【真人】
荘子は、理想的な人格者を「真人」と名づけました。真人は、精神の高みの象徴です。その精神は、鳥のように自由で、人間だけの狭い枠にとらわれず、万物の中で遊んでいます。万物とは、常に変化するものです。真人は、絶えず移り変わる現象世界に固執することがありません。運命随順的に、自然の流れに従って行きます。そのため、わざわざ自然の流れに逆らいませんでした。真人は、自然の本性を理解し、それを体現していきます。その心は、常に平静で、心配ごとがありませんでした。
【自然と道】
真人が模範とするものは、自然の働きです。自然に従う者は、むしろ自然を意識しません。 万物と調和し、その平衡に休息しています。真人とは、自身の存在を一個の自然現象とみなす者です。そのため、生に執着せず、ことさら生命を助長しようとしません。真人は、何ものにもとらわれず、ただ自然の流れに従っているだけです。生だからといって、特別に大事にせず、死だからといって嫌うこともありませんでした。そもそも生死は、一体だと考えているからです。ただ自然の流れと一つになって、その身を終えいきます。そのため、世間から離れいても孤独ではありませんでした。
真人は、道と完全に一致しています。道とは、必然的なものです。真人は、あるがままの自然の本性に従うので、運命に逆らったりしません。自然とは、自ずからそうなるものです。そこには、目的というものがありません。本来、万物には、対立差別というものがなく、等しく同じものです。荘子は、それを「万物済同」と言いました。
【現実世界】
現実世界にあるものは、一時的な借り物です。対立差別は、人間が決めたものにすぎません。物事は、基準があって初めて確定するものです。その基準がなければ、そもそも何も確かではありません。人間的な生活を営むには、社会という環境が必要でした。それを維持するために作られたのがルールです。ルールがあるからこそ、人間は生きていくことが出来ます。しかし、それは、人間の行為を制限し、型にはめるものです。そのため、人間社会のルールに従うことは、自然からは遠ざかってしまいます。
【知恵】
真人は、分別心を持ちません。何かを無理やり区別する気がないからです。真人は、すべての価値は等しいと知っているので、ことさら善悪の判断をしません。知識とは、自分の正しさを証明するためのものです。そのため、相手と競争になり、時には争いの道具にもなり得ます。なぜなら、知識とは、相手の間違いをはっきりさせるものだからです。
真人は、知識を必要としないので、博識ではありません。知識とは、考え方を固定化してしまうものです。考え方が固定化されると、自由ではなくなってしまいます。そのため、真人には、固定概念がなく、こだわりがありませんでした。真人の心の中には、知恵が勝手に集まってきて宿ります。真人の知恵というのは、自然に出来上がったものです。それを得るために、あれこれ思慮をめぐらせたものではありません。
【言葉】
真人は、言葉には頼りません。言葉には、限界があるからです。どんな言葉でも、真理を正しく言い表すことは出来ません。本来、すべてのものは等しいものです。それを言葉にしてしまうと等しくなくなってしまいます。言葉とは、むしろ真実を妨げるものです。そのため、真人は、口数が少なく、一見すると愚鈍に見えます。世間で賢いと言われている人のように、相手と議論をしたり、言葉で自分を飾り立てたりすることもありませんでした。