車えび料理専門 うすい山荘

昭和48年創業以来、県内外からのリピーターも多く
ご満足して頂ける事と思います。
TEL083-984-2426

『うすい山荘を育てた【臼井家の歴史】』当家のルーツは千葉県佐倉市にあり、臼井常安又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔。

2021-03-27 21:12:47 | 創業50年、天然車えび料理専門、うすい山荘





『うすい山荘を育てた【臼井家の歴史】』

当家のルーツは千葉県佐倉市にあり、

臼井常安又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔

上総一族。千葉一族有数の大族。千葉介常胤の叔父にあたる常康が印旛郡臼井庄(佐倉市臼井)に移住して臼井と称した。

臼井氏
(桓武平氏千葉氏族)

 臼井氏は、千葉一族のなかで最も古い一族で平安時代後期に千葉氏から分かれた。すなわち、下総権介平常兼の子常康が印旛郡臼井郷の開発のために同地に赴任して、のちに臼井氏を称したことに始まったのである。このように、臼井氏は千葉氏の有力支族である椎名氏・相馬氏・大須賀氏などよりも古い歴史を有し、白井・匝瑳・海上氏らが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城を拠点として栄えた。臼井城は、志津城・岩戸城・師戸城などの支城を持ち、臼井氏は一族や重臣を派遣して守らせていた。
 頼朝の挙兵時、臼井常忠は房総平氏の惣領である上総氏に従い、上総介広常の軍勢の筆頭に、常忠の子、成常・久常が名を連ねている臼井氏は千葉一族のなかでも最も古く、平安時代後期に千葉氏から分かれた一族である。同じころに千葉氏から分流した白井・匝瑳・海上氏などが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城(千葉県佐倉市臼井田字城内)を中心に栄えた。

 臼井城は、志津城(佐倉市上志津字御屋敷)・岩戸城(印旛村岩戸字高田山)・師戸城(印旛村師戸)といった支城を持ち、臼井氏は一族や重臣を派遣して守らせていたという。

臼井常安(1106-1186)又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔

 臼井氏初代当主。父は下総権介平常兼。通称は六郎。「常康」とも。

 父・常兼は「下総権介」という肩書きを以って、子息たちを開発領主として下総各地に派遣したと思われ、六男の常安も印旛郡臼井郷(佐倉市臼井)の開発に携わったのだろう。常安の子息に「神保常員」が見えることから、萱田神保御厨(船橋市神保町から八千代市の一部)の開発も常安によってなされたと思われる。(→神保氏)

 臼井郷がいつ頃立庄したのかを示す文書は残されていないが、遅くとも鎌倉時代中には立庄されている。鎌倉時代初期に「臼井郷」「臼井郡」と記載の文書が残されているが、元徳3(1331)年9月4日『千葉胤貞譲状』に「臼井庄」と見える。

臼井常忠

 臼井氏二代。通称は太郎(『吾妻鏡』)、三郎(『神代本千葉系図』)。父は臼井六郎常安。母は不明。妻は伊東祐親入道の娘とも。千葉介常胤の従兄弟にあたる。

 建久2(1191)年正月1日、千葉介常胤が年始の椀飯を務めたとき、「臼井太郎常忠、天羽次郎直常(真常)」が千葉四郎胤信らとともに年賀の馬を曳いており、千葉介常胤の麾下にあったことがわかる(『吾妻鏡』)。

 常忠の妻は「伊東祐親入道娘」とも(『千葉大系図』)。祐親の娘としては流人時代の頼朝の子を産んだ娘(千鶴?)と三浦介義澄の妻(三浦義村生母)の二名が伝わっているが、臼井氏妻という伝はほかに見えない。また『臼居家家伝』によれば、鎌倉大町に館を持ったという(『臼居家家伝』)。

 弟・神保次郎常員は臼井庄神保郷(船橋市神保町)を本貫とした。その後、神保氏は承久の乱の戦功によるものか、出雲国に所領を与えられて移っていく。出雲に移った系は室町期に大内氏に仕え、江戸時代は萩藩士臼井家となっている。(→神保氏)

山口県山口市秋穂
天然車えび料理専門、
うすい山荘、臼井博隆
電話  083-984-2426




最新の画像もっと見る

コメントを投稿