ハウスから出てきたニャンのお母さんがカーペットにドッタンと長々と延びるのを見て
動きが緩慢になってきたなぁとつくづく思う。
たまに癇癪を起こす自分を反省するようにツボを暫く撫でてあげる。
撫でながら、ニャンの親子って1年くらいしか変わらないのにしっかり親子は親子なんだなぁと感心する。
1年違うだけで、親は何事も落ち着いているし、気も強いが捨て猫だったせいか骨格が物凄くか細い、体重はホントに軽い。
娘は栄養も行きわたり、いつまでも学習も出来ず、ドアの開け閉めの度に事件でも有ったかのように鳴く。
多頭飼いをしなかったら経験しなかった悲喜交々載せとこうかな、どうしようかなと思いつつ、時々覗く「ワンコ」のブログが気になって覗いてみると
もう、身罷られた記事なっていた、もしかして春ごろまでかなぁと想像していたのでフッと気が抜けてしまった。
別れっていつも予想を外してしまうんだだなぁ、最近同じ思いを繰り返している気がする。
父ともそう、ゆっくり話も出来なかった、顔を見に行って、新年も早々だった、おじさんもおばさんも未だ未だいつかゆっくりとと漠然と思っている間に予想を覆して気が付いたら。。。
だから、我が家のニャン’sだって高齢だし、いつあっけなく行ってしまわれるかとついつい毎朝声をかけてしまう。
親は引き戸もドアノブも勝手に開ける学習が済んで、外へ出たいと私が玄関へ向かうと嬉々と自分も出ると張り切って三和土で待っているが、一言「ダメ!」と声をかけると、もうとっさに引き返す。かしこいやん!と親バカ
娘はいつまでもドアの開け閉め一つ覚えないで度々に大声で要求する、自分からすり寄ってくるくせにこちらが親しくするのを拒む一時わめくが、あきらめも良い、マイペース。
さっきから何をしたいんだか手を伸ばして袖を引いている、「何?言うてみい」
あと一方の娘は、声は高からずも、目的を遂げるまで悲壮な声で絶え間なく鳴き続けるのだ、だから、解っていても時々「るさい!!」と人間の都合で大きな声を出す、「何がしたいか言って見ろ」とかなんとか焦れてわめく事もしばしば。
赤ちゃんだったら育児不適合?
何故か家族で言い争いが起きると、おどおどと落ち着かなくウロつくあたり気配は解るん?と言い争いながらも猫観察する。
それもこれも詫びながら、ツボを撫でては「長生きしろよ」と声をかける
老いの共有かも知れない。
数日前、高齢の母に電話をして声を聞きながら「何か欲しいものは無い?」と聞くと
「んー別になぁ」と親孝行も出来ない鈍い反応の返事だった。
季節だから「イチゴ」でも送ろうか?と言うと「有り難う」とは言う。
一応遠慮するようだ、昔の人である。
今朝、送った旨の電話をしながら声を聴いてみると「送って貰っても覚えて無いかも知れない・・・頭が年取って何も覚えてられなくて・・・」とこぼした。
そうかも知れない、今は週3回ディーサービスを受ける身になったし
「今日届いたら覚えているだろうから食べてね」「明日忘れてたら、届いたら食べてね」と言って切った。
どうでも未だ自分のボケぶりを嘆くことが出来ている、とそれだけでも嬉しいと思う。
面倒を見てくれている家族に、みんなで食べるくらい送ったから母にも食べさせてと頼んで置く。
もどかしいけれど、他のものの手を借りて老いる母を看ていく、これからも身近にいろんな事を感じる、その数は増えて行くようだ、だんだんそれに慣れて行きながら自分も老いの眼をかけて貰って行くんだろうな。
桜何回見に行けるだろうか。