大西 ライフ・クリエイト・アカデミー

身の回りから、世界のさまざまな問題に至るまで、根本的な解決ができる道である文鮮明先生の思想を、その根拠と共に紹介します。

ホットな樋口先生の主張

2014-02-19 23:39:46 | 人生
 先回、パスカルの言葉を紹介したのですが、パスカルがそういったからといって、頭でお茶が沸くぐらい(古い表現!)、懸命に考えても、分かるという保証はないし…。それでもって、精神に異常が、という事態になっても。私は保障する力はないしということで、そのようにならないための、安全な方法というものを考えてみたいと思います。
 私、尊敬しております考古学の先生がいらっしゃいます。樋口清之先生です。静岡の登呂遺跡を発見したりという、すごい方なのですが、その昔、子供電話相談室のコメントもされていました。ずっと前から、この世にはいらっしゃらないのですが、「梅干と日本刀」という有名な本があります。戦後に植えつけられた価値観から、西洋から入ってきたものこそ合理的で素晴らしい、といった考えが強くなっていた時代に、日本人の伝統や技術の素晴らしさを堂々と見直そうといった本だと思うのです、これが…。
 本の中で、若き日に四国巡礼にゆかれたときに、ハンセン氏病の方をたくさん見かけたのに、帰って間もなくハンセン氏病は伝染病であるということが分かり、香川県の小島に強制的に収容、隔離されることになった。人間のもっている自由を根こそぎ、突然に奪われてしまった。ということに出合って感じられたところを抜粋させていただきます。
「私たち人間全部が肯定したもの、それが科学的真理だが、人間の真偽の判別能力には限界がある。見えないものもあるし、聞こえないものもあるからだ。その不完全な人間の説明だけが科学的だとなると、自分でよく確認できないことについても、”そうだ、そうだ”と、多数決で、それを真実にしてしまうことがあるだろう。しかし、真実は他にあるかもしれない。科学というものが、一日で全く別の真実を言い出すものだとすれば、とてもではないが、西洋の科学的発想だけに頼っていては、真実など発見するのはむずかしいと思った。科学的真理というのは、つねに相対的でしかない。… たとえていえば、先ごろからオカルトが流行していて、それが真実かどうかを議論している。それはいい。だが、私はいろんな不思議な現象はあり得ると思う。その理論を私は知らないだけで、その他にもわからないことはいっぱいある。それを、オカルトは科学的に説明できないと理由で、言いかえるなら、自分がわからないことについて ”それはありえない”という言い方をするのは、不遜だと思う。科学は絶対的であっても、万能ではないのだ。」
 今日のテーマに、都合の良いところを抜き出しましたが、気になる方は、読みやすい本なので、お勧めです。
他にも「米と日本人」という本では、カッパ信仰に触れられていて、これはひとつには、子供を危ない場所に近付かせないための知恵であり、現代ではそのような信仰は失われているが、どちらのほうが幸せなのかということを問いかけておられます。
 しかし、何ですね…。今日の結論は、わからないものはわからないということになってしまうのでしょうか。それでは、あんまりですし、最初のところの問題提起に対しての答えも、いまひとつ出ていないという感じでしたので、今回の話では、否定的な感じを覚えてしまうような科学について、今後考えてみたいと思います。


熱きパスカルのテーゼ

2014-02-16 00:16:22 | 人生
続いて、パスカルの話です。
パスカルの著書といえば「パンセ」が有名であり、「人間は、考える葦である。」という一文は有名ですが、当然、もっといろいろなことが書かれています。
かつて、戦場に向かったフランスの若者たちが、共にたずさえた本で一番多かったのは「パンセ」という伝説をもっているとか。
その「パンセ」の中で、私が一番心に響いてしまったところを紹介したいと思います。
最近もはやっているのかどうかは、分かりませんが?そのままだとかなり長いので、超訳っていう感じで紹介します。
「だれか他人の小さな問題ではなく、われわれの全部にとっての問題。霊魂の不死といことは、われわれにとって非常に重要な問題であり、感情を全てなくしでもしない限り、無関心ではいられないはずだ。それは永遠の幸せという希望があるのかないのかの問題であり、それによっては、われわれの考えや行動がまるで違ったものになる。その究極の目的である一点を定められなくては、正しく一歩を踏み出すことはできない。この問題にまじめに悩み苦しみ、最も重要な課題とする人々には、ひたすら同情する。考えても分からないからといい加減にしている人に対して、私はいらいらさせられる。または、哀れみというより憤りを覚える。」という感じに理解しています。ちょっと超訳とも言い切れないかも…。
 パスカルは17世紀のフランスの哲学者です。科学や数学においても優れた才能を示し、優れた業績を残し、社交界にも身をおいたことのある方です。そのパスカルの晩年に「パンセ」が執筆されました。39年の生涯に最晩年のことです
本来は、キリスト教弁証論としての著書の準備をしている途中、39才で亡くなった後、断片的に残されていた原稿が「パンセ」という名で出版されたのだそうです。
 本来は、それを元にちゃんとした一冊へと推敲を重ねてまとめあげ、洗練されてゆくはずであったものが、作者の死のために、途中で取り残された文章は、より作者の熱い思いのまま世に出されることになって、命懸けの場にゆかなくてはならなかった多くの若者に愛され、心の支えになったのではないか。そんなふうにも思ってしまいます。




内村ルツ子さん、最期の一言

2014-02-14 00:25:09 | 人生
 札幌農学校、現在の北海道大学の二期生に、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾(敬称略)という、そうそうたる方々がいらっしゃったのです。
新渡戸さんは、戦前、太平洋の架け橋にあろうとした方で、一時期、お札の肖像にもなっておられました。宮部さんは…、初代の道知事さんでしたか? よく分かりません…。すみません。
その中で、内村さんはキリスト者としての生涯を貫かれたのでした。そもそも当時の札幌農学校の初代教頭は、「少年よ、大志を抱け。」のクラーク博士でした。実質的には学長のような立場で約1年間の在任中に、キリスト教に改宗した一回性の強力なプレッシャーによって、かの三名もキリスト者になったのでした。
 内村鑑三は、あれやこれやの経緯を経て、「聖書の研究」という雑誌を創刊し、それを通じて参加者を募り、夏季講談会という合宿的な勉強会を行ったのでした。全国から集った参加者に理想とする教育を行い、その教育を受けた参加者がそれぞれの地元において影響を与えて、さらにその理想を広く行き渡らせようという大志を抱いての計画と、私は理解しております。
しかしながら、内村鑑三にとって、最も理想に近い若者であった、娘のルツ子が若くして、天に召されたのでありました。息をひきとるまぎわの一言が、「もう。ゆきます。」であったことから、鑑三は黄泉の世界の存在、つまりはあの世の存在を確信したのでした。さらに、自分がどんなに懸命に教育を行っても、死は簡単にその存在を連れ去ってしまうことをも悟ったのです。
ルツ子の埋葬の場で、鑑三は土をつかむと、その手を高くつき上げ、娘は黄泉の国へと嫁いで行くのであると、『ルツ子さん、バンザイ!」と叫んだのでした。その場に参席した、当時の弟子、矢内原忠雄はその叫びに、雷に打たれたようになったそうであります。
 自らの力の限界を強く悟った鑑三は、その後再臨運動へと向かうのでありました。
参考文献は、岩波新書の「内村鑑三」です。ずいぶん前に何回か読んだままなので、ちょっと心配ですが…。ありがとうございました。





臨死体験とエリザベス・キュブラー‐ロス

2014-02-13 00:37:14 | 人生
 エリザベス・キュブラー‐ロスという方がいらっしゃいまして、この方はフロイトの教えを受け継ぐ心理学者だそうです。
先回、予告したかのようになっいました内容については、またそのうちにということで、今回は臨死体験を考えたいと思います。
臨死体験というと、心霊の研究家が懸命に調べたりして、世に送り出したイメージをもたれている方が多いのではないかと思いました。何を隠そう、私がそのように思っていました。一面においては、そういう発展の方向もあったのではないかと考えられます。しかし、キュブラー‐ロスさんの場合、心理学者で、臨死体験を世に広めたお一人なのですが、医療の方面から入ってゆかれたのでした。ココで、心霊研究家の場合とは違うと言える点は、はじめから目的を持った積極的なアプローチではなく、思いがけず偶然の出会いが積み重なった、ということが大きな意味を持つのではないかと思うのです。
キュブラー‐ロスの先生というのは、心理学者であり、精神分析の創始者であるフロイトです。フロイトは心のさまざまな働きを仕事と考えました。その中の一つに喪の仕事というものがあります。近親者などを亡くした悲しみを癒すことや、死にゆく人を安らかに送るなどのことですが、キュブラー‐ロスは後者の実践をすることになったのでした。
 かつてのイギリスの医療は…、ずっと昔のですが、…、医学的に治る見込みのない患者に対しては、さばさばと冷たいものであったそうです。そのような患者を、せめて安らかに送ってあげたいという行動は、現在のホスピスに精神的には通じる活動といわれています。その結果、今日、臨死体験と呼ばれる多くの体験談が、期せずしてキュブラー‐ロスの元に集まるようになったのでした。
実際、患者は医者にもそのような体験を伝えたりしたものの、脳の機能低下などによる幻覚だろうということで、真剣には取り合ってもらえなことがほとんどだったようです。
最近では、お迎えという現象が死に対する恐怖をやわらげてくれるというので、医療の世界でも注目されているみたいに聞きますが、臨死体験でも同じような効果が報告されています。実際にあるかどうかは別にしても、人間にとっての必要性はまちがいがなくあると言えるように思います。


心の癒し

2014-02-09 17:56:45 | 人生
 昨年、NHKで放映された番組です。東日本の震災で、身内の方、お母さんやお子さん、奥さんなどをなくされた四組くらいの方々の体験談が、紹介されていました。どう考えても、どうしようもなかったと思える状況だったにもかかわらず、何とか助けられなかったかという思いに、さいなまれ続けておられる方や、もうどうにも会うことができなくなったわが子に対して、気持ちのやり場がなくなってしまった親や夫。しかし、ずっと思い続けた相手の姿に、確かに再会を果たしたり、その人以外からは考えられない、しるしを受けとることで、明らかに心の変化…、もちろん良いほうに変化、されているのを紹介していました。それは、当人の話を信じる以外、客観的な証拠はないと思われます。しかし、心の癒しは、確かとしか思えません。
現地にボランティアとして訪ね、カウンセリングを行ってこられた方は、自分たちが何回も面談を重ねても、このような出会いにはかなわないといったことを、語っておられました。
 心理学者のユングは、現代に生きる我々は、かつて人々が心の支えとした神話を、科学の発展などの代わりに失ってしまったと考えたのでした。そこで、共通の神話の代わりに、個人の神話をもつことが必要だと考えたのでした。個人の神話とは、スピリチュアルな体験のことです。そして、そのような考えは、現代の社会で、さまざまな依存症という症状に苦しむ多くの人々の支えになる方法を提供することになるのです。それにつきましては、また次回に…
 



生きるということ

2014-02-08 23:26:21 | 人生
 「生きていることの意味について」、などと申しますと、ナニやら哲学的になってしまいます。
しかし、いざという時、例えば生きることがピンチに陥ったときには、おおいに支えとなるのではないかと思います。
「死ぬ」という前提を考えると、生きることの意味が見えやすいなどということを聞いたりします。といいますか、そんな感じのことを誰かが言っていたのを聞いた覚えがあります。
もう一歩進んで、死んだあとのことを考えるというのも、大切ではないかと思います。これは、生き方ということでの価値観に関わってくるのではないかと…。
死んだあとに…、この世での死ぬということです。あの世、死後の世界があるとするならばどうでしょう。これは一般的には、はっきりとした答えが示されてはいないと、私は認識しております。
一作年、お亡くなりになった、流通評論家の金子哲雄さんは、生前に準備されていた、自身の葬儀の参列者への挨拶状に、「第二の現場では、全国どこでもすぐに行くことのできる『魔法のドア』があるとうかがっております。」 と、その存在を思わせる内容を残しておられます。
他にも、身近な人を事故や不幸な事件でなくされたような方々が、せめて天国でしあわせにあって欲しいと願われるのをニュース映像などで目にすることがあります。このような心情に対しては、全くそのとおりと感じるのが、人情というものではないかと思うのです。いや、人情だけでなく、なにやら、そこはかとなく天国はあるのではと感じているからではないかと…。でも、別な深刻さで、亡くなり行こうとする人に、本当に死んだあとに行くべき世界があるのかと問われたらどうでしょう。とりあえず不安を取り除けたらと、「きっと、あるよ。」などと調子よく言いながら、心が痛みを覚えてしまうということになりかねないか…、などと思ってしまいます。
と言うところで、長くなりそうなので、続きは次回に…



共に世の中を天国に変えませんか。

2014-02-06 23:45:34 | 人生
 全ての人が。しあわせに、安心して生きてゆくお琴のできる世界。それを一言で言うならば、天国という言葉が最も相応しいと思います。
何かあったときのために、老後のためにと、保険に入り、たくわえを考えなくてはならないということが、常識となった社会に生きている私たち。それは、不安と戦い、不安を少しでも取り除いて、来るべき将来に備える。そのために、現在は多少の苦労や辛さを耐えてゆく…。そこには何かが抜け落ちているような気がします。それは、私たちは何のために生きているのかという問いかけではないでしょうか。どうやって生きていくのかということが、現実に生きてゆくことの困難から、全てになってしまっているような気がします。忙しい日々の中にあっては、難しいことであると思います。
そして、そのような問いかけは、答えのないどうどうめぐりへの入り口かもしれません。しかし、その答えを示されたのが、文鮮明先生です。ある方は、全ての問題を解決する方程式である、と言いました。
明確な目標を持ち、不安や心配もない世界。ただただ歓びと、幸せとを感じて生きてゆく。妄信ではなく…。これは単に信じることではなく、現実のさまざまな問題に即しているのであり、そうであるならば、さまざまな学問の分野においても、未解決であったり、間違っているところの全てを解決することができるはすです。
 これから、その実際を少しずつ示してゆきたいと考えております。