サンチョパンサの憂鬱

サンチョパンサの食卓 (6)

食卓?という表題でタラタラと一体何を書いているんだろう?と思いつつ、よく考えて見れば食欲と性欲の表現にこそ、その人の動物的欲求から哲学に至るまでの人格全てが体現されるからなんじゃね?……と思った。

文化とは全分野において言えることは機能、効率的に見れば一見無駄に思える『ひと手間を加えること』だと。
生肉をむしって手で食していたものが切り分けられ皿に盛る様になり、箸とかナイフ・フォークを使うようになる。

調味料が工夫され香辛料も加わり加熱具合も検討、工夫される。
様々の穀物の加工が行われ肉魚との取合せも研究が進む。

食の分野を楽しむ為に椅子、テーブルも登場する。

今流行りの『コスパ』から言えばどんなテーブル、椅子で食そうと料理自体の『量は変わらない』のに……。
何故?どんな調度品でどんな食器に盛るのか?そこに心血を注ぐ様になったのか?

それは『楽しいから』である。前頭葉が悦ぶのである。

『雰囲気の味わいなんて数量化出来ない』し『可視化することも出来ない』けれど『食事の楽しさ』という『味わいの深さ・奥行きというもの』は厳然と存在する。

だから文化ってのはある意味『質(たち)が悪い』のである。

ベンツの『プライスが高いこと』を殊更に喜び、誇り、見せびらかす事に価値を見出す人もいる。こんなタイプの人達は見せびらかしに高いコストを払う。
『見てくれる他者』がいなければ発生しない無力なコストパフォーマンス効果である。

一方、運転席に座りドアを閉めた途端、外界から車内の空間を切り出した様な静謐な空気に包まれる『乗り心地、居心地という味わい』に価値を見出す人もいる。
こんな人は『自分を感じる価値を尊重する』のである。

例えば、街を抜け出し森の木立の中に一人車を停める。そして目を閉じ目一杯の深呼吸をする。
そんな一人在る状態なんぞを無上の喜びとする。彼は自分の六感全てを駆使して自分を感じているのである。

ナルシストとかエゴイストの様な自分の愛し方じゃない深い自己愛なのである。
自分を文化的に愛する人は同じ深さで他者を慈しみ愛することが出来るのである。

だから……貧困に喘いでいる人間を見下し、『自己責任』の一言で片付けられる神経は断じて文化的ではない。
高価な服飾で身体を包んではいても野卑・野蛮なメンタルが何かに付けて顔を出す。

だからそんな人は何時も寂しそうな顔をしているのである。

成績が良い自分?裕福な自分?人気者の自分?そういう自分なら愛せる人は多いと思う。
コレを自己効用感という。

これに対して自己肯定感っていう奴はカネとか地位とか職業とか無関係なものである。
成績が悪い自分も貧乏人の自分も孤独な自分も『これが自分だからと愛せる感覚』なのである。

例えおにぎり一つ食べるのにも……ロケーションだったりお気に入りの湯呑みに熱いお茶を丁寧にいれたりする。おにぎり一つにそんな『工夫の限りを尽くすスタンス』こそが文化的であり自己肯定感の為せる業ってなもんである。

おにぎり一つに愉しみを付加出来ない人間が……人生において一体何を愛し何を為せるというのか?って話である。

プライスの高いことを誇る人間は貧乏臭い見栄っ張りと……、何時もプライスの事ばかり口にする人間は貧相なシミッタレとこの国では呼んで来たのです……。

コスパ好きの若い人達にこの際言っておきます。
『ケチと倹約』は根本的に違うのです。
ケチは野卑・野蛮な人であり倹約家は文化人というわけなのです……ね?
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