サンチョパンサの憂鬱

出来る事は限られている……

当たり前の話だが……自分に出来る事は限られている。

その当たり前を認知・承認出来ないところに悩み、苦しみの種があるんじゃないか?……とふと気付いた。

出来ようもないことを何故だ?と苛立ち自責の念を燃やし……やがては羨望嫉妬の虜となりまた苦しむ……そんな事ばかりに血道を上げてた自分が見えた……。

『演れば出来る事』をハッキリさせ『それに専念』してみようと思った。
やれば出来るのだからストレスは無し。
少しの無理さえ自分に課せば現実になるだろうテーマに絞り込んで見ようと……。

考えて見れば……人一人の心さえ振り向かせるのはままならないのだから……と。
それを可能と考える所から煩悩は発生している。

『自分には出来ないことがある!』という明確な『諦め』は……その裏に『自分には出来る事がある!』という事実と勇気を運び来るのである。

その様なメンタルで事に当たると……結構な難易度の問題も『自分は出来た!』という結果をもたらしたのだった。
自分の事ながら『分かってないのは自分』だったという顛末……。

『救い様のないおバカだな?お前!』心の中で自分にそう呟いた時……目の前に垂れ込めてた霧がサッと引いていった。

自分に出来ない事に目を奪われるとそれは執着となり……結果、自分に出来る事さえ手付かずで捨て置かれ……それが新たな自責の元ネタとなっていくという悪循環を招いていた。

『出来るかも知れない?』その可能性が万に一つあるならば全身全霊で挑む。結果はどっちかだけど……それはどうでもよい。『ハッキリした現実』が自分に認知されればそれで良いのである。

そんな『実感の積み重ね』が自分に信頼を醸成していく。その心地好さは何ものにも変え難く……。
嫌われるかも知れない?には実体がない。『ハッキリ嫌われた!』は現実であり現実の実感である。

実感は不安と違い結果のプラマイは関係なく自分を励ますのである。例えそれが惨めな屈辱を伴おうとも……現実に実感でそれを受け止めた自分が誇らしいと感じるから不思議だった……。

出来ない事に囚われてる内は……自分が自分を責めているのである。無理難題を自分に強要し、日々自己嫌悪ばかりを生産している事に気付いて欲しい……。

やっぱり自分……そんなに捨てたモンじゃないんである……。

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