瀬戸の住職

瀬戸内のちいさな島。そこに暮らす住職の日常。

戒名

2006-12-13 | Weblog
訃報を受け、あるお檀家さんの家へ枕経をあげに赴いた。
亡くなったのは85歳のお祖母さん。

お祖母さんのご主人はすでに他界しているので、家のお仏壇を拝見。
ご夫婦が揃いの戒名になるように、ご主人の戒名を調べるつもりで。

お仏壇を覗いてみると、手書きのメモが目に入った。

「祥室貞兼。お授戒にて永平寺の禅師さまに頂いたありがたい戒名だから、これを使ってもらうように。遺影については適宜選ぶように」

といった内容が書かれていた。

ひょっとしてと思い、遺族の方に尋ねてみたらやはり。
亡くなったお祖母さんの手書きのメモ。

思わずうなりました。


仏教の“お授戒”とはキリスト教などで云う“洗礼”にあたります。
“お授戒”を受けると、“クリスチャン・ネーム”ならぬ“戒名”を授かります。
私の寺でも平成13年に、私の新住職披露に併せて“お授戒”をお勤めしました。
その時には160名ばかりの方が“戒名”を授かっています。

「戒名って亡くなってからもらうものじゃないの?」

という認識の方がほとんどかと思いますが、生きているうちに授かっておくのが本来、というか理想です。

書道や茶道など“道”はさまざまですが、何れの道でもその道で生きていく決意が出来たら師匠さんから普段の名前とは別の名前を授かります。

戒名とはつまり、“仏道”に入って“ほとけの子”として過ごしていく方の名前です。

ほとんどの方は亡くなってから戒名を授かりますが、“遅くとも亡くなってすぐにでも仏道に入って頂き、ほとけの子となって頂く”わけです。
ということは、仏教の思想には、亡くなったら「ハイ、ソレマデヨ」といった考えは決して無いということになります。

仏の“道”ですから、ここまでたどり着いたらそこで完成ということはありません。
ずっと続いていくからこその“道”です。
生をかえ身をかえても仏の道を歩んで踏み外さないという強い意志がそこにあります。

「いま楽しければそれでいいじゃん」
というような刹那享楽的な生き方では“道”は成り立ちません。

2006-12-12 | Weblog
平成18年もあと僅か。
今年の世相を表す漢字は“命”と決まり、京都清水寺の貫主さんが特大の色紙に揮毫なさっていた。
皇族に新しい“命”が生まれた明るいニュースがあった一方、いじめ自殺や幼時児童虐待、親殺しなどの“命”が軽んぜられるニュースも多い一年だった。

私事、近々本堂に張り出す為の来年の法事繰り出しを書き続けている。
○○回忌、命日イツイツ、ドコソコのダレソレ。
といった具合に巻紙に書き連ねていく。
350回忌の古い方からから書き始め、今日ようやく50回忌まで進んだ。

この作業を続けていて感じることがある。

「日本人の命も、ついこの前までは“はかない”ものだった」

例えば、昭和17年が来年の66回忌にあたるが、この年(私の寺では)亡くなった方は62名。
うち、子供が37名と半数以上。

ちなみに兵隊さんの死者は62名中10名。
昭和18年から昭和20年の頃はさらなる割合を占めてくる。
もちろんほとんどが10代から30代の青少年男子だ。

お経には“露の命”とあるが、まさに葉の上に一時留まった露の如きはかなき命、葉が傾いてはハラリとおちていってしまった。

すこし時間が進んで現在。
あれほどはかないはずだった命を、何のためらいも無いかのように奪い、捨ててしまうような事件が毎日のように報道されている。

「生きたくても生きられなかった命があることを考えて、自分の命を大切に」

などと言うつもりはない。
そんな理屈の問題ではない。

生まれたからには死ぬ瞬間まで生きにゃならんのです。
全ての命あるものにとって当然のことです。

もし死にたいと思う人がいたら、命を絶ってしまう前に“ワタクシ”を捨てる努力をして頂きたい。
その努力は2500年前にシッダルタ王子(のちのお釈迦さま)がなさった事であり、そののちも仏の道を志した先輩達がしてきた事です。
あなたの肉体を支配していて、しかもあなたがそれを認めている“ワタクシ”なんて何の値打ちもありません。
“ワタクシ”を捨てられたら、死ぬほどの悩みでも誰かに相談するくらいどうってことないでしょう。

“命”を捨てることと“ワタクシ”を捨てることは全く別。
その“命”は決して“ワタクシ”とイコールではないですよ。
その“命”は決して“ワタクシ”のモノではないですよ。


山の木々をご覧下さい。

葉はその身を枯らして地面に散っていくのではありません。
木々が新しい命のために葉を落としているのです。
そうすることによって木の命を保っているのです。

その証拠に、立ち枯れした木の枝先の葉は散っていくことが出来ません。
葉が散っていくのは、木々の“いきいき”とした命のはたらきのワンシーンでありました。
もちろんその葉に“ワタクシ”などありません。

木々の命は山の命へとつながっていきます。