江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

東京・ヒロシマ子ども派遣団に参加して (2)

2014-04-07 | 随想
ヒロシマ子ども派遣団は、22次(通算31次)も続く平和教育・平和学習であるが、それを取り巻く社会状況は一気に厳しくなってきている。

 昨年夏からの「はだしのゲン」の閲覧禁止の動きや図書館からの撤去騒動、「アンネの日記」の破損など平和に対する冒涜的な動きもあった。
また「原爆の図丸木美術館」の見学も「南京大虐殺の図」があることを理由に、訪れる学校が激減しているという。
これは平和展示を自虐史観と決めつける政治家の圧力や攻撃があるからという。
広島への修学旅行も教職員や保護者が賛成しても、校長が認めない例も多いと聞く。

 さて、初日の学習は、原爆資料館の見学と9才で被爆した豊永恵三郎さんの話でした。
原爆資料館は、小中学生の親子連れや多くの外国人観光客で列をなし、熱心な見学でなかなか前に進めない混雑状況でした。
何度訪れても資料館の展示物には、初めて見たような気持ちで見ることが出来た。
豊永さんの話は被爆後、三日間家族を探し歩いた話や広島の街の惨状が語られ、原爆や戦争のない社会を願う「平和のバトン」を受け継いで欲しいと語ってくれた。

 二日目は①天神北組の碑の前で、生き残った証言者、山崎寛治さんの話を聞く。
爆風で吹き飛ばされ二日間も意識がなく、気がついたとき周りは黒焦げの死体だらけだったこと。
自分の親や兄弟、いとこなど19人の身内を亡くしたが、自分には小学校時代の友達が残った。
三人で毎週会っており、友達を大切にして欲しいと子ども達に語っていたのが心に残った。
平和公園内には、原爆ドームをはじめ慰霊碑や祈念の塔や像が59も有り、主なもの20近くを見て周った。

 午後からは、原爆養護老人ホーム「舟入むつみ園」の訪問・交流。
元気の無さそうな方でも、辛い体験を子ども達に語り伝える時は、気力に満ちており生き生きとした姿が見えた。
しかし、前回証言してくれた方の写真を持ってきて、元気かどうか訪ねて職員に渡したが、その方は四月頃亡くなったという。
明日とも知れない命を燃やして、子ども達に戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えたに違いないと思った。
被爆体験を伝える人も年々減少し、受け継いで伝える責任の重さを感じた。

 三日目は原爆投下された8時15分から、原爆慰霊碑前で慰霊式を行った。
黙祷・献花・慰霊の言葉・原爆許すまじの歌に、居合わせた観光客も共に参加しての慰霊式だった。

 最後は似島フィールドワーク。
似島は日清戦争後の軍隊の検疫所があった島。
原爆投下後に被爆者が1~2万人も運ばれ、救助や手当もされたが亡くなった人も数千人と云われている。
亡くなった方々の慰霊式を行い、弾薬庫跡や監視塔など戦争遺跡も見学した。

 最後に、安倍政権の戦争推進政策で平和な時代が壊されようとしている現在、「見て」「聞いて」「話し合い」二度と原爆投下や戦争を起こさない事を「伝えていく」、ヒロシマ平和学習の精神を継続していく必要性を強く感じた。  


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