車えび料理専門 うすい山荘

昭和48年創業以来、県内外からのリピーターも多く
ご満足して頂ける事と思います。
TEL083-984-2426

うすい山荘は、昼のみの営業をさせて頂きます。11時~14時迄とさせて頂きます。

2021-03-31 20:37:30 | 創業50年、天然車えび料理専門、うすい山荘



うすい山荘は、昼のみの営業をさせて頂きます。

11時~14時迄とさせて頂きます。

うすい山荘(臼井家)の歴史を遡って行きましょう。

臼井城の歴史 

永久二(1114)年、千葉常兼の子・常康が臼井に居を築き臼井氏を称した。

臼井城は印旛沼沿岸に多くの支城網を持つ、本佐倉城の千葉氏の一級支城でした。というより、

戦国末期には千葉本宗家は勢威が衰え、実質的に家老職であった原氏によって牛耳られていましたので、

臼井城が原氏ならびに千葉一族の本拠、といっても言い過ぎではないでしょう

臼井氏は、千葉一族のなかで最も古い一族で平安時代後期に千葉氏から分かれた。

すなわち、下総権介平常兼の子常康が印旛郡臼井郷の開発のために同地に赴任して、のちに臼井氏を称したことに始まったのである。

このように、臼井氏は千葉氏の有力支族である椎名氏・相馬氏・大須賀氏などよりも古い歴史を有し、

白井・匝瑳・海上氏らが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城を拠点として栄えた。

臼井城は、志津城・岩戸城・師戸城などの支城を持ち、臼井氏は一族や重臣を派遣して守らせていた。

臼井氏は本姓は千葉といい平氏である。

祖先は桓武天皇から出た天皇の御子 葛原親王(かずらわらしんのう)である。

葛原親王は四品に叙して式部卿となった。

葛原親王の子は高見、孫は高望という。

高望は平氏の姓を賜り上総介となる。

高望には四人の子があって、國香・良将・良兼・良文といったが、武士となって東門守介或いは鎮守府将軍を任ぜられる。

國香の子は貞盛、良将の子は将門である。

良兼は上総介であり、すなわち 臼井家の元祖である。

天然車えび料理専門、

うすい山荘、臼井 博隆

電話 083-984-2426


うすい山荘は、しばらくの間、昼の営業とさせて頂きます。11時~14時迄。

2021-03-29 18:29:31 | 創業50年、天然車えび料理専門、うすい山荘


うすい山荘は、しばらくの間、昼の営業とさせて頂きます。

11時~14時迄、

1日の組数が3組~4組迄とさせて頂きます。

組数に達した場合は、14時前でも、

営業を終了させて頂きます。

定休日

3月31日、水曜日。

天然車えび料理専門、

うすい山荘、臼井博隆

電話 083-984-2426




『うすい山荘を育てた【臼井家の歴史】』当家のルーツは千葉県佐倉市にあり、臼井常安又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔。

2021-03-27 21:12:47 | 創業50年、天然車えび料理専門、うすい山荘





『うすい山荘を育てた【臼井家の歴史】』

当家のルーツは千葉県佐倉市にあり、

臼井常安又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔

上総一族。千葉一族有数の大族。千葉介常胤の叔父にあたる常康が印旛郡臼井庄(佐倉市臼井)に移住して臼井と称した。

臼井氏
(桓武平氏千葉氏族)

 臼井氏は、千葉一族のなかで最も古い一族で平安時代後期に千葉氏から分かれた。すなわち、下総権介平常兼の子常康が印旛郡臼井郷の開発のために同地に赴任して、のちに臼井氏を称したことに始まったのである。このように、臼井氏は千葉氏の有力支族である椎名氏・相馬氏・大須賀氏などよりも古い歴史を有し、白井・匝瑳・海上氏らが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城を拠点として栄えた。臼井城は、志津城・岩戸城・師戸城などの支城を持ち、臼井氏は一族や重臣を派遣して守らせていた。
 頼朝の挙兵時、臼井常忠は房総平氏の惣領である上総氏に従い、上総介広常の軍勢の筆頭に、常忠の子、成常・久常が名を連ねている臼井氏は千葉一族のなかでも最も古く、平安時代後期に千葉氏から分かれた一族である。同じころに千葉氏から分流した白井・匝瑳・海上氏などが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城(千葉県佐倉市臼井田字城内)を中心に栄えた。

 臼井城は、志津城(佐倉市上志津字御屋敷)・岩戸城(印旛村岩戸字高田山)・師戸城(印旛村師戸)といった支城を持ち、臼井氏は一族や重臣を派遣して守らせていたという。

臼井常安(1106-1186)又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔

 臼井氏初代当主。父は下総権介平常兼。通称は六郎。「常康」とも。

 父・常兼は「下総権介」という肩書きを以って、子息たちを開発領主として下総各地に派遣したと思われ、六男の常安も印旛郡臼井郷(佐倉市臼井)の開発に携わったのだろう。常安の子息に「神保常員」が見えることから、萱田神保御厨(船橋市神保町から八千代市の一部)の開発も常安によってなされたと思われる。(→神保氏)

 臼井郷がいつ頃立庄したのかを示す文書は残されていないが、遅くとも鎌倉時代中には立庄されている。鎌倉時代初期に「臼井郷」「臼井郡」と記載の文書が残されているが、元徳3(1331)年9月4日『千葉胤貞譲状』に「臼井庄」と見える。

臼井常忠

 臼井氏二代。通称は太郎(『吾妻鏡』)、三郎(『神代本千葉系図』)。父は臼井六郎常安。母は不明。妻は伊東祐親入道の娘とも。千葉介常胤の従兄弟にあたる。

 建久2(1191)年正月1日、千葉介常胤が年始の椀飯を務めたとき、「臼井太郎常忠、天羽次郎直常(真常)」が千葉四郎胤信らとともに年賀の馬を曳いており、千葉介常胤の麾下にあったことがわかる(『吾妻鏡』)。

 常忠の妻は「伊東祐親入道娘」とも(『千葉大系図』)。祐親の娘としては流人時代の頼朝の子を産んだ娘(千鶴?)と三浦介義澄の妻(三浦義村生母)の二名が伝わっているが、臼井氏妻という伝はほかに見えない。また『臼居家家伝』によれば、鎌倉大町に館を持ったという(『臼居家家伝』)。

 弟・神保次郎常員は臼井庄神保郷(船橋市神保町)を本貫とした。その後、神保氏は承久の乱の戦功によるものか、出雲国に所領を与えられて移っていく。出雲に移った系は室町期に大内氏に仕え、江戸時代は萩藩士臼井家となっている。(→神保氏)

山口県山口市秋穂
天然車えび料理専門、
うすい山荘、臼井博隆
電話  083-984-2426



うすい山荘のキャッチフレーズです。『うすい山荘を育てた【臼井家の歴史】』

2021-03-26 21:11:24 | うすい山荘、創業50年、天然車えび料理専門





うすい山荘のキャッチフレーズです。
『うすい山荘を育てた【臼井家の歴史】』

当家のルーツは千葉県佐倉市にあり、

臼井常安又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔

上総一族。千葉一族有数の大族。千葉介常胤の叔父にあたる常康が印旛郡臼井庄(佐倉市臼井)に移住して臼井と称した。

臼井常安(1106-1186)

 臼井氏初代当主。父は下総権介平常兼。通称は六郎。「常康」とも。

 父・常兼は「下総権介」という肩書きを以って、子息たちを開発領主として下総各地に派遣したと思われ、

六男の常安も印旛郡臼井郷(佐倉市臼井)の開発に携わったのだろう。

常安の子息に「神保常員」が見えることから、萱田神保御厨(船橋市神保町から八千代市の一部)の開発も常安によってなされたと思われる。

 臼井郷がいつ頃立庄したのかを示す文書は残されていないが、

遅くとも鎌倉時代中には立庄されている。

鎌倉時代初期に「臼井郷」「臼井郡」と記載の文書が残されているが、

元徳3(1331)年9月4日『千葉胤貞譲状』に「臼井庄」と見える。


うすい山荘の当主、臼井博隆の手相

ますかけ線は、両手にあり。

天下取りの相『ますかけ線』

手相の主要3線の知能線と感情線が一緒になり、

生命線の始点から横一直線に伸びている線がますかけ線です。

片手にある人は100人に数人程度居るそうですが、

両手ともにますかけ線がある人は1万人に1人とも言われる珍しい線です。

この手相は、一度つかんだ物を離さない大変な強運の持ち主。

また、天下取りの相ともいわれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人は、

このますかけ線だったと伝わっています。

天然車えび料理専門、
うすい山荘、臼井博隆
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うすい山荘の歴史、臼井(うすい)家の歴史を紐解いてみます。

2021-03-25 21:17:45 | 食事処、天然車えび料理専門、うすい山荘、創業50年。


うすい山荘は、
昼のみの営業として 夜はお休みさせていただきます。
11時から14時迄の営業とし、
お客様、3組~4組までとさせていただきます。
お客様1組、おひとりさま~4名さまとさせて頂きます。
組数に達した場合は、昼の時間14時前でも営業を終了させていただきます。

うすい山荘の歴史
臼井(うすい)家の歴史を紐解いてみます。

臼井常安又は常康(臼井家初代)桓武天皇第11代の後裔
臼井の名は常安の代に現在の千葉県印旛沼の近くの臼井庄を領したところから始まった。臼井の地名は現在も残っており、常安は1114年(永久2年)にここに居を構えたという。

 上総一族。千葉一族有数の大族。千葉介常胤の叔父にあたる常康が印旛郡臼井庄(佐倉市臼井)に移住して臼井と称した。

 臼井氏は他に志津城(佐倉市上志津字御屋敷)・岩戸城(印西市岩戸字高田山)・師戸城(印西市師戸)といった支城があり、一族や重臣に守らせていた。また、葛西氏に養子に入ったとされる葛西清時(千葉介頼胤の子)に従って臼井常俊(三郎左衛門)が奥州に赴いたとされるが、葛西清時は実在の人物であるかどうか不明であるほか、ともに赴いたとされる「亀卦川」氏は千葉氏の一族ではなく、葛西庄木毛川の豪族であったと思われるため、葛西氏に従ったという臼井氏がいたのかは不明。

 下総国臼井郷の臼井氏はその後、上総権介広常に連座して臼井郷を没収され、千葉介常胤が下総国を実質的に支配した際にふたたび臼井一族に与えられたか?

 鎌倉末期から南北朝期の争乱では、足利尊氏に一貫して荷担した臼井興胤がふたたび臼井郷を中心とした勢力を築き、戦国時代末期まで代々続いた。

1623年、山口県山口市秋穂に医業を開く、(1623年前より医者でした)
山口県で始めの医師の家系である。
初代から10代目まで秋穂で医者であった。

11代目、天然車えび料理専門、うすい山荘を、昭和48年に開く。
12代目、うすい山荘 2代目、臼井博隆 現在に至る。

天然車えび料理専門、
うすい山荘、臼井博隆
電話 083-984-2426