西米良村における西南戦争
銀鏡集落
銀鏡川
駐車場所から上り口を見る。
上り口
けっこうな勾配のある坂です。
西南戦争史跡46に槻木の記事があります。
西南戦争勃発の時に米良の領主だった菊池忠(すなお)は河野義俊と共に薩摩に向い村田新八率いる二番大隊九番小隊に加わります。
その後米良では明治10年4月27日に米良隊を編制して出兵しました。
米良隊
長友森衛・児玉元衛・甲斐瀬平・松浦市次・中武幾衛・中武貞衛・中武宗平・中武安平・中武八平・中武虎市・中武谷吉・中武岩吉を含む総勢32名
米良での戦闘は人吉陥落後の7月に入ってからで米良村史では別働第ニ旅団の中村重遠中佐率いる官軍620名が村所を攻撃、7月12日に村所を占領しています。
その後、小川に集結中の薩軍を攻略すべく天包山に10余りの塁を構築しました。
7月22日天包山に薩軍が攻撃をしたとあります。
薩南血涙史での米良における戦闘を記載します。
薩軍干城隊指揮長・阿多荘五郎が米良口を担当しています。
阿多荘五郎が率いる干城隊(大口方面の干城隊とは異なる米良口編制の干城隊)
干城隊一番中隊・米良重任
干城隊二番中隊・八木彦八
干城隊三番中隊・野間孫兵衛
干城隊四番中隊・石塚七十郎
干城隊五番中隊・河野通代
7月18日
干城隊は米良村の西八重、上米良、本城、横谷などの要所を守備します。
横谷方面の官軍(別働第ニ旅団)を襲撃すること3回に及ぶが官軍の要害により撃退できず両軍対峙している状況でした。
官軍は幽谷深林の間を潜行して来襲してきましたが薩軍各隊はこれを防ぎ撃って退けます。
7月21日
官軍は本城の干城四番・干城三番に攻め込んで戦闘をします。
薩軍は本城の防戦に利がないと判断し、小川に退きました。
横野を守備していた干城二番は官軍が小川に出ては横野の塁も保つことができないと応援に向い奮闘して官軍を退け、この地の守備をします。
7月23日
指揮長・阿多荘五郎は官軍が占拠している天包山に進撃することを決め、正面より干城一番・干城三番のニ隊を進軍させて、間道に干城四番・干城五番・佐土原二番・佐土原七番を向かわせ官軍の背後を衝きました。
正面の干城一番・二番隊は官軍との戦闘が始まりましたがお互い奮闘して勝敗が決まりません。
干城四番と佐土原二番は右翼間道より官軍の塁に迫り、干城五番・佐土原七番は林の中の樵路を進み左翼を衝きます。
官軍は第一塁を防ぐことができず後退、第ニ塁で応戦しますが正面からの薩軍と右翼からの薩軍に挟撃されて第ニ塁も捨て後退しました。
薩軍の攻撃は凄まじく官軍の要地をどんどん奪い官軍は第七塁まで退却してしまいます。
第七塁まで薩軍が攻撃してきましたが官軍もこれを死守します。
その時、官軍の付属第ニ中隊(降伏した人吉隊)が援隊として駆けつけ、さらに清水中尉が四斤山砲に榴散弾を装填して薩軍に砲撃しました。
薩軍はすでに弾薬が尽き、兵士も疲労していたため天包山から退却してしまいました。
天包山 西南戦争の碑
天包山 坊主岩の弾痕
駐車場から坊主岩に行くには下写真左側の階段を上って行きます。
少し上ると左に坊主岩があります。
少し上ると左に坊主岩があります。
米良は7月の戦闘以外でも薩軍と関わりがあります。
8月18日可愛岳突囲した薩軍が鹿児島に向かっている時に米良を通りました。
砂浜重言宅跡
8月25日西郷隆盛が旧東米良村銀鏡(しろみ)の砂浜重言宅に宿泊しています。
銀鏡集落
銀鏡川
薩軍退路の時は雨で増水していたようです。
児玉愛平宅跡
8月26日西米良村村所の児玉愛平宅に西郷隆盛が宿泊しています。
当主の児玉愛平は翌日薩軍の案内役をしました。
桐山宅跡
8月27日児玉愛平宅を出発した西郷隆盛は西米良村八重の桐山宅で休憩しています。
桐山宅は老朽化と2009年の土砂崩れで現在は建物は残っていません。
しかし、桐山宅の傍にあった柿の木が今も残っていました。
西郷隆盛もこの柿の木を見ていたと思います。
【桐山宅跡へ行くには】
土砂崩れのため桐山宅跡に行く道は地図に載っていません。
車を置いて徒歩で行きます。
車の駐車場所
駐車場所から上り口を見る。
上り口
けっこうな勾配のある坂です。
坂を上ること約20分ようやく平坦な場所に出ます。
ここに柿の木が残っています。
西郷隆盛は桐山宅を出て山を越え球磨の槻木に入ります。
西南戦争史跡46に槻木の記事があります。