訃報を受け、あるお檀家さんの家へ枕経をあげに赴いた。
亡くなったのは85歳のお祖母さん。
お祖母さんのご主人はすでに他界しているので、家のお仏壇を拝見。
ご夫婦が揃いの戒名になるように、ご主人の戒名を調べるつもりで。
お仏壇を覗いてみると、手書きのメモが目に入った。
「祥室貞兼。お授戒にて永平寺の禅師さまに頂いたありがたい戒名だから、これを使ってもらうように。遺影については適宜選ぶように」
といった内容が書かれていた。
ひょっとしてと思い、遺族の方に尋ねてみたらやはり。
亡くなったお祖母さんの手書きのメモ。
思わずうなりました。
仏教の“お授戒”とはキリスト教などで云う“洗礼”にあたります。
“お授戒”を受けると、“クリスチャン・ネーム”ならぬ“戒名”を授かります。
私の寺でも平成13年に、私の新住職披露に併せて“お授戒”をお勤めしました。
その時には160名ばかりの方が“戒名”を授かっています。
「戒名って亡くなってからもらうものじゃないの?」
という認識の方がほとんどかと思いますが、生きているうちに授かっておくのが本来、というか理想です。
書道や茶道など“道”はさまざまですが、何れの道でもその道で生きていく決意が出来たら師匠さんから普段の名前とは別の名前を授かります。
戒名とはつまり、“仏道”に入って“ほとけの子”として過ごしていく方の名前です。
ほとんどの方は亡くなってから戒名を授かりますが、“遅くとも亡くなってすぐにでも仏道に入って頂き、ほとけの子となって頂く”わけです。
ということは、仏教の思想には、亡くなったら「ハイ、ソレマデヨ」といった考えは決して無いということになります。
仏の“道”ですから、ここまでたどり着いたらそこで完成ということはありません。
ずっと続いていくからこその“道”です。
生をかえ身をかえても仏の道を歩んで踏み外さないという強い意志がそこにあります。
「いま楽しければそれでいいじゃん」
というような刹那享楽的な生き方では“道”は成り立ちません。
亡くなったのは85歳のお祖母さん。
お祖母さんのご主人はすでに他界しているので、家のお仏壇を拝見。
ご夫婦が揃いの戒名になるように、ご主人の戒名を調べるつもりで。
お仏壇を覗いてみると、手書きのメモが目に入った。
「祥室貞兼。お授戒にて永平寺の禅師さまに頂いたありがたい戒名だから、これを使ってもらうように。遺影については適宜選ぶように」
といった内容が書かれていた。
ひょっとしてと思い、遺族の方に尋ねてみたらやはり。
亡くなったお祖母さんの手書きのメモ。
思わずうなりました。
仏教の“お授戒”とはキリスト教などで云う“洗礼”にあたります。
“お授戒”を受けると、“クリスチャン・ネーム”ならぬ“戒名”を授かります。
私の寺でも平成13年に、私の新住職披露に併せて“お授戒”をお勤めしました。
その時には160名ばかりの方が“戒名”を授かっています。
「戒名って亡くなってからもらうものじゃないの?」
という認識の方がほとんどかと思いますが、生きているうちに授かっておくのが本来、というか理想です。
書道や茶道など“道”はさまざまですが、何れの道でもその道で生きていく決意が出来たら師匠さんから普段の名前とは別の名前を授かります。
戒名とはつまり、“仏道”に入って“ほとけの子”として過ごしていく方の名前です。
ほとんどの方は亡くなってから戒名を授かりますが、“遅くとも亡くなってすぐにでも仏道に入って頂き、ほとけの子となって頂く”わけです。
ということは、仏教の思想には、亡くなったら「ハイ、ソレマデヨ」といった考えは決して無いということになります。
仏の“道”ですから、ここまでたどり着いたらそこで完成ということはありません。
ずっと続いていくからこその“道”です。
生をかえ身をかえても仏の道を歩んで踏み外さないという強い意志がそこにあります。
「いま楽しければそれでいいじゃん」
というような刹那享楽的な生き方では“道”は成り立ちません。