コロナ禍からこっち、街中華、街寿司屋、街喫茶店……おおよそ商店規模の様々な飲食店が姿を消した……と嘆く方のコラムを読んだ。
今考えればとても安くて美味しい店達だったと…。
気が付けば駅前は大手のチェーン店ばかりとなり、スマホでQRコードであったり、タッチパネルだったりでオーダーさせられる。
企業経営だから効率化最優先でこれにケチをつけるには当たらないんたけど……とあった。
『食い物』なんだからデリバリーでイイんじゃね?なぁ〜んて声が聞こえてきそうだけど『街……屋』さんの空間で頂く、安くて美味しい商品達は、『単なる食い物』なんかじゃなかったのである。
筆者はその空気の中にあったのは『優しさ』だった旨を書いていた。
若い頃、お一人様でアパートから歩いて通った喫茶店を思い出した。
何も知り合いがいる訳じゃないけれど……店内の空気感にはお互いに気を遣い合う『人肌の優しさ』が漂っていたっけなぁ?と当時を思い出した。
誰もがコンピューターのプログラマーになれる訳じゃなく……案外、そんな店々に漂っていた空気感を体現する空間の魅力を実現すればビジネスというニュアンスじゃなく『生業?』として成り立つんじゃね?なぁ〜んて考えた。
コメダ珈琲とかは、昭和の喫茶店と変わりはない。そんなに変化はしていないのである。
スペースの効率化優先の外来のカフェと違うのは『人肌感覚が漂う店内の空気』こそが人を惹きつける魅力かもね?
僕は懐古趣味で言うんじゃく……バランスの問題だと思うのである。
効率化された空間も使い勝手として時代のニーズに合った部分もある。
しかし一方、ホッと一息つく事が出来るハイタッチな空間もまた人間には…必要不可欠なんじゃね?と思うのである。
外来のスーパーという業態が地方から商店街を駆逐してしまったけれど……。
失って気付いたのは単に『モノを効率的に扱う手法』だけでは……そこに住む人達は『大きな不自由』を被る部分があったのである。
オマケに採算合わずとなった途端、サッサと都市部へ帰っていくスタンス。
そうして残された老人達は…『買物難民』になった時代の流れ。
農業を若者達に解放し、そこに緩やかな生業としての『新商店?』が存立する社会って凄く人間的で素敵な未来を想像出来はしないか?
単なるレトロじゃなく『呼吸する旧くて新しい商店』が点在する風景は……効率的大手チェーン店ばかりが立ち並ぶプラスティカルな風景では応えられない『人間的欲求』を満たしてくれるんじゃね?……なぁ〜んてオジサンは妄想するのですよ……。