日々の気付き

自分への提言

選択権

2016年02月21日 19時01分36秒 | 日記
 ある人が、次に何をするかを選択できる場合、そこには、「今」と行為との間に、思考という作業が必要になる。
 あれもできるし、これもできるけど、次はこれをしよう・・・。
 大自然界は、なんという無駄な事をするのだろうか?
 はじめから、人がすべき行為を決めてくれていれば、思考という無駄が省けるのに・・・。
 選択する自由を与えるという事は、だぶついたエネルギーを人に持たせる、ということに他ならない。
 いったい何のために・・・?

不満は全て誤り

2016年02月21日 18時55分25秒 | 日記
 誰が何に対して不満を感じようとも、不満そのものはいつでも誤りである。
 なぜなら、その感情は、狭い心によって生み出されるからである。
 しかし、それが誤りであるからと言って、何かの懲罰が決まっているわけではない。
 不平分子を捕まえるのは、権力者だけであって、そんな行為はしなくてもいいような物だ。
 本物の誤りには、懲罰はついていない。

虚偽成立までのプロセス

2016年02月20日 16時15分50秒 | 日記
 ある推理・憶測が正しいかどうかについて、私たちが考える時、そこには2つの態度が存在する。
 つまり、本当に事実を求める場合と、どちらでもいいという場合である。
 どちらでもいいという立場で、軽薄に採用された結論は、もしそれが誤っているならば、いつか問題を起こすだろう。
 そして、永久に証拠や反証が出てこないような推理・憶測のなかには、意図的な虚偽の物もあるかもしれないし、正しいのに誤りだとみなされる物もあるだろう。
 意図的な虚偽は、「どちらでもいいい」と言う人を簡単にだませるし、真剣な人を悩ませるだろう。
 「今は分からない」という気持ちと、「どちらでもいい」という気持ちは、区別する必要がある。
 「どちらでもいい」人は、端から議論に加わる必要はなく、下手に参加すれば、混乱の元となる。
 「私はそれを知りたいけど、今は分からない。」のであれば、棚上げまたは保留という手段がある。
 しかし、物事の真相が死活問題となる、差し迫った状況においては、非常に高度な理解が必要になってくる。

宗教と科学

2016年02月13日 19時56分22秒 | 日記
 ダーウィンによって発表された進化論は、当時の宗教界(カトリック)の指導者や信者に、大きな動揺を与えた。
 新しい科学理論は、経済界にではなく、人々の宇宙観や人生哲学に、大きな影響を及ぼす。
 空間からエネルギーを取り出す理論が、もし、発表されたなら、それは、私たちの物の見方や倫理観などに、何らかの影響を与えるだろう。
 それを生物の活動原理と結び付ける人は、若返りや病気の消滅という結果に到達するかもしれない。
 新しい科学理論は、新しい哲学や、新しい世界観をもたらす端緒となる。

科学者と利用者

2016年02月13日 19時36分58秒 | 日記
 私は原子力について、その原理を詳しくは知らないが、それによってつくられた電力を利用することが出来る。
 原子爆弾を広島に投下するように命令した権力者は、原子力の原理について知っていたのであろうか?
 私は、「もしかすると、科学技術の利用者は、必ずしも、その原理の持つ意味を知ってはいないのではないか?」 と考える。
 アインシュタインは、原子爆弾の、一般市民への使用を、肯定的には見ていなかったそうだ。
 広島市民への原子爆弾の使用が過ちであったとするならば、過ちをおかしたのは、アインシュタインではなく、その理論から得られた結果だけを見ていた、一部の権力者である、と言える。
 私たちは、アインシュタインのもたらした理論によって、啓発されたのであり、その点に関しては、認める必要がある。
 あらゆる科学理論が、人間の考えに新しい息吹を与える。
 私たちは、皆平等に、新しい科学理論から利益を得る。
 それは、経済的な利益ではなく、思想的な利益だ。