大西 ライフ・クリエイト・アカデミー

身の回りから、世界のさまざまな問題に至るまで、根本的な解決ができる道である文鮮明先生の思想を、その根拠と共に紹介します。

資本主義は、本当は不確実である。ジョン・メイナード・ケインズ。

2016-06-29 23:19:02 | 経済
 19世紀のイギリス。世界恐慌をまたいで活躍した経済学者、ジョン・メイナード・ケインズ。多くの分野で並みではない活躍をした人ですが、経済学者として一番知られているのでしょう。ケインズの経済学はケインズ革命と呼ばれ、その理論は経済学に革命をもたらし、資本主義の経済システムを変質させたのです。資本主義を延命させたという評価をする方もいます。もちろん経済学関係の方の評価です。
ケインズのもっとも有名な著作は一般に「一般理論」と呼ばれている本で、「雇用・利子・および貨幣の一般理論」というのが正式な名称です。
 さて、ここでの一般というのは何を表しているのでしょう?
ケインズが古典派と呼んだそれまでの経済学は、均衡という経済にとって望ましい平和な状態が普通であり、基本であると考えたのです。それは「自由競争さえあるならば経済社会は調和ある状態を続ける、ということを論理的に明らかにすることであった。たしかに古典派経済学の場合には、それは古い勢力に対する批判であったが、十九世紀の後半以後、自由競争が現実のものとなると、それは何もしないことであり、現実の説明をするだけのものにすぎなくなってしまった。」
 しかしケインズにとって、均衡というのはめったにありえない特殊な状態で、それ以外の不均衡な状態、つまりは何かしらうまくいっていない状態である不況や失業などの問題を抱えた一般的な状態についての分析をおこない、それに対して均衡させる。あるいは均衡に近づけるための理論、つまりは手をこまねいて市場に任せきりにするのではなく、必要に応じて対策を取るべしという、当時にあっては画期的な提案を含んでいたのです。
 
 このように書くとアインシュタインの「相対性理論」が思い浮かびます。
最初に発表されたのは、何も存在しない空間における光と時間、空間の関係について解明した特殊相対性理論でした。さらに10数年の歳月をかけて発表された一般相対性理論は、普通はありえない特殊な何もない状態ではなく、星やらなにやらと、質量を持ったものが存在する、私たちにおなじみの宇宙など、空間(正確には時間もとけこんだ時空)のあらゆる状態を説明する理論へと発展、一般化させたのですね。

 ケインズ以前の経済学というのは自由であることが、何より尊重すべきものだったのです。ケインズ流に言うならば、自由放任という方がふさわしいでしょう。市場に対して余計な手を加えなければ、需要と供給が自然とバランスがとられるようになっていて、物価と流通の量とか、雇用と賃金とか、利子と投資とかのバランスが、とにかくうまくゆくと信じられていたのですね。
個々人は自分の富に対する欲を優先しながら活動をするけれど、そこには競争が起こったりして…。そんなこんなで、結果、全体としてみると、経済というのは余計なことをせずに市場に任せてさえおけば、うまくゆくようになっている,つまりは均衡がとれるようになっているのです。…というようなところでしょうか。

 ケインズの師、先生はアルフレッド・マーシャルという当時の経済学の教科書を執筆した人物でした。マーシャルは夫婦でケインズを可愛がり、師であるのみならずたいへんな恩人でもあったのです。にもかかわらず、ケインズのマーシャル批判は厳しいものだったそうです。
伊東光晴氏の著書「ケインズ」によると「マーシャルの本たとえばかれの主著『経済学原理』をひもどくならば、貧乏の問題の解決をかれが強調していることが分かる。イギリスが発展に発展をとげたヴィクトリア時代になぜ貧乏があるのか。これがかれの問題であった。そしてマーシャルは、これから経済学を学ぼうとするケンブリッジの学生たちに、経済学を学ぼうとする者はまず、イースト・エンド(ロンドンの貧民街)へ行ってこい、といったといわれている。それは冷静な頭脳だけでなく、温い心をやしなうことが経済学の勉強には必要だと考えたためであった。
 そのマーシャルの経済学の結論は何であったか。レッセ・フェール、自由放任、自由競争、これによって社会は進歩する。自由放任、それは何もしないことではないか。イースト・エンドに行くことの結論が何もしないことであるとは!ここにケインズがヴィクリア時代の道徳の偽善的一面を見いだしたのは不思議ではない。ケインズは、単にマーシャルに反発しただけではない。マーシャルを含めて、19世紀のヴィクトリア時代の偽善と道徳、鼻もちならない倫理主義に反発したのである。」

 ケインズはイギリスの経済学者であり、イギリスの社会を三つの階級に分けて考えた。投資者の階級、企業家の階級、そして労働者の階級の三つで、こては当時のイギリスの政党である保守党、自由党、労働党がそれぞれの階級の利益を推進させる政治の主体であるとした。さらに三つの階級については、二つのグループに分けて考えた。それは投資者階級を非活動階級、そして企業家階級と労働者階級を活動階級と呼んだ。
 ケインズ自身は「人間の能力と知性とに信頼を置く人間であった。」人間の能力と知性を最も必要とされる階級こそ企業家の階級であるとケインズは考えた。そのケインズの見た当時のイギリスは、資本主義経済の主役ともいうべき株式会社が発展、成長しつつある時代で、そこにはかつてのような資本家が企業家でもあるというのではなく、企業の経営は専門的な知識や経験を持つものに任せて、資本家は企業に投資することによって利益を得るという、経営と所有の分離がおこってきたのを見たのです。目先の利益を求める不特定多数の素人による大衆心理の影響を企業が受けるようになると…。
「ケインズの政策は、イギリス社会をまず階級的としてとらえ、次にイギリス経済の生産や流通がくりかえされている過程の構造を分析したうえで、それが、投資者階級の利益のために推進されているのであり、それは活動階級の利益の犠牲のみならず、イギリス自体の利益をそこなうものであることを明らかにした。と同時にその基礎をなす三つの階級はそれぞれの利益を推進させる政治的な主体を持っていた。」
 当時は政府の予算についても歳入と歳出が均衡するべきということが常識であったが、ケインズの主張は不況時には一時的に政府が赤字になっても、「借入れによって公共目的のための支出をおこなうことであった。」
政府の支出によって需要を刺激し、産出量や雇用の水準を高めようとしたのでした。

 ケインズの理論は、特に当時の若手の経済学者に歓迎されることになるのですが、ひとつには当時の若者たちが、ケインズと同じ気持ちを抱いていたこと。
もうひとつはケインズの理論が正しく理解されずに誤解されたからだといわれています。それも理論の根幹である現行の経済体制である資本主義経済の不安定さに対する考え方にありました。
その不安定さというのは、確率として予測が可能というような次元ではなく、全くの予測不可能な不確実性であるというのがケインズの考えでした。あたかも数学で言うところのカオスのように思えてしまいます。 
 数学におけるカオスとは、もともと気象の予測から発見されたとされていますが、バタフライ効果が有名です。南半球の蝶の羽ばたきが北半球でハリケーンを引き起こすというものです。蝶の羽ばたきのような観測しきれない小さな出来事、誤差がある程度の時間の経過の後には、ハリケーンほどの違いとなって現れるという予測の困難さを表しています。
ニュアンスは多少異なるかと思うのですが、ケインズの言う不安定は、数学でいうところのある程度の予測を可能にする確率ではなく、カオスに近いのではということを申し上げたいのです。

 ケインズの主張が多くの経済学者から正しく理解されなかったのは、著書「一般理論」の難解さがある。「というのは『一般理論』はこれから経済学を学ぼうとする人たちを対象に書かれたテキスト・ブックではないからである。」さらには、構成のまずさや、曖昧な箇所も見受けられたとされています。
 評論家の中野剛志著の「資本主義の預言者たち」によると不確実性の問題については「一般理論」の12章で扱われているのですが、その章の議論に対してケインズは「余談」という表現を使っているのです。それについて中野氏は「これは確かに誤解を招く表現である。『余談』というと、第12章が、本旨とは異なる余計なものであるかのような印象を与えるからだ。」
ケインズ自身、「一般理論」の翌年に経済学術誌の「クォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミクス」に「雇用の一般理論」という論文を発表し、みずからの理論の主旨をはっきりさせようと試みていたのでした。

 「2007年、アメリカでサブプライム危機が勃発したとき、多くの経済学者やアナリスト、ジャーナリズムのコメンテイターたちの間で、ある経済学者が大きな話題となった。その経済学者こそがハイマン・ミンスキーである。」
「政府の政策による賢明な微調整によって市場を均衡させることができると考えていた」主流派のケインズ主義の経済学者の対して、ミンスキーは異端と見られていたのです。それはミンスキーが「資本主義は均衡せず、必ず金融危機を引き起こすと論じたことにある」のです。
そのミンスキーによると、アメリカにおいてケインズ主義的な資本主義であった世界恐慌に対するニューディール政策以降の20年ほどを父権的資本主義、経営資本主義、あるいは福祉国家資本主義という名で分類し、それは最善のものであったとしているそうです。

 ケインズ主義の経済学者をケインジアンと呼びますが、ケインズの教え子であるオースティン・ロビンソンによると「1944年の秋のこと、ケインズは、世の中で『ケインジアン』と呼ばれている人々と自分自身がいかに異なっているかを嘆息しながら、『私は、現在、ただ一人の非ケインジアンであることがわかった。』と述べたというのです。」
先のミンスキーによる主流派ケインズ主義経済学者への批判はきびしく「不確実性のないケインズなど、王子のいないハムレットのようなもの」と嘆いたそうです。

 そして、2007年のこと、それまで異端とされてきたミンスキー、本物のジョン・メイナード・ケインズの理解者であったかもしれないミンスキーは、初めて評価され、敬意を表されることになったのです。



(参考文献、引用)
 「ケインズ」        岩波新書 伊東光晴 著
 「資本主義の預言者たち」  角川新書 中野剛志 著
 「経済学の歴史」   ダイヤモンド社 J・K・ガルプレイス 著
 「ケインズを学ぶ」  講談社現代新書 根井雅弘 著
  ウイキペディア
 「広辞苑」         岩波書店
 

経済と経済学の歴史、私的理解編

2016-06-24 17:23:40 | 経済
 経済と経済学の歴史などと申しますと、なにやら畏れ多い気がしてしまいます。
しかし、経済とは、ホントはとても身近なもの。生きている限り経済と無縁ではいられないということなのでしょうね。衣食住とかね…。
ところが、経済学ということになると、とたんに手を引っ込めたくなります。私ごとですが…。
同じ気持ちの方も多いのではないでしょうか?恐れ入ります…。

 社会思想家の佐伯啓思サンによると、ご自身が大学の経済学部時代であった1970年代のことを振り返って、数学が大規模に導入された当時の経済学、「科学っぽくみせる」アメリカ型数理経済学について書いておられ、その数学のディープさは友人の数学者が驚くほどだったそーです。
その背景には、やはり東西冷戦があり、思想でありイデオロギーであるソ連社会主義のもとになっているマルクス思想に対して、自由経済体制を支持する経済学者の考えは、「アメリカの自由市場体制は『理論的』に正しいことが論証できる。これを支える市場理論は『科学』であって、イデオロギーではない。したがって、西側の自由市場体制は『正しい』のであって、社会主義は『誤り』である。これが当時のアメリカの主張だったのです。……『理論的』に正しい、というもっとも明白な証拠は数学で表現されている、ということだった。」…と。
 さらにピケティを引用して、「私は経済学が社会科学の下位分野だと思っており、歴史学、社会学、人類学、政治学と並ぶものと考えている。(中略)私は『経済科学』という表現が嫌いだ。この表現はとんでもなく傲慢に聞こえる」
社会科学というのは、歴史学、社会学、人類学、政治学とか法学など、人間社会のさまざまな分野についての学問のまとまりのことのようです。
 もうひとつピケティを引用して、「本当のことを言えば、経済学は他の社会科学と自分を切り離そうなどとは決して思うべきではなかったし、経済学が進歩するには他の社会科学と連携するしかないのだ。社会科学全体として、くだらない縄張り争いなどで時間を無駄にできるほどの知識など得られてはいない。」、だそうです。

 経済学は当然、専門的な立場から、経済の政策に影響を与えると思うのです。それどころか、政策そのものに採用されることもあったのです。
しかしながら実際の経済に直接、間接にかかわる全ての人間、それは莫大であり、中でも力、大きな財力を持つ個人や団体の影響はそれに応じたものなることでしょう。さらには規制や規制の緩和、その撤廃などを含めて影響を与え合うと考えると、それらは数学や科学などの純粋な理論の世界とは違った、大変な複雑さ、カオスに満ちていると思えます。

 経済学の始まりはイギリスのアダム・スミスといわれています。「国富論」を書いた人として有名なアダム・スミスはこの本の前に「道徳感情論」で人間の本性が共感にあると書いたのでした。
しかし、現代の経済学の始まりとされる「国富論」においては、「実際、個々人は公共の利益を促進しようと意図しているわけではない、だが彼は単に自分の利益を意図していながら、あたかも”見えさる手”に導かれるように、自分では意図もしていなかった公共目的を促進することになる。」と書かれているそうです。
個々人は自分の欲にかられて行動しても、全体としてはうまくいくもんね~。ということなのですね。
経済学の岩井克人先生によると「『見えざる手』とは、具体的には、市場における『需給法則』あるいは『価格の需給調整機能』のことです。……この『見えざる手』さえ働いていれば、資本主義経済は全ての市場における需給を同時に一致させる「一般均衡」を、自動的に実現することが出来るわけです。」だそうです。
需給というのは、需要と供給のことですよね。このくらいしか解説が出来ないや~。
人間の本質であるとした共感については、あえて「国富論」に書かなくても人間の本性を信じたということなのかもしれません。


 ちなみに脳科学の分野で、大発見とされものにミラーニューロンがあります。これはまさに共感するための働きが脳にそなわっていたことの発見を意味します。
ある行動や行為について、見た時、自分で行動したときにも共に活性化する部分(ニューロン)があることを発見したのです。ニューロンというのは神経の細胞のことです。あることをみたとき、自分が同じ行動したときのどちらであっても活性化するということは、視覚、運動、さらに身体の感覚という非常に複雑なはたらきであるため、1990年代のはじめの発見は衝撃的であったそうです。


 そして、経済学の伊藤光晴氏によればアダム・スミス以降「長い間、経済学の正流は、自由競争さえあるならば経済社会は調和ある状態を続ける、ということを論理的に明らかにすることであった。」 それは1800年代の後半までは「経済という社会の土台からの、政治・政策への批判」だったものが、自由競争が実現された後半からは、「現実の説明をするだけのものにすぎなくなってしまった。」 
そこにおこった経済学の革命。
それがケインズ革命であったのです。 
                                        つづく…


(参考文献)
  人間回復の経済学 神野直彦 著  岩波新書
  心を生みだす脳のシステム 茂木健一郎 著  NHKブックス
  さらば、資本主義  差益啓思 著  新潮新書
  経済学の宇宙  岩井克人 著  日本経済新聞社
  ケインズ   伊藤光晴 著   岩波新書

資本主義は、もう私たちを幸せにはしてくれないの?

2016-06-20 21:48:04 | 経済
  資本主義はもはや賞味期限切れだ!みたいな事をよく目にするようになってきたのではないかと思う今日この頃なのです。
 フランスの経済学者トマ・ピケティの本「21世紀の資本」が話題になって、世の中がこんな感じになってしまったのは、やっぱりそうだったのか~という、格差というものはこうやって出来ていたのかということになったと思うのです。
ピケティの本によれば、格差が拡大し続けるからくりは資本収益率が経済成長率よりも常に高いところにあるということで、資本が生み出す収益の割合のほうが…、つまりは、資産家とかお金持ちとかの、土地や資産などが生みだす利益のほうが、労働の対価としての賃金などを含む成長率よりも多いことがずっと続いているために格差が開き続けるということなのですね。それが積み重ねられ、さらに資本が世襲されることで、格差が固定化されてゆくと…。
 しかしながら国によっての事情の違いがありそのへんは一概には言えないかと…。さらに、ピケティのいうところの資本は資産みたいな意味合いで、一般的なケーザイガクとはちょっと違うみたいですね。フクザツ。
基本的に、資本主義という経済のシステムは格差を作り出すようになっていたということのようなのですね。

 アメリカやイギリス、日本でも経済の運営の在りかたや、国の財政では基本になってしまったような、新自由主義では、小さな政府と、市場の裁量に任せることが経済を成長、発展させるということで規制緩和や民営化を進める政策を行うのですね。
民間に任せられることは民間に任せたほうが効率的であり、よりよいサービスの提供がされて、さらに経済の発展や成長をもたらしてくれるのだというイメージが感じられ、なにやら希望的な気分をもたらしてくれたかつての記憶があります。その頃、はたして新自由主義と呼ばれていたかどうかは定かではないのですが…。

 バブル崩壊後にあっては、それまでの日本的な経営というのは時代遅れで非科学的みたいな印象にさせられて、好き嫌いは別にして、さすがアメリカの経営、経済の運営はすごいんだべ~、って思ってしまいましたね~。なんだかキビシ~ッ!という感じはしましたが、スマートで、格好良くって…。かつての、私の印象です。
具体的なところは、よく分からないのですけれどネッ。で
 その流れは、株主至上主義や莫大な報酬を平気な顔で受け取るCEOと呼ばれる最高責任者に通じるのではないでしょうか。

 新自由主義をすすめてゆくうえでは、重要なトリクルダウンという考え方があって、富めるものが豊かになれば、そこからしずくが滴り落ちるように、その恩恵はいずれ人々に行き渡り格差は解消されてゆくというようなシアワセな説なのです。
 これを裏付ける理論として、アメリカの経済学者であるサイモン・クズネッツが1914年から1945年前後、30年間くらいの所得税の統計や国民所得のデータをもとに座標上にクズネッツ曲線という結果を示したのです。これは資本主義の発展の過程では一時的に格差が拡大するものの、いずれ格差は縮小し解消されてゆくという事実を表したグラフみたいなものです。

 ところが、ピケティの場合は300年前後とかいう期間にわたった調査の結果を基にしているところがすごいのですね。協力者の存在や、クズネッツの時代と違ってインターネットというすごいものが存在するのですね。そうであっても、気の遠くなる努力がなされたと想像できます。

 クズネッツの調べた期間は、第一次大戦や第二次大戦、世界恐慌があり多くの資本が破壊されたり失われたりすることで、例外的に格差が縮小した期間であったというのが、ピケティらの調べた結果から言っていることです。
さらに、クズネッツ曲線が支持された時代背景には、東西冷戦という、西側の自由主義にとってたいへんな脅威であった共産主義思想という異なる経済理論を持ち実践しているソ連などの存在があったからのようなのです。
経済の破綻、人間性の抑圧、自由は奪われ、独裁、そのような問題を抱えながらも勢いのあった共産主義国に対抗しようとしたのですね。

 とにかく、ピケティの「21世紀の資本」は、一時的に拡大した格差はいずれ縮小するというクズネッツ曲線を否定する結果となったのです。
これは、経済の政策などにとっては深刻ではないでしょうか。今を我慢して耐えても、全体としての格差は解消されないで、むしろ拡大することを示しているのですから…。


   (参考文献)
     ピケティ 『21世紀の資本』の衝撃を世界一やさしく解説する「いまの世界経済の」の大問題
                                    西村克己 著(宝島社)
     週間ダイヤモンド 決定版 そうだったのか!ピケティ
     日本人のためのピケティ入門 池田信夫 著(東洋経済新報社)
     ピケティ入門「21世紀の資本」の読み方 竹信三恵子 著(金曜日)
     ウィキペディア      
       
        なんと、「21世紀の資本」自体は、今のところ読んでいないのです。スミマセン。