大西 ライフ・クリエイト・アカデミー

身の回りから、世界のさまざまな問題に至るまで、根本的な解決ができる道である文鮮明先生の思想を、その根拠と共に紹介します。

ケインズ主義のその後~マクロ経済学とミクロ経済学

2017-02-18 22:07:06 | 経済
 ケインズ革命以後の経済学には、マクロ経済学とミクロ経済学と呼ばれるふたつの領域が現れるようになったのです。
ケインズ革命とまで呼ばれて経済学、経済の政策に大きな変化を与えたケインズの経済理論以降、国家は経済全般の運営に責任を持つことになったのです。いかにすれば完全雇用や物価の安定が得られるかなど、景気を安定させるための議論はマクロ経済学に納まりました。もう一方のミクロ経済学ではケインズ革命によって荒されることのなかった古典派の経済学がほとんどそのままの形で残り、そこではそれぞれの市場や企業、または労働者や消費者についての経済活動、とりわけ価格や価値について分析するようになったのです。

 世界恐慌当時のアメリカで、フーヴァー大統領は、失業対策の財源のために平和時においては最大規模の大増税、超富裕層に対する大減税、政府の財政支出を減らし、銀行の投機的業務を自由にするなど、その後のケインズ的な経済運営ではあり得ないような政策を次々に行ったそうで、これは当時支配的であった新古典派の経済理論に従ったものだったのです。
おかげで、アメリカ経済はさらに悲惨な状態へと落ち込んでいったのです。
 新たに発足したルーズヴェルト政権はケインズ主義がまだ伝わっていないにもかかわらず、目の前の悲惨な状態を解決するためにケインズ的な政策であるニューディール政策にによって、ダムの建設などの政府による財政の出動がなされたのでした。その評価も定まらないうちに、世界は二度目の大戦へと向かうのでした。

 このようにケインズ理論以前に、例外的にケインズ的な経済政策が実行されたもうひとつの例は、スウェーデンです。そこに至った経済学の動きとして1800年代の末のスウェーデンの経済学者でクヌート・ヴィクセルによる「不均衡累積過程」という理論がありました。後のケインズの理論にも通じる考え方で、貨幣経済である資本主義が不安定であることを示す理論です。これはヴィクセル自身が師と仰いだデーヴィッド・リカードが提唱した、新古典派理論の基礎である「セー法則」を否定する内容であったのですが、ヴィクセルは学者としての誠実さを優先したのでした。
 ヴィクセルの理論に対して強力に対立したのが、スウェーデンの古典派経済学の中心人物であったグスタフ・カッセルで、そのカッセルと対立した次の世代の経済学者たちによってスウェーデンにおける経済の変革は成されました。彼らは政治指導者や公務員と協力し、または自らが政治家や公務員となって成し遂げたのでした。後に国連事務総長になるダッグ・ハマショールドもその一人でした。このスウェーデンの出来事は国家の規模もプラスに働いたのでした。

 ちなみに、セー法則とは、フランスの経済学者、ジャン・バブチスト・セーによって、理論的にはまとまりに欠けるアダム・スミスの理論である著書「国富論」を簡潔に読みやすく、著書である「政治経済学」に批判と賞賛をとりまぜてまとめたものです。その中には供給はそれ自体が需要を生み出すという、その後の経済学にとって、神聖にして侵すべからずとされることになる理論、セー法則を含んでいたのです。
 セー法則をさらに説明すると、生産された財である商品やサービスは、それ自体が需要を生み出すという説です。商品やサービスなどとしての財である全ての供給を買うことのできる有効総需要―現実に支払われた全ての需要―は、財の生産自体から生まれる。
「各生産物が売られる価格から、その生産物を買うに足りるところの賃金・利子・利潤・地代の収入が生まれる。誰かが、どこかで、その収入を全て受け取っている。そして、ひとたびその収入が得られれば、生産された物の価格に達するまでの支出がおこなわれる。したがって過剰生産の明確な対応物である需要不足はありえない。なるほど、販売収入の中から貯蓄する人も一部にはいるかもしれない。しかし、そのように貯蓄しても、彼らは投資するだろうから、支出はやはり保証されている。」
長らく信奉されてきたセー法則は、市場に任せておけば経済はうまくゆく、均衡するという、新古典派経済学の考え方の基礎になったのでした。

 もうひとつのケインズ以前のケインズ的経済政策の例はアドルフ・ヒトラーによるもので、アウトバーンの建設が有名です。景気が好転し、失業もほとんど解消されて、これがヒトラーへのさらなる支持につながりました。しかしその成果の陰にはユダヤの人々の悲惨な犠牲も含まれていたのであり、ヒトラー、ナチス党による独裁という決定的な要因のうえで、政権の前期には傑出した経済運営の力を発揮したホレス・グリーリー・ヒャルマル・シャハトの存在があってこそ、見事なまでの経済復興が可能になったのです。

 さて、民主主義であり、大きな国であるアメリカでは、どうであったのでしょう。
「ニューディール政策を掲げて発足したルーズベルト政権の最初の閣議で、カミングス司法長官は次のように宣言しました。
『現在、アメリカが置かれている状況は、資本主義という制度がアメリカという国家に対して挑戦し、戦争行為を行っているのだ。そのような意味で、アメリカはいま戦争状態にある。したがって、政府は対敵取引法を適用すべきである……』 
 対敵取引法というのは、議会の協議とその同意を経なくても、大統領令によって自在に政策を発動する」ことのできる法律のことです。

 アメリカでのケインズの知名度が広まり、それ以前の経済学にとって脅威として認識されるようになったのは戦後のことでした。戦争がケインズ理論の支持者であるケインジアンを影響力のある地位に着かせたのでした。
「戦争のためのあらゆる政府機関が、多かれ少なかれ、、経済学者の管理または指導を受けた。そしてこのような経済学者の多くは若いケインジアンだった。」
古典派の年長の経済学者たちは、ほとんどこのようなポストに興味を示さず、経済界からの人材はそれだけの能力を持たない人がほとんどだったのです。

 戦中戦後のアメリカで発達した経済学の動きとして、統計が用いられるようになったことがあげられます。この成果はサイモン・クズネッツこよるのですが、サイモン・クズネッツといえば先にピケティのところで問題のある考え方のもとになったとして紹介した方です。
資本主義は自然と格差を解消してゆくという説であるトリクルダウンのもとになった数十年に及ぶ国民所得などの統計の結果である、クズネッツ曲線のクズネッツです。
 しかし当時のアメリカにおいては、反対派の多かったケインズの理論よりも強力な証拠として、クズネッツらの統計は結果を示したのでした。これらは後に、ごく普通に耳にする国民総生産、現在では国内総生産として知られています。ほかに国民所得や失業率などがあります。
国民総生産に対して、それを買うことの出来る国民所得が必要であること、国民所得のうち貯蓄される全てが使用されることはないかもしれず、政府の支出の増加がうまくその不足を埋めてくれるであろうといったことも明らかにされました。
統計という手法は、お金がかかり暇もかかるものの、理論以上の説得力を持つ方法であったのです。

 さらにアメリカでは、第二次大戦中に完全雇用均衡という理想的な状態を実現してしまったのです。「勝利計画」と呼ばれた大戦中の経済は、クズネッツらの統計から得られたデータを基に、アメリカ経済の実力と考えられていた基準をはるかに超えるような目標を立て、それをやすやすとクリアして戦争の勝利に貢献したのでした。
その際に潜在的な労働力やら資本の力を総動員することになり、日常の物資の不足はあっても、経済的にはかつてないほどの良き時代を謳歌したのでした。戦争のゆえに、それまでは考えられなかったほどの規模の国家の財政による積極的な介入の賜物といえるものなのです。 
 また。戦争という特殊な状態は、個人の所得に対する課税の限界税率を、1929年に24パーセントであったものが、1945年には94パーセントまで上昇させることを可能にして、税収を大幅に増やし、さらに格差を縮めることに役立ったのです。
 これらの成果は、経済的な面で政府に対する新しい見方、政府介入に対する依存を生み出すことにもなったようなのです。

 戦後のアメリカでは景気が悪くなるだろうとの、ほとんどの予想とは裏腹に、戦時中に蓄えられた多くの貯蓄があったために未曾有の好景気が訪れることになったのです。そして、それは長続きしたのでした。
さらに、大戦中のアメリカ本土は無傷で終戦を迎えたので、戦火のために国内が荒廃した国々への輸出によって貿易の収支が好調だったのですね。
 さらに時が経って、朝鮮戦争のための支出、東西冷戦による軍備の増強、ベトナムへの介入が深まったことによる支出など、景気を刺激する出来事が重なることになります。
 ケインズ的な福祉の充実も、その性質上、景気の悪くなったときには支出が増え、景気が良くなると支出が減るということで景気のバランスを取る役割を適度に果たしたのでした。

 その一方では、「ケインズ主義は不況と失業という資本主義の病を克服したか。たしかにそれは1930年代のような病からは抜け出すことに成功した。しかしそれにかわって、べつの病にとりつかれだした。第一は都留重人氏(つるしげと:経済学者)のいう”無駄の制度化”でありそれはより多くアメリカにあらわれた。」
それは、投資が、企業の設備投資のように生産手段のために投資された場合、生産の効率が上がり過ぎることで、有り余る製品が市場に供給されることになり、それまでよりもいっそうの需要が作り出されないと、供給過多になります。その結果、過大な生産の能力に対して実際の生産量とのギャップがどんどん開いてゆくことになります。工場とかが、遊休化しちゃうってことですね。投資が生産的であるほどギャップが大きくなってしまうのです。

 「これを回避するひとつの方法は、生産能力のない投資―つまり無駄な投資をすることであった。第二次大戦後、この無駄な投資は軍需費という形で具体的に大量におこなわれるようになった。」
冷戦の時代にあっては、軍需費を無駄な投資というのは失礼というものだと、それどころかとんでもないことに思われます。しかしながら、全世界的に見るならば、これだけの投資を敵対的なものでなく、平和的に、共生的に用いることができたならば、どんなにか素晴らしいのにと思うのです。
 生産能力のない投資が大量におこなわれた結果、軍と産業の癒着といた問題が論じられるようなこともあったのです。軍事ということの性格上、そこには機密情報などが存在し、さらには一般的な商品ではないため軍備のコストや適正価格といったことは分かりにくくなっているのですね。
 これは広い意味では、官と民の癒着のように、日本的に言うと天下りや汚職みたいな問題につながってくるのでしょう。
国が景気や雇用を安定させるという名目でお金を使うということは、そこにたずさわる人間の資質次第で、胸を張ることのできる生き方にも、恥ずかしい生き方にもなってしまうということなのでしょう。

 もうひとつ、別の病、新たな病があらわれたのです。
「物価がわずかずつではあるが上昇してゆき、それが国際収支を悪化させる可能性を持ちだしたことである。」
戦後のアメリカやイギリス、日本でも生産性が上昇し続けているときにも、物価の上昇が続いた。特にアメリカでは、軽い景気の後退が起こった時期にも、価格の上昇は続いた。寡占企業とその労働組合のなせる業であったのです。
物価の上昇は賃金の上昇をさそったのです。さらに、それは物価の上昇を引き起こすことに…。
ガルプレイスによると、物価騰貴は完全雇用に近い状態のとき、または資本資源の完全利用に近いときにおこるとされています。景気のいいときってことでしょうか。物価の上昇がどこの国でも一様におこるのでなく、上昇の度合いが違うと、物価の上昇しすぎた国は輸出がしにくくなり、輸入が増えて国際収支が悪化するようになります。これ貿易赤字ということですね、多分。
 
 1970年代中ごろのアメリカやイギリスでは「スタグフレーション」というインフレでありながら景気が停滞するという新しい言葉がつくられるほど、困難な経済状態になったのです。とりわけ1974~75年のアメリカでは年間の物価上昇が14パーセントにもなるという二桁インフレがおこりました。
1973年末からの、OPECの活動による石油価格の大暴騰であるオイルショックも当然、インフレの要因であったのですね。

 思えばケインズ理論が生まれた時代背景からすると、それは不況や失業のための産物といえるのです。そのためインフレに対するケインズ経済学の対策は、深刻な問題を抱えていたのです。その問題とは理論的にはなんら難がなくても、いざそれを政治的に実行しようとしたときに現れることになりました。
 不況の対策である政府による公共事業や失業対策、福祉政策などの財政の出動とは逆に、インフレに対する理論としては増税と財政の引き締めという方法をもっていたのですが、これを政府の与党が政策として実行するには難しすぎたのです。それはこれらの政策を受けとめる国民の立場で考えてみると良く分かることで、増税や財政の引き締めを実行する政府与党に対しては支持することが難しいのが人情ではないでしょうか。
さらに、効果がなかなか現れないという問題もあったのです。

 当時の賃金・価格インフレと呼ばれた物価上昇の圧力をつくりだしたのは、大企業など、寡占企業の組織体の間の相互作用によるもので、強い企業に対して強い労働組合による賃金交渉の決着が物価上昇の圧力になり、物価や生計費の上昇が賃金を上昇させるように働いたのでした。この相互作用が、賃金・価格の循環上昇と呼ばれるようになったのでした。
 理論的な影響は、北欧や日本では少なかったようで、賃金・価格インフレを現実の問題として比較的容易に受け入れて、現時点の価格体系から見て可能な限度に賃上げを制限することが通常の政策として認められ、物価の安定が図られたのでした。
現実にみあった水準に対して、物価や賃金が上がりすぎたらそれを素直に認めて、ストップをかけるという、ごく当たり前のことでしょうか。
 しかし、経済学の理論が強い影響力をもっていた国々では、あくまで賃金や価格の決定は古典派の理論を土台にしたミクロ経済学の領分であったのです。そのミクロ経済学においては、賃金と価格の循環的上昇は起こるはずのないものだったのです。

 スウェーデンの経済学者ヴィクセルの不均衡累積過程よりも、ケインズの「一般理論」の中にある貨幣経済に対する不安定さは、より安定したものになっているとされています。この原因とケインズの考えたものこそ、労働組合であり、労働者の賃金が引き下げられることへの抵抗であったのです。これらが、市場をある程度は安定させると…。
 しかし、ケインズがこのように考えた、労働者、労働組合、加えて企業の動きが、結果としてケインズ経済学に対してのとどめを加えることになったのです。
言葉を変えるならば、古典派理論がそのままに残ったミクロ経済学に、ケインズ的なマクロ経済学が行く手を阻まれることになったのでした。


(参考文献、引用)
 「経済学の歴史」   ダイヤモンド社 J・K・ガルプレイス 著
 「人間の経済」       新潮新書 宇沢弘文 著
 「経済学の宇宙」 日本経済新聞出版社 岩井克人 著
 「ケインズ」        岩波新書 伊東光晴 著
 「ガルプレイス」      岩波新書 伊東光晴 著
  ウイキペディア
 「広辞苑」         岩波書店 


 



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