くもり空の下で……

アルコールとギャンブル。依存症からの回復と成長を目指しながらの日々の雑感を発信。趣味の渓流釣りなども公開しています。

AA、GAの "神の概念" について (追記)

2018-01-25 20:30:00 | 日記
神様、私にお与えください。

自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
変えられるものは変えていく勇気を。

そして、二つのものを見分ける賢さを。

私の意志ではなく、貴方の意志がかなえられますように。





これはAA、またはGAなどのミーティングの終わりに、締めなどでよく唱えられている『平安の祈り』です。




以前の私のブログのなかで
"AA,GAの神の概念について"
というタイトルの記事を書いたことがありました。
AA、GAの神の概念について - くもり空の下で……



続きはまた後日にでも………と書いておきながら、すでに3ヶ月以上が経過してしまいました。










完全に忘れてましたね。








たまたま自分の書いた記事を読み返していたら気づきました💧





せっかくですし、最近ネタも切れていたので、もう一度この"AA、GAの神の概念"について考えてみたいと思います。
※始めに断っておきますが、これは私個人の考えであり、AA、GAという団体としての考えを述べたものではありません。







AAではアルコールについて、GAではギャンブルについての問題のある方々がミーティングには参加しています。
このミーティングに出席しているような状態の人は、かなりの重傷者であることは言うまでもありません。
私ももれなくそうなりますが………

「あ~、もう!!
止めたいけどやめられないんだよ!
いつまでこんなことを繰り返せば気が済むんだよ~!!
このままでは死んじまうな、オレ(私)…………

誰か助けて。」



AA、GAのミーティング会場を探し、その扉を開け入ってくる人。
その人は上に挙げた例のように、やはりそれなりの理由があってからくる人たちがほとんどです。
自分自身の力ではもうどうしようもない。
誰かに頼ってはみたけれど、やはり止めることなどできなかった。

という人たちばかりのはずです。



もし、他人からの助言や、自分自身の生活改善だけで酒やギャンブルを止め続けることができたのならば、



きっとその人は"依存症者"ではありません。




では、「自分は依存症だよな…」
と認めた人たちはどうすればいいのか?




それは、




"自分を超えた大きな力"を見つけるしか方法はありません。

なぜなら、自分自身の力で、今までイロイロな方法を試してみてもダメだったからこそアナタは今、AA、またはGAに来ているはずなのですから。



では、その"自分を超えた大きな力"を見いだすためにはどうすればいいのか?
AA、GAでは、ミーティングにできる限り出席すること。そして"12ステップ"においては、今までと同じような自分自身の考え方、行動の習慣を続けてゆくのではなく、"自分なりに理解した神"の配慮に自分を委ねてみてはどうか。
という提案(←ここ重要※あくまでも提案です。強制ではありません)をメンバーに勧めています。

ミーティングに出席することによる"気付き"もたくさんありますが、今日はミーティングをテーマにするのではなく、この"自分なりに理解した神"について考えてみたいと思います。




さて、
ここで「神」という言葉が出てきました。
厳密に言うと「自分なりに理解した神」



まず、この"自分なりに理解した神"……ってなんぞや?
って思いますよね。




その答えは、
私もかれこれAA、GAに繋がってから2年ほど経ちますが、まだ明確なものはなく、現在も探している最中です。
もしかしたら私は死ぬまでこの「自分なりに理解した神」を見つけることなどできないのかもしれません。
ですが、もし見つけることができなくとも、この"自分なりに理解した神"を探してゆくことこそが、回復への道なのかもしれません。





「そこーにゆけばー、どーんなゆーめもー、かーなうとーゆーよー。」





……………ってヤツですよ。







失敬(-_-)💧







最近………
少し、感じることは

自分なりに理解した神は、その人たち一人一人の心の中に、いつもいる……

のではないか?ということです。




これは、キレイごとのようにも聞こえますが、なぜそう思ったのかと言いますと、今年も初詣に繰り出している多くの参拝者の姿を見かけました。
その時にふと思いました。

もし、初詣などで賽銭を握りしめ参拝の列に並んでいる方に、



「あのー、すみません。
貴方は神様って信じてます?」

と聞いてみたとします。
おそらくその方は、信じているからこそお賽銭を用意し、手を合わせに来ているに違いありません。




そして……



もし、その同じ人が不運にもパチンコで大負けしたとか、絶望している人生のドン底だったとしましょう。
その時にまた……



「あのー、すみません。

貴方は神様を信じてますか?」




と聞いてみたとします。







するとどうでしょうか、




…………
…………
…………




おそらく、






















「ぶっ○ろすぞオメー💢」
(アイデンティティ風に)





と、言われるか無視されるかのどちらかではないかと思います。








なにが言いたいのかと言いますと、




神を信じる心も、信じない心も、その時の自分の置かれている状況、気持ち次第で変わってしまう。


のではないのか?



仮に、メチャクチャ信心深い人であったとしても、自分自身の身の回りで起きる様々な状況の変化によって、信じているもの、あるいは信じている人への想いも変化しうるのではないのか、

………と思うのです。







何事にも揺るがない、自分の信じる核(軸)となるものを見つけられればいいのですが………




これ以上はまたの機会にするとしましょうか。






まぁ、わざわざ力説するまでもないような話ですが(^_^;)