)う

 

 

丘の頂上らしきところまでたどり着くと、真っ白な不思議な物体が見える。何となく「ここか?」と感じたが、「美術館」という表示が見当たらない。しかし明らかに歩道とわかる細道が作られており、無言で誘っているように感じたので進んでみた。薄暗い道は丘にたどり着くまでのおおらかな道から一変して神秘的、この道で大丈夫か?とハラハラ・ドキドキしながら歩くとすぐに入口が見えてきた。

 

 

 

森の神秘的な細道の先に入口

 

 

建物に入る前に下足場があり、靴を脱ぐ理由がわからなかったが、内部に入るとその理由がすぐにわかる。柱が一本もない直径50mほどの大きなドーム型の空間には、天井の開口部から光・風・音が入ってくる。鑑賞者は座ったり寝転んだり、思い思いの格好で五感を研ぎ澄ましている。誰もおしゃべりはしていない。本当に自然の営みに対してだけ五感が反応する状態になっている。

 

水が湧き出ているところもある。底が水平を極度に追及しているのであろう、水滴はどちらにも流れず、きれいな繭(まゆ)型や瓢箪(ひょうたん)型をして、プルンプルンと風に揺られている。まるで水滴の動きをスローモーション再生する飲料水のテレビCMを見ているようだ。

 

この島にはスーパーもコンビニもない。この島での人間の営みは、自然の営みに対して本当にちっぽけなものだと感じる。この美術館は案内や説明がほとんどないが、そもそも案内や説明を求めるのは人間だけだ。人間もあらゆる生き物も、抗うことができない自然の営みの中で生きていかなければならない。このアート作品に対する作者の思いは確認できていないが、私は体験してこのように感じた。

 

 

豊島と言えば不法投棄された産廃問題を思い浮かぶ方も少なくないと思う。産廃は2017年3月に撤去が完了し、大きなヤマを越えたようだ。島民や関係者の永年の努力に敬意を表するとともに、過ちが繰り返されぬよう願ってやまない。

 

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

 

豊島、MIHO、行きにくいがすごい美術館を学べる

(ベスト新書)

 

 

豊島美術館

http://benesse-artsite.jp/art/teshima-artmuseum.html(ベネッセアートサイト)

原則休館日:火曜日(3-10月)、火~木曜日(11-2月)

 

 

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寓話の天才画家の表現に引き寄せられる ~国立国際美術館「バベルの塔」展

2017年08月12日 | 美術館・展覧会

国立国際美術館(大阪) 「バベルの塔」展

 

 

大阪・中之島の国立国際美術館で「バベルの塔」展が開催されている。春開催の東京・上野の東京都美術館から巡回してきたもので、目玉作品の「バベルの塔」のほか、ボスやブリューゲル独特の奇想の作品に見応えがある。

 

ブリューゲルによる「バベルの塔」は2点現存しており、出展作はオランダ・ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館所蔵の方である。もう1点のウィーンの美術史美術館の作品を見た方は、絵のサイズがやや小さいことに気づかれると思うが、ボイマンス美術館所蔵作の方が制作が後であるからか、塔の大きさ・存在感をより感じさせる。

 

ブリューゲルらしい緻密な表現も存分に楽しむことができる。塔の最上部に足場を組んで建設作業をしている人や、塔の周りを歩く人は米粒よりも小さいと思える大きさで数えきれないほど描かれている。港に入る船も数センチほどしかないが、マストや乗組員などが本当にリアルだ。バベルの塔と言えば「実現不可能なもの」のたとえに使われるが、「実現可能では?」と錯覚させるオーラを発している。

 

ブリューゲルの作品では他に、ヒエロニムス・ボスの影響を受けたと言われる、昆虫や動物をモチーフにした実存しないモンスターを描いた版画が興味深い。モンスターは寓話を表現したものだが、日本の鳥獣戯画を思わせるように愛くるしい。「大きな魚は小さな魚を食う」に描かれたモンスターは、特設ショップでフィギュアになって売られており、思わず手が伸びる。

 

 

ボイマンス美術館「大きな魚は小さな魚を食う」

 

 

また「農民画家」と呼ばれるブリューゲルの、民衆の様子を細密に表現した版画も興味深い。市民がスケートを楽しむ様子は、一目で「ブリューゲルの画風だ」と感じさせる彼独特の素朴さが表現されている。彼の作品から当時のフランドルの風俗や生活・仕事の様子をうかがう研究者が多いこともうなずける。

 

 

ボイマンス美術館「アントウェルペンのシント・ヨーリス門前のスケート滑り」

 

 

ヒエロニムス・ボスの「放浪者(行商人)」は、彼の代表作と言われるプラド美術館蔵「快楽の園」のようにたくさんの人物やモンスターが描かれた絵ではなく、一人の人物だけをクローズアップして描いており、より寓話の意味を考えさせる構図になっている。絵の形は円形で、額縁は八角形、一見ボスの画風に見えないかもしれないが、人物の顔の表情は無垢な目が特徴的で確かにボス的な表情だ。

 

一辺が1mもないであろう小さな絵だが、惹きつけられるように立ち止まって見つめてしまう。この時代の画家は寓話をモチーフに描くことが多いが、「意味を考えさせる」描写はボスが特に長けていると思う。

 

 

ボイマンス美術館「放浪者(行商人)」

 

 

ブリューゲルもボスも、特に油絵は現存作が非常に少ない。今回の日本での“出開帳”は、ボイマンス美術館の新館建設に伴い実現したもので、身近に鑑賞できるいい機会となる。

 

オランダの美術館は、レンブラントの「夜警」があるアムステルダムの国立美術館、フェルメールの「葵ターバンの少女」があるハーグのマウリッツハイス美術館がよく知られるが、ロッテルダムのボイマンス美術館もぜひ訪れてほしい。中世から近代まで秀作が網羅されている。

 

特におすすめしたいのが「エマオの人々」。この作品は20世紀で最も巧妙な贋作者として知られるハン・ファン・メーヘレンの作品で、フェルメールの未発見作として世に出され、当時のフェルメール研究者たちが本物と鑑定したことから、ボイマンス美術館が購入した。しかしメーヘレンが自らの贋作であることを告白したことから発覚したが、現在もメーヘレンの作品として展示され、公式サイトにも事の次第が説明されているのには感服する。フェルメールの画風に見えないようで見える不思議な描写で、最初から贋作として世に出されたのであれば、見事な芸術として成立すると感じる。

 

 

ボイマンス美術館「エマオの人々」

 

 

 

 

 

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館(画像は公式サイトより)

 

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

 

ブリューゲルを学ぶには最適

(朝日新聞出版)

 

 

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

Museum Boijmans Van Beuningen

公式サイト http://www.boijmans.nl/en/

 

 

 

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仏教が伝えた文化のすばらしさがとてもよくわかる ~龍谷ミュージアム

2017年07月08日 | 美術館・展覧会

龍谷ミュージアム 正面のすだれ

 

龍谷ミュージアムは、浄土真宗本願寺派(西本願寺)が江戸時代初期に設立した僧侶の教育機関を源流とする「龍谷大学」が設立した博物館だ。西本願寺と堀川通をはさんで向かい合う建物は、巨大なセラミック製の簾(すだれ)が正面を覆っている。京都の景観にマッチするランドマークとしてミュージアムの存在感を主張するとともに、館にまともにあたる西陽を遮って館内温度の上昇を抑える最新テクノロジーとしても機能しているという。

 

西本願寺は、親鸞聖人以来の浄土真宗の数多くの至宝を受け継いでいるが、展示コンセプトは浄土真宗だけにこだわらず、インド以来の仏教全体の歴史や文化を紹介することを基本としている。館や龍谷大学・西本願寺の所蔵品を展示する常設展と、年数回の特別展・企画展を交互に開催しており、展示品の解説が上手であることもあって、仏教がもたらした文化のすばらしさに興味深く触れ合うことができる。

 

また開館が2011年と新しいこともあり、高い天井や落ち着いて見やすい照明など、鑑賞のしやすさは京都のミュージアムの中でもトップクラスだ。快適な鑑賞の両輪となるハードとソフトが両立している素晴らしいミュージアムである。

 

特別展・企画展は、室町時代から一貫して日本有数の宗教勢力である西本願寺に伝わる国宝など、日本美術の秀作を鑑賞できる機会が少なくないので注目に値する。2016年秋と2017年春には、西本願寺が所蔵する国宝で、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の肖像画である「鏡御影(かがみのごえい)」と「安城(あんじょうの)御影・副本」がそれぞれ約1週間ずつ公開された。

 

「鏡御影」は親鸞聖人の最も古い肖像画であり、鏡に映したように写実的に描いているとされることからこの名がある。神護寺の伝・源頼朝像に代表される「似絵(にせえ)」が流行した鎌倉初期の作品であり、作者も長年この伝・源頼朝像の作者とされてきた藤原隆信の孫と伝わる。少し吊り上がった眉と引き締まった口元が繊細な線で表現されており、聖人の意志の強さが伝わってくる。

 

西本願寺蔵 国宝・鏡御影

 

 

「安城御影・副本」は聖人83歳の頃の姿の肖像画である「安城御影・正本」を模写したもので正副とも国宝だ。こちらのお顔も眉が吊り上がって口は引き締まっており、鏡御影の頃より齢を重ねていることから、より布教者としての円熟味と尊厳を増した表情をうかがうことができる。鏡御影とともに信仰の対象として強いオーラを感じさせる秀逸の作品だ。

 

親鸞聖人が生きた鎌倉初期は、浄土宗・日蓮宗・禅宗といった新たな仏教宗派が勃興した時代で、武家や庶民に仏教が浸透を始めた時代である。知識人が集まる仏教寺院は引き続き文化の担い手の大きな柱であり、仏教寺院のパトロンが武士に広がったことで、日本文化は新たな時代に入っていくことになる。親鸞聖人は、文化的側面でも新たな時代を切り開いた偉人であることは間違いない。

 

鏡御影/安城御影とも、今後も数年に1回でごく短期間しか公開されないと思われる。しかしこのミュージアムは他にも、西本願寺蔵の国宝で三十六歌仙の和歌集の平安末期の写本「三十六人家集」が公開されることもある。興味深い展覧会開催時期に都合が付けばわざわざ訪れる価値がある。

 

 

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

 

 鏡御影や黒書院など、めったに公開されない国宝の画像が完璧!

(別冊宝島)

 

 

龍谷ミュージアム

http://museum.ryukoku.ac.jp/index.php

休館日 月曜日、年間の2割程度の展覧会非実施期間

(例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください)

 

 

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岩崎家は「知の殿堂」を残してくれた ~東洋文庫ミュージアム

2017年04月01日 | 美術館・展覧会

東洋文庫のモリソン書庫、とても美しい

 

東洋文庫は東京・駒込にある世界トップクラスの東洋学の研究図書館で、三菱財閥の三代目・岩崎久彌(創設者・弥太郎の長男)が1924年に設立した。タイムズ記者だったモリソンが収集した膨大な中国文献コレクションの購入をきっかけに、広くアジア全般の歴史や文化を研究する東洋学の文献を収集し、国宝5点、重要文化財7点を含む蔵書が現在は100万冊に達する。

 

図書館として文献は誰でも閲覧できるが、2011年にオープンした「東洋文庫ミュージアム」では貴重書を楽しめる面白い展示を行っている。

 

展示エリアで最初に目に飛び込んでくるのは「モリソン書庫」。モリソンの北京の自宅書庫を再現したもので、二階まで吹き抜けの本棚が部屋の三方を取り囲み、本物の貴重書がびっしりと並んでいる。本を手に取って閲覧することはできないが、整然と並ぶ本の多さと棚の高さはまさに圧巻である。特に男性は、子供の頃に博物館の入口でこれから何が見られるかワクワクした気分を感じるだろう。

 

解体新書、東方見聞録、史記、好色一代男といった誰もが一度は聞いたことがある貴重書が、作品保護のために入れ替えしながら順次展示されている。普通の博物館の解説パネルにはない、作品の特徴を一言で表したキャッチコピーがここの売り物で、どのコピーが読む気にさせるか、比べてみても面白い。英文の解説も非常にしっかりしており、外国人のお客様を案内しても安心だ。

 

収集と運営には岩崎家の財力が大きく貢献したが、終戦直後に大きな危機を迎えることになる。財閥解体のあおりで文庫の経営を支援できなくなり、貴重な蔵書が散逸の危機に瀕したのだ。

 

この危機を救ったのが、当時の文庫の理事長で、終戦直後に首相を務めた幣原喜重郎。彼は東洋文庫を、岩崎家のもう一つの文化遺産の宝庫である静嘉堂文庫とともに、国会図書館の支部として国の管理下におくよう働きかけ、運営は安定するようになった。

 

終戦直後は「財産税」支払いのために、美術品が大きく散逸した時代でもある。最高税率が90%にも達したため、納税のための売却が多発したのだ。明治維新後の寺や大名家からの売却ラッシュと並んで美術品が大きく流通し、数多くの日本や世界の美術館が現在の充実したコレクションを形成できたのは、この2回の時代の急変によるものが大きい。

 

岩崎家は戦前に、所有する文化財を財団法人化した東洋・静嘉堂の両文庫に移していたため、財産税による散逸を免れている。美術品は富裕層の道楽として身近に置くものであり、美術館で公開したり恒久的に安全に保管したりする考えが希薄だった時代に、先見の明があったのだ。

 

ワシントンDCのナショナル・ギャラリーを創設した銀行家メロン、大原美術館を創設した紡績王の大原孫三郎。岩崎久彌と同世代の実業家には、著名な美術館のコレクションに貢献した人が多い。かけがえのない文化財を今に伝えた彼らの行動には感服する。

 

岩崎久彌とモリソン(東洋文庫ミュージアム)

 

文庫の中庭はシーボルトの植物図鑑に掲載されている花や木が季節を楽しませてくれる。奥のカフェは岩崎家が所有していた小岩井農場直営で、美しい中庭を見ながら農場の味を楽しめる。また文庫の目と鼻の先には柳沢吉保の屋敷跡である「六義園」がある。実はこの園も、一時岩崎家の所有となり、久彌が東京市に寄付したものだ。ぜひ一緒に立ち寄ってほしい。

 

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

 

 

 三菱財閥は、岩崎弥太郎を継いだ弟の弥之助以降の久彌、小彌太までの三代で、

大きな信用と財産を築いたかがよくわかる。

歴史作家の著者・河合敦氏の文章は読みやすい。

(幻冬舎新書)

 

 

休館日 火曜日(例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください)

公式サイト http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/museum_index.php

 

 

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井伊の殿様は絶品コレクター ~彦根城博物館

2017年03月18日 | 美術館・展覧会

彦根城の美しい中堀

 

 

彦根は、西国や京の都から東国へ入る交通の要所である。関が原で勝ったものの、秀忠率いる本隊が戦に遅参したことで西国をほとんど豊臣恩顧の大名に与えざるをえなかった徳川家康は、徳川四天王と言われた重臣の中から井伊家にその地を託した。以来、井伊家は幕末まで彦根を治めることになる。

 

関ヶ原の戦い以前から徳川に臣従していた譜代大名の中で、江戸時代を通じて一度も領地替え(転封)や改易がなかった大名は井伊だけである。関ヶ原の戦い以後に徳川に臣従した外様大名でも前田・島津・毛利などだけでほとんどいない。

 

また井伊家は幕府の中で、現在で言う首相である「老中」だけでは難儀する一大事に臨時に設けた「大老」を出せる譜代大名四家の一つで、幕末の井伊直弼(なおすけ)はあまりによく知られている。石高も30万石で御三家の水戸徳川家35万石と大差ない。

 

井伊家はこのように、江戸時代を通じて築き上げた「血統」は、数ある大名の中でもトップクラスである。ここまで井伊家を持ち上げるのは家の格を評価することが本意ではない。多くの秀逸な文化財が伝えられていることを評価したいのが本意だ。

 

井伊家が伝えた文化財は「彦根城博物館」で管理・公開されている。国宝の天守閣のそばに表御殿を復元して1987年に建設されたもので、博物館としての機能以外に、茶室や庭園・能鑑賞も楽しめる。

 

コレクションの目玉は何といっても国宝「彦根屏風」だろう。江戸時代の絵画の中でも私にとって1,2を争うお気に入りの絵だ。

 

彦根城博物館 国宝・彦根屏風

 

江戸時代初期の寛永年間1630年頃、京都の三筋の遊里(1641年島原への移転前)の様子を描いたもので、市民の日常を描いた風俗画の傑作であり、浮世絵の源流と考える人も少なくない。作者は狩野派の誰かとみられているが、一時は岩佐又兵衛とする説もあった。

 

江戸時代初期の遊里は、時代劇のイメージが強い江戸時代後半の吉原遊郭とは異なる。富裕層がウィットに富んだ会話や恋愛ゲームを楽しむ文化サロンであり、今でいうと会員制の高級クラブに近い。客の男性は高額の料金を払って遊里の女性と対面する権利を買い、女性のお眼鏡にかなうよう自分の教養レベルをアピールした。

 

双六、三味線、煙草、洋犬のペット、恋文、といった当時のサロンで人々が最先端文化を饗する様子が赤裸々に表現されている。一方、俵屋宗達の風神雷神図屏風とも共通するが、この時代の屏風絵の特徴として背景が金地一色で何も描かれていない。それが逆にモチーフとなる人物の動きを際立たせている。

 

「彦根屏風」を入手したのは、直弼の兄で一代前の藩主・直亮(なおあき)。彦根城博物館に伝わる井伊家伝来品は多くは直亮が収集したものだ。直弼は藩主になってすぐ黒船来航に対処する幕府要職についたまま桜田門外の変で落命し、藩主在位期間としても10年に過ぎない。一方、直亮は在位期間が38年と長く、大名風流を吸収する時間に直弼より恵まれていたことは否定できない。

 

彦根は、隣町の長浜と並んで、いにしえの街並みを観光資源として軌道に乗せた成功例として、全国的に知られている。ふなっしー/くまモンと並ぶ全国レベルの知名度の「ひこにゃん」も、彦根の街の盛り上げに引き続き頑張っている。「ひこにゃん」を見ると、井伊の殿様は彦根の人たちに愛されていると感じる。

 

ひこにゃんパフォーマンス

 

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

 

 彦根城内にある滋賀県の名門・彦根東高校出身の田原総一郎氏が、

井伊家が続いた知恵を熱く語る。

(プレジデント社)

 

 

彦根城博物館

http://hikone-castle-museum.jp/

原則休館日 展示替え期間

※日本画を中心に所蔵作品には展示期間が限られているものがあります。訪問前にご確認ください。

 

 

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人々の生きる力を最初に如実に表現した男 ~福井県立美術館 岩佐又兵衛展

2017年02月11日 | 美術館・展覧会

福井県立美術館 岩佐又兵衛展

 

 

2016年の夏に福井県立美術館で「岩佐又兵衛展」が開催された。

 

岩佐又兵衛は、安土桃山時代から江戸初期にかけ、日本美術が空前の繁栄期を迎えた時代の代表的な絵師の一人だが、その生涯はかなり異色である。

 

織田信長が長篠の戦いで東の武田氏を封じ込めた後、西に転じて羽柴秀吉が毛利攻めを始めた1578(天正6)年、又兵衛は信長の重臣荒木村重の子として生まれる。しかし誕生の翌年、父村重が突然信長に反旗を翻したことで数奇な運命を歩み始める。

 

村重は籠城中になぜか嫡男と小人数の家来だけを連れて城を抜け出した。大将が籠城中の城から抜け出すとは前代未聞であり、毛利に援軍を求めに行ったとされるが真相は定かではない。城に残された村重の家族や一族郎党は、信長によって女子供も処刑される。しかし又兵衛は、乳母の手によるとされるが密かに城から連れ出されて石山本願寺に匿われ、成長した。

 

武士ではなく絵師を志し、母の旧姓と言われる岩佐を名乗り、「勝以(かつもち)」の名で京都で活動を始めた。大坂の陣の前には絵師として一定の評価を得ていたと考えられ、2016年に国宝指定された東京国立博物館蔵「洛中洛外図屏風(舟木本)」は、その頃の作品とみられている。

 

東京国立博物館 洛中洛外図屏風(舟木本)

 

洛中洛外図屏風で国宝指定されているのは、他には米沢市上杉博物館蔵の上杉本だけで、上杉本の方が古い。信長が足利義昭を奉じて京都に入る直前の1560年代前半の様子を狩野永徳が描いたものだ。

 

舟木本の方が50年ほど後になるため、二条城など建物も現在に残るものが多く、長い戦乱からの解放感を爆発させるように街や庶民の様子をいきいきと描いている。登場人物は総勢2,500人、歌舞伎や祇園囃の賑わい、遊郭の男女の狂態など、人物の動きや表情の描写のリアルさから、当時の京の都の繁栄が映画を見ているように伝わってくる。

 

「浮世又兵衛」「浮世絵の祖」という呼び方をされるのは、貴賤にかかわらず人間の瞬間の感情をも如実に伝えるエネルギッシュな描写が、非常に個性的だからであろう。

 

舟木本の制作の後、又兵衛の人生に転機が訪れる。福井藩の御用絵師として招かれ、福井で多くの秀作を残すことになった。

 

福井の豪商に伝わっていた「金屋屏風」もその一つ。現在は分割されて福井県立美術館などに分蔵されているが、龍や虎、中国の故事、伊勢物語のような日本の古典が、一面毎に個別に描かれており、屏風としてのモチーフの連続性はない。しかし一汁三菜の御膳のように、並べてみるとバランスは悪くない。しかも人物の顔は又兵衛特有の豊かな表情を伝えてくれる。元の屏風に戻せるものなら、ぜひ見てみたい。

 

福井県立美術館 金屋屏風(岩佐又兵衛展)

 

山中常盤物語絵巻(MOA美術館蔵)のような絵巻物も、又兵衛ワールドの代表作である。物語中の殺人のドラスティックな様子など、伝統的なやまと絵の絵巻物とは一線を画している。

 

MOA美術館 山中常盤物語絵巻

 

又兵衛とほぼ同世代の芸術家に、俵屋宗達と本阿弥光悦がいる。大坂の陣後に京都で絶頂期を迎えた寛永文化のスーパースターで、都の優雅さと繊細さを表現して、又兵衛とは違った魅力を今に伝えている。

 

長い戦乱の世から太平の世へと急激に転換した時代には、時代のニーズをかぎ取ってそれぞれの個性でかぐわしく表現した芸術家たちがたくさんいたのだ。

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

 

 

 江戸時代の「奇想の画家」に詳しい辻惟雄氏が又兵衛の謎に切り込む。

ビジュアルが豊富で読み応えがある。

(文春新書)

 

 

※日本画は展示期間が限られています。事前にご確認ください。

 

福井県立美術館 http://info.pref.fukui.jp/bunka/bijutukan/bunka1.html

東京国立博物館 http://www.tnm.jp/

MOA美術館 http://www.moaart.or.jp/

 

※岩佐又兵衛展は福井移住400年を記念して福井県立美術館で2016年7-8月に開催されました。

 

 

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100万石大名が生き残る英知 ~石川県立美術館

2017年01月14日 | 美術館・展覧会

石川県立美術館


金沢という街に対して「和」のイメージを持たれる方が多いと思う。加賀100万石のお膝元で代々の藩主が文化の振興に努力し続けた結果、形成されたイメージであり、石川県にとって豊かな観光収入の石津江となっている。

前田家は外様大名であるが、関ヶ原の戦いで中立を保ったことで豊臣政権下の領地を安堵され、徳川御三家よりはるかに石高が多い最大の大名となった。前田藩が文化に力を入れ続けたのは、この巨大な藩ができた歴史と関係が深い。

徳川幕府の初期、徳川本家は400万石あったが、やはり100万石の財力を持ち、豊臣恩顧の大名である前田家を常に警戒していた。それがゆえに婚姻関係を結ぶことによって相互に安全保障を担保しようとしたのだろう、前田利家の四男で加賀藩2代藩主となった利常(としつね)は、2代将軍秀忠の娘を正室に迎えた。4代藩主の綱紀(つなのり)も、3代将軍家光の重鎮であった会津の保科正之の娘を正室に迎えている。

2代利常と4代綱紀は、徳川家に謀反の意思はないことを示し、信頼関係を構築するため「文化」に力を入れた。財政に余裕があるときは文化に金を使う“散財”を行い、謀反に備えた蓄財はしていないと示して徳川の警戒心を和らげたのである。この江戸時代初期の藩主による方向性の確立が代々受け継がれ、金沢の美しい街並みと金箔や九谷焼、漆器といったかけがえのない「和」の文化を残すことになった。

兼六園の近くにある石川県立美術館には、前田家が収集した美術工芸品の専用展示スペース「前田育徳会尊経閣文庫分館」が設けられており、展示替えをしながら収集品を公開している。

前田家伝来品ではないが、野々村仁清作のキジを表現した焼物の国宝「色絵雉香炉」は、石川県立美術館の目玉展示だ。焼物なので公開制限はなく、原則いつでも鑑賞することができる。毛並みの質感や毛色の美しさが見事に表現されており、一級の美術品としての存在感を感じさせる。


石川県立美術館 国宝・色絵雉香炉


前田育徳会は、前田家の収集した文化財を管理する財団で、関東大震災で文化財を保管していた前田家の屋敷の土蔵が危うく焼失しかけたことに危機感を持った16代当主の利為(としなり)が1926年に設立した。日本において、個人が所有していた文化財を永続的に管理していくために公益法人化したはしりである。

同じ頃に公益法人化した尾張徳川家の尾張徳川黎明会とともに、第二次大戦直後に財閥解体のため課された財産税支払いのための美術品売却により生じるコレクション散逸を回避したことが、今となっては大きな意味がある。コレクションはまとまって管理されているほど、公開しやすく(=鑑賞しやすく)なるからだ。

2代利常の正室・珠姫は、後水尾天皇の中宮(=天皇の正室)で、都のファッション・リーダーとして尾形光琳の実家の呉服商・雁金屋を取り立てた和子(まさこ)の姉である。利常の娘・富姫は、八条宮智仁(としひと)親王から継続して桂離宮を造営した智忠(としただ)親王の妃となった。利常は当時の日本の最先端である都の文化を潤沢に吸収できる立場にあったのだ。

こうした立場にあったからか、茶道の裏千家の祖・千宗室が利常に仕官することになり、前田家の茶道のリーダー役となった。俵屋宗達の後継者とされる俵屋宗雪を金沢に招聘し、前田家の御用絵師にもしている。まさに最先端文化を吸収する環境を整えた藩主であった。

在位期間が78年に及んだ4代綱紀は、兼六園を造営した。また日本の中世史の記録として一級品の価値がある京都の当時に伝わる「百合(ひゃくごう)文書」の整理・保管に資金提供したように、古文書や古典籍の収集に尽力した。国宝指定されている日本書紀や万葉集、土佐日記の写本は、現代の日本史の一級資料になっている。岡山藩の池田光政とともに、江戸時代前期の名君として名高い。

東京大学の本郷キャンパスは、加賀藩上屋敷の跡地であることはご存知の方も多いだろう。早稲田や慶應・三田、京大・吉田キャンパスと比べても、東大・本郷キャンパスはその巨大さに驚く。大名屋敷としてはトップクラスの大きさで、その巨体を維持管理できる財力があったことがわかる。ちなみに加賀藩筆頭家老本多氏は5万石の禄があり、1万石で「大名」と言われた時代に、スケールの違いが分かる。

文化財・芸術品は、潤沢な資金を提供できる“パトロン”がいないと、なかなかできてこない。前田家は持てる経営資源の中から文化へのパトロン力を重視し、家を継続させようとした。400年前の経営判断が現代でも評価される稀有な歴史の事実だと思う。

4代綱紀と在位期間がほぼ同じで、国の最盛期を作り上げ、文化的な功績を残した名君が、この時代には多い。中国・清の康熙帝、インド・ムガール帝国のアウランゼーブ、ロシアのピョートル大帝、フランスのルイ14世、現代に残る素晴らしい文化財で彼らの時代にできたものは少なくない。


日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。
「ここにしかない」名作に会いに行こう。







直木賞作家が利常から綱紀までの前田家三代の生き様を描く

(文春文庫)上中下3巻




石川県立美術館
休館日 展示替え期間、年末年始(例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください)
公式サイト http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/

 

 

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揃ってお会いできるのは面白い ~日韓それぞれの半跏思惟

2016年12月10日 | 美術館・展覧会


仏像はアジアの各地に数多く伝わっており、その表情はその国の民族の特徴が表れていることが多く興味深い。中でも朝鮮半島の仏像は、日本に仏教や仏像を伝えた国であり、日本の仏像とよく似ている。

仏教は飛鳥時代の538年(557年説もある)、欽明天皇の治世で聖徳太子が活躍する約半世紀前、朝鮮半島南東部を支配しヤマト政権と親密であった百済(くだら)から伝わったとされる。百済から仏像や経典を携えた使者が、大阪(難波津)から大和川を船で上り、大陸からの使者や物資の船着場だった奈良県桜井市の金屋に上陸したと推定される場所に、「仏教伝来の石碑」が建てられている。

その石碑の近く飛鳥寺には、飛鳥時代の渡来人仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)が日本で制作したという日本最古の仏像が伝わっている。この飛鳥寺・釈迦如来像や法隆寺・釈迦三尊像は、頬がふくよかでなく目には玉眼がないことが特徴で、現在朝鮮半島で確認できる同時代の仏像とほとんどそっくりだ。

日本と朝鮮半島の仏像に並んで見比べながらお会いできる機会は非常に少ない。上野の東京国立博物館の東洋館に朝鮮半島の仏像が展示されているが、日本の仏像は本館に展示されているので直接見比べることはできない。

並んでお会いできる機会がないかと思っていたところ、日韓の国宝仏像を並列展示される展覧会が、両国の国交正常化50周年を記念してソウルと東京で開催される情報をキャッチし、驚いた。日本代表はアルカイックスマイル(微笑)の表情で著名な奈良・中宮寺の日本国宝・菩薩半跏像、韓国代表はソウルの国立中央博物館蔵の韓国国宝78号半跏思惟像、いずれも両国を代表する非常に著名な仏像だ。

韓国の国宝78号像は6世紀(日本の飛鳥時代)、日本の中宮寺像は7世紀後半の作で、時代がやや異なる。両者を見た第一印象は似ているようには感じない。韓国の国宝78号像は日本の中宮寺像よりも、大阪・藤井寺の野中寺(やちゅうじ)の釈迦如来像にそっくりだ。しかしこの時代の仏像表現の特徴であるアルカイックスマイルを見比べると、作った仏師の表現力の豊かさと時代のニーズが伝わってくる。

日本の中宮寺像は「控え目で清楚な」微笑をしている。外国人が見れば意思表示がわからないかもしれないと思えるほど微妙な笑みである。制作当初はあでやかに彩色され宝冠をのせていたと分析されているが、今は木造に下地として塗られた漆が黒光りしている。その黒の存在感が控え目な表情と交わって、中宮寺像の中性的で神秘的な魅力を絶妙に形作っている。朝鮮半島の様式ではなく白鳳時代に見られたような日本独自の表現を追求して作られたもののように思う。

韓国の国宝78号像は「伏し目がちだが微笑んでいることがわかりやすい」表情だ。日本の等身大以上の大きさの金銅仏では多くないと思うが、体の線が細く、頭部は胴体に比べ大きい。そのため微笑みの表情がはっきりとわかる。微笑みには母親のような包容力があり、光の当たり方によって金属特有の微妙な色の変化があり、一層表情を豊かにさせる。

ソウルの韓国国立中央博物館は、米軍基地の跡地に2005年に移転・新設されたもので、展示フロアは非常に大きい。延床面積は、韓国国立中央博物館137,000㎡、東京国立博物館合計68,787㎡と二倍違う。常設展示作品は非常に多い。展示解説パネルは韓日中英の四か国語が完備、掲出数も多く、韓国の文化を理解するためには非常に親切だ。

上野の東博なら法隆寺館や東洋館を含めても全部見るのに1日で済んでしまうが、ソウルの国立博物館は全部見るのに1日では足りない。この要因は展示作品の量や質の問題ではなく、展示解説パネルの違いが大きい。いかに鑑賞者に楽しんでもらおうとしているかのマーケティング努力の差だ。東博で日本美術を常設で展示する本館は、両端の壁にガラスディスプレイが並んでいるだけという旧式感は否めず、床面積も小さいため、国家を代表する博物館・美術館としては貧弱である。

またソウル国立中央博物館は常設展が無料。文化の紹介に対する国家としての財政的取り組みの違いが大きい。インバウンド市場の近年急速に伸びているが、東博や京博に本物の日本美術を見たいと思ってやってきた外国人は、がっかりして帰ってしまうことも多いのではないか。

飛鳥時代の6~7世紀はムハンマドがイスラム教を起こし、イスラム帝国が急速に版図を広げていた。中国では隋が長い分裂時代に終止符を打ち中国を統一、朝鮮半島でも新羅が初めて朝鮮半島に統一国家を樹立、アジアの各地で新しい文化が芽生える安定国家があらわれた時代であった。

両像とも常設展示されており、奈良・ソウルを訪れる機会があれば是非会いに行かれることをおすすめする。

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。
「ここにしかない」名作に会いに行きましょう。

休館日 なし(例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください)
公式サイト
 韓国国立中央博物館(日本語版)https://www.museum.go.kr/site/jpn/home
 中宮寺 http://www.chuguji.jp/

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600年前の最先端芸術「禅画」 ~慧可断臂図と瓢鮎図

2016年12月03日 | 美術館・展覧会


2016年の春と秋、京都と東京のそれぞれの国立博物館で、禅宗美術の最大級の展覧会が開かれた。

水墨画など、作品保護のために公開されることが少ない傑作が目白押しで、室町時代の日本美術に大きな影響を与えた「禅」が表現する「かたち」には、時間がたつのを忘れて見つめ続けてしまう。

日本人なら老若男女、誰でも親しみを持つ「達磨(だるま)」の由来が何であるかは、案外知られていないと思う。

今から約1,500年前の中国、隋が統一する前の南北朝時代にインドから中国に禅宗を伝えた高僧で、中国禅宗の開祖である。日本の禅宗寺院でも玄関に達磨の絵が飾られていることが多いように、禅宗にとっては最も尊敬すべき開祖なのである。

この達磨を描いた作品も多数、出品されている。室町時代の水墨画のスーパースター雪舟による国宝「慧可断臂図(えかだんぴず)」は、なかなか入門を認めてもらえなかった慧可(えか)、開祖に次ぐ二祖となる、が自らの腕を切り落として決意を示し入門を求めたシーンを描いたもの。

壁に向かって座禅する達磨の表情は微動だにせず、背中で慧可の決意を受け止めている。慧可の表情は、腕を切り落とした苦痛というよりも、入門を嘆願するゆるぎない決意を感じる。強い決意がぶつかり合う絶妙の一瞬が表現されており、その強い緊迫感に目を奪われる。

雪舟でよく知られる作の多くは風景画であり、人物を大きく描いた作は多くないからか、なおさら張り詰めた雰囲気に息をのむ。

次に一休さんの逸話でよく知られる禅問答を描いた作品を紹介したい。妙心寺退蔵院が所蔵する国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」だ。室町時代前期の画僧如拙(じょせつ)の代表作で、現存する最古級の水墨画である。

室町幕府4代将軍足利義持は「丸くつるつるすべる瓢箪(ひょうたん)で、ぬるぬるの鯰(なまず)を押さえるにはどうすればよいか」という禅問答を描かせた。絵には瓢箪を持つみすぼらしい男と鯰が描かれているだけで、絵から禅問答の答えはわからない。

絵の上半分にある当時のトップクラスの高僧30名による「賛=絵に対する一筆コメント」の中に各僧の答えが述べられている。しかしこの絵を見る者に「お前ならどうする?」と問いかけているオーラを感じる。

作品の経緯を知らずに初めて見た場合は、何を表現した絵なのかはさっぱりわからない。これこそが禅の世界を表現したものであろうが、当時の「知的な遊び」を表現したようにも見える。実に不思議な絵であり、禅宗美術の奥の深さをあらわす代表例だろう。

瓢鮎図が描かれた1410年ごろは、室町幕府の権威はまだ保たれており、安定した時代であった。中国では明がもっとも繁栄した三代永楽帝の治世で、現代でも広く知られる「三国志」「水滸伝」「西遊記」といった小説が成立した頃である。日本とは勘合貿易が始まり、日本からの中国文化への憧れが非常に強い時代であった。

日本の禅宗美術はある意味、中国文化への憧れを形にしたものであろう。今から600年前の最先端アートが「禅」だった。

日本や世界には数多くの
「唯一無二」の名作がある。

「そこにしかない」名作に
ぜひ会ってみてください。


休館日 月曜(例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください)
公式サイト http://zen.exhn.jp/
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書には時代の嗜好が表れる ~国宝になった空海の手紙

2016年11月26日 | 美術館・展覧会
私は正直「書」という芸術作品には関心が薄かった。なので寺や美術展で展示されていてもじっくりと見つめたことはなかった。

ある時、大阪市立美術館「書聖たちの傑作、大阪に集結! 王義之から空海へ-日中の名筆 漢字とかなの競演」という展覧会のニュースを目がとまった。なぜか惹かれたのでじっくり見てみると、出品作には歌人や僧など名筆家で著名な名前がずらり、国宝も連発だった。

これだけの作品を集められるのは、主催者の努力の賜物と作品を貸してもらえる信用と権威があってのことだ。書は展示耐久性が弱く公開される機会は少ないこともあり、これは見に行く価値があると感じた。

展覧会場は、西洋画よりも照明を落とすことが多い日本画よりもさらに暗く、主催者の繊細な配慮を感じた。今回の出品作の中でも一番人気と予想していた空海の最高傑作と言われる出品の前は、予想通り人だかりが多かった。

東寺所蔵の国宝「風信帖(ふうしんじょう)」は空海が最澄に送った手紙で、最澄が比叡山に登るよう誘ったことへの返答である。神護寺所蔵の国宝「灌頂歴名(かんじょうれきめい)」は、空海が高雄山寺(=今の神護寺)で灌頂を授けた人のリストである。

平安時代初期、空海は嵯峨天皇・橘逸勢と共に「三筆」といわれ字が上手い能書家として知られている。さぞかし流ちょうな文字を書いているのかと思いきや、第一印象は全く異なった。

字が上手いというより下手、各文字は斜めに歪んで書かれており、縦にまっすぐ揃っていない。字の大きさもばらばら。酷評していることになるが、よく見ると各文字が太くて力強いことに気づいた。

日本の書は漢字でも仮名でも文字の線が細いのが通常であるため「細い線がきれい」という思い込みかもしれないと感じた。

会場内で王義之に代表される中国の書家の作品を見ると、日本の書家より線が太く、しっかりと書かれたものが多い。また日本の書家の作品は縦にまっすぐに揃えて文字が書かれているが、中国は違う。空海と同じく文字が斜めに歪んでおり、縦にまっすぐでなく、文字の大きさもバラバラ。

空海は当時の日本人にとって憧れだった中国風をストレートに表現し、読み手をあっと驚かせたのではなかろうか。中国では常識だった書聖・王義之の書風を忠実に再現しているそうで、非常に力強くすごみを感じさせる。最新流行の中国文化を体験して知っているほんのわずかのスーパースターだからこそ表現できた書風なのであろう。



空海が唐に留学した頃は、唐の国力はすでに衰えていた。ヨーロッパは西欧をほぼ統一したカール大帝の治世だが安定は長く続かなかった。

アラブではイスラム帝国の首都バグダッドが東西交易の中継地として空前の繁栄期を迎えていた。アラビア数字や十進法、ゼロの概念といった現代科学の最も基本的な世界共通ルールが芽生え、説話集「アラビアン・ナイト」が成立した時代であり、まさに世界文化の中心であった。

ヨーロッパは大航海時代を迎えるまでイスラム文化に従属することになり、イスラム文化は長らく世界最先端を保ったのである。

日本では、空海から時代を下ると、遣唐使が途絶えることもあって国風文化の時代となり、いわゆる「まっすぐに書かれた細い線がきれい」という時代になる。

小野道風(おののみちかぜ)・藤原行成(ふじわらのゆきなり)・紀貫之(きのつらゆき)といった著名な能書家・歌人の作品は空海の作品とは全く印象が違う。漢字がなく仮名がほとんどという文字そのものの違いがあるが、仮名という日本人が独自に作った文字で日本人の心を表現しようとしたのだろう。

日本と中国、文化の違いの面白さを「書」という未知の芸術を通じて明確に感じることができた展覧会だった。書は公開の機会が少ないため、展覧会情報をキャッチした時はぜひ会いに行ってください。

日本や世界には数多くの
「唯一無二」の名作がある。

「そこにしかない」名作に
ぜひ会ってみてください。


展覧会は2016年4~5月に開催されたものです。展示作品は会期中6通りにわたって入れ替えられています。本執筆は2回の鑑賞をまとめたものです。
公式サイト http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/ogishi-kukai
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見たこともなかった南蛮人を豊かに表現 ~ザヴィエル像と南蛮屏風

2016年11月19日 | 美術館・展覧会
教科書などで誰もが見た記憶のある有名な南蛮美術の作品「聖フランシスコ・ザヴィエル像」が神戸市立博物館で年に一回程度、不定期ながらも公開されている。

江戸時代初期1613年に幕府からキリスト教禁教令が出された後、ザヴィエルが聖人に列せられた1622年以降に描かれたものと考えられている。

大阪府茨木市の隠れキリシタンだった旧家で永年眠っていたものが大正時代になって発見され、神戸の南蛮美術コレクターであった池長孟(いけながはじめ)が別荘を売ってまでして入手、戦後に神戸市に譲られた。

長らく櫃の中で眠っていたからか、発色が非常によく美しい。ザヴィエルや天使は西洋人の顔つきで描かれているが、西洋絵画のように立体感を強調する表現はなされておらず、不思議な印象を受ける。江戸時代の洋風画によく見られたケースだが、西洋の書籍の挿絵の版画を模して制作されたと考えられているのはこのためだ。

しかしザヴィエルの表情そのものは、非常に慈愛にあふれている。仏教でいえば「悟りを開いた」ように見え、落ち着いており親しみを持てる。信者が祈りをささげる対象として、実に絶妙な表情をしているのである。

神戸市立博物館は、池永コレクションによる南蛮美術が素晴らしい。

日本では100点ほどの南蛮屏風が確認されている中で、鮮やかな色彩、精密な描写、落款が残り作者がわかる、の3点で、館の所蔵する狩野内膳作「南蛮屏風」はトップクラスの作品であろう。南蛮人や日本人の服装、象や洋犬のような当時の日本人はほぼ見たことがない珍獣など南蛮船が入った港の活気が実に豊かに表現されている。

洛中洛外図の南蛮貿易港バージョンといえばわかりやすく、戦国時代が終わって都市での生活を楽しむことができるようになった喜びを、こぞって絵にすることが当時は流行したのであろう。

作者の狩野内膳は秀吉に登用された絵師で、狩野家との血縁関係はない。肥前名護屋城の障壁画制作に参加した後に長崎に赴いたことが、南蛮屏風の豊かな描写に生かされているのだろう。他の代表作に豊国神社の「豊国祭礼図屏風」がある。この作品も町衆の風俗表現が素晴らしい。

紹介した二作はいずれも重要文化財だが、近いうちに国宝になっても納得する人は多いだろう。



江戸時代初期、幕府から西洋で唯一交易を許されたオランダは、スペインとの独立戦争に勝利し、従来の中心貿易港だったアントワープから商人がこぞってアムステルダムに移ってきたことで、空前の繁栄期を迎えていた。当時貴重で人気のあったチューリップの球根が現在の貨幣価値で1個数千万円したという逸話で有名なバブル経済時代である。

1630年代にはレンブラントが売れっ子画家となり、「テュルプ博士の解剖学講義」「夜警」といった傑作を残した。レンブラントの作品の多くはアムステルダム市民からの依頼であり、当時の町の活気や様子がリアルに描かれている。

オランダでも日本でも、絵のクライアントは従来の宗教や政治権力者から富裕な市民層に広がりを見せたのがこの時代である。そのため町の様子を描いた風俗画が非常に多い。

西洋と日本の町衆の描かれ方の違い、一度じっくり見比べてみてください。東西の違いは面白いですよ。

日本や世界には数多くの
「唯一無二」の名作がある。

「そこにしかない」名作に
ぜひ会ってみてください。


展覧会は2016年4~5月に開催されたものです。
公式サイト http://www.city.kobe.lg.jp/museum/
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明治工芸への館長の愛情 ~清水三年坂美術館~

2016年10月25日 | 美術館・展覧会
東山の高台寺から山麓沿いに清水寺を目指すと、今やレンタル着物を着飾った世界中の観光客があふれ、京都を感じさせる街並みのでは一番人気であろう二年坂、(さんねいざか)と歩いていく。

美術館はこの産寧坂にあるのだが、館名は「三年坂」。「二年坂」の次は「三年坂」の方がわかりやすい?、「産寧坂」と「三年坂」は発音が似ている?、本当のところはよくわからないが、正式名称よりも有名になった別名「三年坂」を館名につけておられるので、マーケティングにも知恵を絞っておられると拝察する。

コレクションの明治工芸とは、当時の欧米人に日本の美術・工芸品が非常に受けが良かったため、輸出用・土産用に多く制作されたものである。明治の文明開化は日本人の関心をひたすら西洋文化に向かわせた。浮世絵や陶磁器、工芸品といった江戸時代後半以降に制作された美術工芸品は、日本国内では見向きもされなくなっていた。

江戸時代後半に高度に発達した工芸技術を持つ職人が大量に失業し、浮世絵も売れなくなって大量の在庫となったため、市場を欧米に求めた。その戦略は成功、質の高い美術工芸品はパリやロンドン、ニューヨークの古美術商で大変な人気を博したの。

明治工芸品はこのような事情で、浮世絵と同じく日本国内にはあまり残っておらず、日本製なのに日本人はあまり目にしたことがない美術品、ということになる。

日本人向けに作られた伝統工芸品にはない「リアルさ」。これが明治工芸品の大きな特徴であり、魅力だと思う。工芸品なので絵画とは異なり3Dで表現できることもあるが、初めて見た人の大半が「すごい!」「どうやって作ったの?」「現代の職人ならできないのでは?」と感じるだろう。

館長も明治工芸に魅了されたお一人で、欧米の古美術商を回ってコレクションを蓄積されている。個々のコレクションは他の美術館に貸し出されることが多く、その展覧会の際には「超絶技巧」という表現をよく目にする。

まさに「すごい!」であるが、それもそのはず、戦前まで宮内省がお墨付きを与えた美術家・工芸家である「帝室技芸員」として顕彰された並河靖之らの作家の作品がずらりと並んでいるのだ。

館では、蒔絵、七宝、金工等を中心に、一年ですべての作品を入れ替えるよう常設展の展示を工夫されている。また3か月ごとに企画展もされており、いつ訪れても新しい発見があるだろう。



明治初期1880年前後は、パリでは「ジャポニスム」と呼ばれた一大日本美術ブームが起こっていた。

日本美術をパリでブームにするのに大いに貢献したユダヤ人画商サミュエル・ビングがパリに日本美術商を開き、そこを訪れたゴッホが、歌川広重の名所江戸百景「亀戸梅屋舗」「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を描いた。モネが「ラ・ジャポネーズ」で着物を着た少女を描き、浮世絵や工芸品など膨大な数の日本美術が欧米に残されることになった。

海外“流出”という表現も見受けられるが、私は見向きもされない日本国内にあったとしたら、かえって失われていた可能性が高いので、よかったと思っている。欧米できちんと守り続けられたからこそ、現代にかけがえのない美しさを伝えてくれている。

館長はそうした中から一つ一つオーラを発する作品を集めていった。この館の明治工芸は館長の深い愛情に包まれている。

日本や世界には数多くの
「唯一無二」の名作がある。

「そこにしかない」名作に
ぜひ会ってみてください。

休館日 月・火曜(祝日開館)(例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください)
公式サイト http://www.sannenzaka-museum.co.jp/
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