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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約④

2024年06月09日 12時51分30秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約④





第四章 証果
 求めるべき真理を明らかにし、そのために発心して戒定慧の修行により、ついに煩悩を断じて菩提を証得し涅槃に到る、これを証果という。三学に小乗大乗があるように、証果にも小乗の証果、大乗の証果の別がある。

 第一節 小乗の証果
 小乗の証果に、声聞と縁覚と仏果との別がある。

第一、声聞の果位 四向四果の別があり、この八位とは、預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果であり、初めの二位は見惑(我見をもととする身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見)を断ずる十六心のうち十五心までを断ずるのが預流向で、預流果は第十六心を断じ、見惑を断じ尽くし四諦の真理を証得して得られる。のちの六位は思惑を断じて得られる。
 欲界の思惑に九品があり、その六品までを断じて一来向があり、六品を既に断じたる位を一来果という。さらに欲界の九品までを断じて不還向があり、九品を断じて欲界に生ずべき因尽きた位を不還果という。色界の四禅定と無色界の四空定の八地にある微細の煩悩を断じつつ阿羅漢向があり、断じ尽して阿羅漢果となる。阿羅漢とは無生との意味であり、三界の生死輪廻を解脱して寿命を終えた後には再生することはない。阿羅漢となりてまだ寿命ある間はこれを有餘依涅槃といい、身あることによる苦果を受けるものとみる。一期の寿命尽きると無餘依涅槃といい、生死を絶して一切の苦楽から離れ煩悩により苦悩することがない。

 阿羅漢果を得たのちは、苦楽から離れ煩悩に纏われることがないがために自由自在となり五神通を発得するという。
五神通とは、一に天眼通は、自他一切の衆生の生死輪廻の様子を見るほか、世の中の明暗遠近を問わずすべてのものを見る能力。
二に天耳通は、一切六道世界の音、声を明瞭に覚知する能力。
三に他心通は、心寂静にして他者の思念するところを、姿を見る如くに知る能力。
四に宿命通は、自他の百千万回もの再生を繰り返す、それらの生存について知る能力。
五に身如意通は、心身自在に、遠近過去未来の欲するところに行く能力。
 以上四向四果を経て、有餘無餘の二涅槃を証することを声聞の極果という。

第二、縁覚果 声聞の果と大同小異であり、縁覚は、必ず宿命明(通)、天眼明(通)、漏尽明(通)の三明を具え、再び三界の煩悩を起こすことなく、勝れてこれらを悟ることを縁覚果とする。

第三、仏果 声聞縁覚にいう有餘無餘の二涅槃を証して寿命きたりて最極究竟とすることは同じではあるけれども、釈迦菩薩は、三祇百劫という果てしない修行を繰り返し、最後の生を得て悉く煩悩を断じ、一切衆生の性根に応じて説法済度し、八相成道したので大覚世尊という。

 第二節 大乗の証果

 第一、二転妙果 菩提の妙果と涅槃の妙果がある。菩提の妙果については既に述べた一切智、道種智、一切種智のことをいう。涅槃の妙果は、四種あり、一に自性清浄涅槃とは、本来具わる仏性のことで、一切の生きとし生けるもの、またこの世に存在するものすべてに有するもので、不増不減なるものなので自性清浄涅槃という。二に有餘依涅槃、三に無餘依涅槃であり、既に述べた。四に無住処涅槃とは、悟りの大いなる智慧あるので世間の煩悩にまみれず、大いなる慈悲の心から涅槃せず、一切衆生を利益救済するために衆生世界に縁に随い応じて現れて未来際を尽くして仏教の妙理を説くことをいう。

 第二、三徳 大いなる涅槃の証果の徳を述べるに三つあり、法身、般若、解脱の三つである。これら三徳をもって、生死に流転する衆生を見て、厭うことなく、同体との大悲心から種々の方便をもって世間に出でて教化救済する。

 第三、三身 涅槃の証果を仏身について言うに、法身仏、報身仏、応身仏の三身如来の妙果とする。我らが目にするのは応身仏の釈迦牟尼仏ではあるが、これら三身はもともと一体のものであり、本来色も像もない無辺無際の法界身であって、無明煩悩に隠されて知ることが出来ないでいる。それを解脱すれば、本来具わっている仏性が厳然と現れて、仏性即法身となり、法身を顕現すれば報身応身の二身が現れ、無碍自在にして一切衆生を救済するに到るとする。

 第四、四徳涅槃 三徳三身の各々に常・楽・我・浄の四徳が具わるとする。常とは、もともと具わる三身は端然常住なるもので三世を経て変わらないものという。楽とは、生死の苦を離れて涅槃寂滅の楽を証することをいう。我とは、仏は無自性の真理に達して応用自在なことを真我の徳という。浄とは、諸々の煩悩穢れを離れて端然清浄なること一辺の塵も無い鏡の如く浄らかなことをいう。

結言

数千巻の経律論に記す膨大なる仏教をここに数章の小冊子にまとめ、その大綱要領を示した。今般行われている諸宗の法門に小異があることと思われるが、本書に述べたことは仏教の大同であり、読者に仏教の大本の教えを知らしめんがためのものである。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約③

2024年06月06日 20時18分09秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約③





第三、正定

一世間禅、世間禅とは、四禅定、四空定などをいう。

十善戒を護り、坐して気息調和し、身心端静にして定に入りても、人の身心の相を見るので欲界定といい、そこからさらに進み、身の感覚を超えて虚空の如く安穏になるのを初禅の未至定という。

そして、欲界など下の境界を厭い、未だ寂静に到らぬので「麁」であり、精妙に苦悩を脱していないので「苦」であり、障礙を出離していないので「障」であると観じて、先に進み、上の境界を得ると、麁動なく寂静にあるので「静」であり、苦縛を脱して静妙なるが故に「妙」であり、迷いの世界に留まろうとする障りを離れ出ているので「離」であると観ずるのを六行観という。

これにより、欲界定から初禅に、さらに二禅、三禅、四禅へと到る。さらに四空定も六行観によって成就する。

二出世間禅、初めに四念処、次に三十七道品とする。出世間禅とは、三法印にある苦不浄、無常、無我の真理を観じて我見我愛などの煩悩を断ずることをいう。そのために四念処観を修す。念とは、観慧であり、処とは観察する所のことをいう。

一、身念処とは、身体について観察することであり、身体は種々の不浄より組成されたるものであり、その不浄を観念して自他の身体が美しく清らかな者であるという顛倒を破すること。

二、受念処とは、我が身が外界との接触により感受するものについて観察することであり、それらは純粋に楽といえるものはなく、一つとして苦でないものはないと観念し、迷いのこの世が楽との顛倒を破すること。

三、心念処とは、心について観察することであり、その働きが常に生滅を繰り返して常住でないことを観念して、同様に常との顛倒を破すること。

四、法念処とは、一切の法について観察することで、それらのものが因縁によって生じ滅するものであり、そこにそのものだけの存在を特定する自性はないと観念して、永遠不滅の我が存在するという顛倒を破すること。

小乗の機根の人は、四念処により四顛倒を観破するはよいとして、その四者に執着し実有との誤った見解をもつ。大乗機根の人は、不浄、苦、無我、無常を観じた上で、この四観に執着して実有なりとする顛倒も破して、八顛倒を破すのである。

三、三十七道品 今述べたる四念処の他に、四精勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の七科の道品、総じて三十七あり。これらは戒、定、慧のそれぞれに属するものがあるが、みな定心に相応するものなので定聖行に入れ、大略を述べる。

一、四念処、既に述べた。

二、四精勤、一に既になした悪行を断じ、二に既になした善行を増進し、三に未だなしていない悪行をせず、四に未だなしていない善行をなすために、精勤する。

三、四如意足、意の如く目的を成就させる徳のこと。一に欲如意足とは、四念処などの法を修することを欲して善い果を望むこと、二に心如意足とは、修する対象に集中し、一心に正しく行ずること、三に進如意足とは、勤勉に精進修行すること、四に思惟如意足とは、修する対象についてよく思惟して心して試行すること。

四、五根、諸々の道品を行じる際に善根を生じるための力となるもの。一に信根とは、教えを信じ疑わないこと、二に進根とは、励み精進すること、三に念根とは、放逸せず妄想しないこと、四に定根とは、心落ち着き散乱せぬこと、五に慧根とは、観察し明らかに照見すること。

五、五力は五根に同じ。

六、七覚支、一に念、二に擇法、三に精進、四に善(喜の誤りか)、五に軽安、六に定、七に捨とする。修禅の際に精神沈昏するときは、念(心そこに留める)をもって、擇法(法を選択する)と精進(励み精進する)と喜(喜び満足して)の三つの覚支により観起し、心もし浮動するならば、軽安(心身の軽快なるを感じる)と定(心禅定に入り散乱させず)と捨(心かたよらず平静である)の三つの覚支を用いて静定ならしめる。

七、八正道

一に正見とは、苦・空、無常、無我などの十六行(次節に述べる)を修して四諦の真理を認識すること、
二に正思惟とは、四諦の真理を観じて煩悩のない心により思考が静まること、
三に正語とは、煩悩のない智慧により邪な言葉を既に離れ、言葉を発することからも離れていること、
四に正業とは、煩悩のない智慧により邪な行いを遠ざけ、何かしたいという衝動から離れていること、
五に正命とは、煩悩のない智慧により邪な生活を退けて、清浄なる行を継続すること、
六に正精進とは、煩悩のない智慧により精進して涅槃に向かうこと。
七に正念とは、煩悩のない智慧により如実に現象を観察すること。
八に正定とは、煩悩のない智慧により正しい心の統一を得ること。
  
以上三十七道品は、仏教修行の要道であり、安心立命の地を得んがためにはこれらの道品を修めなければならない。この他出世間禅に属するものとして、他に小乗、大乗、また密教にも種々あり、各自実地に研磨されることを願望する。

 第三節 慧聖行
 煩悩が残る不完全な智慧を有漏の慧といい、煩悩を断じて真実の真理を発見する智慧を無漏の慧という。

第一、有漏智 世間の有漏智に七段階あり、初めの三つは三賢位といい、後の四つを四善根位といい、総じて七賢位という。

初めに、三賢位について述べる。

一に五停心とは、数息、不浄、慈悲、因縁、念仏の五観を修し貪・瞋・痴・我見・散乱心を抑えて相応の慧を発する位をいう。

二に別相念処とは、四念処を修して、身は不浄なり、受は苦なり、心は無常なり、法は無我なりと四境を別々に観じて修得する智慧をいう。

三に総相念処とは、四念処において、身は不浄なりと観じたならば、受と心と法もまた不浄なりと観ずるように、四念処の全体が、ただちに不浄、苦、無常、無我であるとの共相を観ずることによって得られる観達自在の智慧を得たる位をいう。

次に、四善根とは、無漏の智慧が生じて四諦の真理を明瞭に見る段階である見道の直前の位であり、四諦において十六行相を観ずる。

苦諦について観想し、三界の苦は、苦悩なり、空なり、無常なり、無我なりと観念する。
集諦について観想し、苦果を招集する原因は、集なり、因なり、生なり、縁なりと観念する。
滅諦について観想し、滅は真に、寂滅なり、浄なり、妙なり、離なりと観念する。
道諦について観想し、三界出離の道は、真の道なり、如なり、行なり、出なりと観念する。

これを十六行相といい、これに麁細勝劣の差があり、煖位・頂位・忍位・世第一位の四位がある。

第二、無漏智 出世間の無漏の智にも、種々の階級があり、声聞と縁覚とに違いあり、同じ声聞乗の中にも種々の差異がある。我ありとの誤った見解による種々の見惑(無漏智を生じて四諦を明瞭に見ることで滅せられる煩悩のこと)を断じて四諦の真理を悟り、煩悩のない智慧を獲得する声聞の智に十六心の別がある。

四諦を四つそれぞれを観ずる智に忍と智がある。見惑を断じる智を忍、真理を証した智を単に智という。例えば苦諦を観じて楽との顛倒を破するのは苦法智忍といい、苦諦を観じて無漏の真理を証するのを苦法智という。集、滅、道もこれに準じて各々忍と智があり、欲界の四諦を観ずる智に八種あり、また色界無色界の四諦を観ずる智に同様に八種あり、併せて十六心となる。

初めの十五心を初果向(預流向)とし、第十六心を初果(預流果)とし、さらに第二向より第四果に到るまで、三界の微細なる煩悩を断じるために四諦の真理を重々思慮思惟して明瞭な智を得つつ進む。第四果にて三界最頂の煩悩を断じ尽くしたので尽智といい、阿羅漢は再び煩悩を生ずること無いので、その極智を無生智ともいう。

次に縁覚は、飛花落葉を見て悟る者なので、機根勝れその智は鋭利なので、教わることなく十二因縁を悟り、三界の煩悩を断じ尽くす。次章にて述べる聖者の四向四果という段階も分けることなく、一向一果を経て涅槃に到る。

小乗の菩薩は、声聞縁覚同様に三法印によって修行する者ではあるが、利他のために一切衆生を利益して声聞縁覚菩薩の弟子らを教化して悟らしめる化他の智慧広大無辺である。

大乗の菩薩は、四弘誓願を起こし四諦十二因縁の法門を修学し、衆生に結縁するために布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を修して一切衆生を済度するが、その獲得する智慧に一切智、道種智、一切種智の三智がある。

一切智とは、声聞縁覚の二乗が断ずる煩悩を断尽して空諦を証する智慧。
道種智とは、一切衆生の煩悩の心病を知り、それを救う法薬を施し菩提に到らせる仮諦を証する智慧。
一切種智とは、生死と涅槃との二辺に迷う無明の微細な煩悩を断じて、生死即涅槃、煩悩即菩提、生仏不二の中道実相の真理を証する智慧にして、普く十界の一切の凡夫も聖者をも教化する。

定と慧は、もとより相離れざるものであり、慧を得ようとすれば定が必ずあらねばならず、定がなされれば自ずから慧が発せられる。戒定慧の三学は、本来不二にして、一心の三徳なるものである。

仏教の真理に随おうとする者は、必ず三学を修めねばならず、三学を明らかにするものは三蔵であり、経は定に該当し、仏陀が定に入り定の中に現れた法を説くものであり、律は戒に該当し、仏弟子らの非行を戒められ制定されたものであり、論は慧に該当し、仏弟子らが法門の深い教義を論じたるものである。これら戒定慧の三学は相互に関連し離れないものであり、経律論の三蔵も分離すべきものではない。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約②

2024年06月02日 20時17分00秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約②





第三章 修行
発心にとどまって修行することがなければ菩提を得られず、衆生を教化することもできない。我が仏教において、修行とは、戒定慧の三行であり、戒とは身口意の悪行を制止し善行を行ずることであり、定とは内心を寂静にして煩悩を制止することであり、慧とは顚倒せる邪見を捨て正見正智を得ることである。

  第一節 戒聖行 
我が仏教において戒を論ずるに種々の門があるが、それら一切の戒は皆十善をもって根本とする。身業を戒めるものに、不殺生、不偸盗、不邪淫。口業を戒めるものに、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。意業を戒めるものに、不慳貪、不瞋恚、不邪見がある。されど、これら十業はその源は一心にゆきつくものであり、ただその業の顕れるところについて十善戒の名目が設けられているに過ぎない。一心が真理に順ずるものを善といい、背くことを悪という。また、十善戒に止善と行善とがあり、この二種の戒をまっとうするをもって十善戒を持する者という。

一、慈悲不殺生戒 不殺生とは、一切の生類を殺さないことを言う。殺意を生じて未だ殺生していない者も一分の不殺生戒を犯したことになり、逆に心に殺意無く誤り生類を害したる場合は不殺生戒を犯したことにはならない。が、後に生類を害した過去を顧みて懺悔の心がない場合は幾分かの不殺生戒を犯した者という。不殺生戒における止善は殺生しないことであるが、慈悲の心により生類の危難を救うなど放生を実践することを行善とする。

二、高行不偸盗戒 不偸盗とは、自己が所有するものでない一切の物を取らないことを言う。親子の物でも恣に用いるのは不偸盗戒を犯すことになる。富貴なる者が公益のために金品を施与するなど布施を施すことを行善とする。

三、浄潔不邪淫戒 不邪淫とは、心に邪淫の念をもってなされる一切の道ならぬ淫をいう。夫婦の間とはいえ、非時、非処、非道、非理、非量に淫するは邪淫とされる。邪淫は心を縛り、人を害すること甚だしく、これを恐れて戒めるべきである。夫婦貞潔に時に八斎戒を護り、梵行清潔に随順するなど清浄なる行いに勤めることを行善とする。

四、正直不妄語戒 不妄語とは、見聞覚知したことに違うことを言うことである。また荒唐無稽のことを言うことも含む。行善は誠実な心をもって、正直に真実語を話すことで、これにより他者を教え導き、尊信されることになる。

五、尊尚不綺語戒 綺語とは、軽口、戯言のことで、他の歓笑を取ろうとなされるものではあるが、人の心を迷わす無益無義の言葉である。仏道を修する者は心して悪なることを知り、この戒を護るべきである。言葉厳粛に、喜んで聖者賢人の言葉を談ずることなどが行善となる。

六、柔順不悪口戒 不悪口とは、他を罵倒せず、他者の心を逆なでせず、悪い心を起こさせず、相手に合わせて優しい言葉を用いること。相手の気持ちに添い柔らかい言葉で理に適った真実なる言葉を話すことが行善となる。

七、交友不両舌戒 両舌とは、離間語ともいい、両家両人の親交を破る言葉のことで、悪果をきたすこと疑いなく戒めるべきである。よく他者を和合させるような言葉を話し、両者の親交をはかることが行善となる。

八、知足不慳貪戒 不慳貪とは、少欲知足により贅沢にならず物惜しみもしないこと。貪らず、よく他に施しをして、また他者の施しを見て随喜することなどを行善とする。

九、忍辱不瞋恚戒 不瞋恚とは、怒りの心を起こさず、意に違う場面に遭遇しても自らを損なうものと捉えず、人が自己を誹謗したとしても、それも因縁のなせることと傍観する。もとより自他なきこととわきまえ、冷静であること。瞋恚の心を起こさなければ心常に悦ばしく、慈心あり。慈悲忍辱の行に随い、慈しみの無量なる心に住することを行善とする。

十、正智不邪見戒 不邪見とは、邪見をもたず、因果応報などの正しい道理に随うことをいう。因果応報を信じない者は善悪正邪を顚倒し、無常無我を覚らない者は利己私欲を逞しくする。よって邪見、迷説をもつ人を戒めるのである。因果応報三世十二因縁の道理を信ずるものは、よく諸法の無常無我を覚り、定慧を修して、仏道を成満すべきであり、これを行善とする。

これら十善戒の止善が成就すれば行善自ずから行われ、十悪除けば十善が自ずから行ぜられる。それぞれ十善戒に五思があり、不殺生戒について述べるに、一に離殺思、これは不殺生戒をたもつのに先立ち、殺生から離れることを誓うこと。二に勧導思、自己だけでなく一切衆生を勧導して、殺生から離れさせること。三に讃美思、自他の殺生を離れる善行を讃美すること。四に随喜思、他者の不殺生に随喜すること、五に廻向思、不殺生の功徳により、自他ともに無上の菩提に到らんと廻向すること。

真正の十善戒を持する者とは、必ず止善行善を行い、離殺・勧導・讃美・随喜・廻向の五思を具え、一切諸法無常無我の正しい知見に住し、さらに自他平等の心縁すなわち衆生縁・法縁・無縁の慈悲心をもって社会に利益をもたらし、普く三世に亘り一切衆生を救済する者をいう。

第二節 定聖行
定とは、梵語にて禅那といい、訳して思惟修、静慮という。心を一境に注ぎて、散乱せぬこと。三摩地、三昧ともいう。諸法の真理を発見討究しようとする者は、まず妄想を去り、雑念を止め、喜怒愛憎の情を除き、思念を静かにすることが肝要である。故に禅定が必要となる。

第一、禅定の方法 心と体は密接に関係するものであるので、心を静めるためにまず身体を調える。

一、身を調うる法 平らなところを選び、半跏座ないし結跏趺坐して、手を前に組み、背筋を真っ直ぐにして曲がらず聳えず、頭頸を正しくして伏せず仰がず、口から気を吐き吸い身中快活になれば、口を閉じ舌を上顎に触れさせ、軽く目を閉じ鼻より呼吸し気を和らげ、全身動揺せず静謐せしめる。

二、呼吸を調うる法 呼吸に、風、喘、気、息の四種あり。前の三種は呼吸の不調なるときのもので、呼気吸気出入りに音があるのを風といい、音が無くても出入りに滞りがあるのを喘、音も滞りも無いのに呼吸が細く静かにならないのを気という。呼気吸気が綿々と細く出入りがあるかなきかとなり、心自ずから悦びを感ずるのを息という。心を用いて息を整えようとしても心が定まらない、そういう時にはまず心を静かにし、身体を緩やかにし、全身の毛孔から気が出入りすると観想するとよい。

三、定に入る法 入定に二要あり。まず、坐して頭が垂れ睡魔に襲われ記憶も無い状態にあるときは、少し目を開き、鼻端を見て心集中し出入りの呼吸を一つ二つと数える、吸気がどこに入りどこに留まりどこに去るのかを観察する。出る呼気に分散なく、入る吸気に滞りなく心澄みゆけば心眼開かれ昏沈が去る。また、身心安穏ならず、妄想しきりに往来する時は、心を静め臍の起伏に意識を集中して、外に心が向かない様にして心の乱れを制する。念を強く用い過ぎて錯乱し胸に痛みを感じる様なときは想念をとく。心散漫となり、身体くつろぎ涎がよく出る様なときは、身体に意識を向けてその感覚に心を集中するとよい。心の浮き沈み、緩急に気をつけて適した法により、心安静となり散逸せず、凝り固まらず定に入る。

四、定に住する法 身は背筋真っ直ぐにして安静にし、息は綿々と細くして、息あるが如くなきが如くになし、心は浮き沈みなく適度に意識をたもつならば、この三者適度に調い、平正を得ること度々となる。これを定に住するという。

五、定を出るの法 まず心の念を解き、口を開いて気を放ち、少し肩肘手頭頸を動かし、両足を下ろして、手で身体をさすり両手を擦り、両眼をおおい、それから目を開けて、起立歩行すべし。

第二、助観 身・息・心を調えて定に入るのは方便であり、目的ではない。これから述べる助観、並びに正定があり、助観はまた正定の方便となる。助観とは、五停心のことであり、一に数息観、二に不浄観、三に慈悲観、四に因縁観、五に念仏観である。

一、数息観 心散乱するとき、心を統一せしめるために数息観を修すべし。出息時、または入息時の数を取ってもよいし、出入りの中でもよく、数えやすい所で数を取り、一つ二つ三つと十まで数え、また一つに還り、繰り返す。

二、不浄観 淫欲の心が起こることあれば、不浄観を修すべし。貪欲に大別して、外貪欲、内外貪欲、偏一切処貪欲の三つあり。他の男女の容貌を想像して貪欲止むことがない状態を外貪欲といい、その場合には、人体の不浄を観想するとよい。死後身体が膨張し、膿血流出し、筋肉は腐乱変色し、蛆虫が発生、鳥獣争い肉を食らい、形骸分離して白骨のみとなり、また火に遭い灰になると観想する。また、他の男女もしくは自己の容貌を想像し種々の煩悩を起こすのを内外貪欲といい、この場合は自己の身体の不浄を観想する。自他の容貌に愛著してさらに衣食、家財などにも貪欲を起こすのを偏一切処貪欲といい、この場合には、飲食に屎尿の想をなし、貨財に毒蛇の想をなすなどして世間の物みな不浄にして、貪心を生ずべきものではないと念ずる。

三、慈悲観 瞋恚の念起こるときは、慈悲観を修すべし。瞋恚に、非理の瞋、順理の瞋、諍論の瞋の三種あり。非理の瞋とは、憤る理由なくして怒ることで、これを治すには、衆生縁の慈悲を修すとよく、人と人との繋がり、世間の相助け相頼む関係を思い、愛念を生じて瞋恚を断つ。順理の瞋とは、人の苦悩する境遇に憤り、他の非道なるを見て怒るなど憤怒する理由ある瞋恚のことで、これを治すには、法縁の慈悲を修して、みな一体一味との観をもって衆生個々の姿を見ないことによって瞋恚を断つ。諍論の瞋とは、自己の考えを正しいと思い、相手の考えを間違いだと決めつけて、他者の考えの違いに憤怒することをいうが、これを治すには、無縁の慈悲を修して、自他平等にして差別無しとの観念により、諍いもとよりなしと達観すべし。

四、因縁観 愚痴蒙昧に陥るときは因縁観を修すべし。愚痴に、計断常の愚痴、計有無の愚痴、計世性の愚痴の三種あり。計断常の痴とは、この世と自我は不滅であるとか(常見)、死後断滅するなどの誤った見解(断見)を持つことで、この場合には三世の十二因縁を観念し、因果は相続して不断であり、自性は空であるので不変ではないと観じてこの邪見を断つ。計有無の痴とは、すべての存在が有るとか無いとかと頻繁に思い錯綜することであり、この場合は一期の十二因縁を観念して、有無の誤った見解を離れる。計世性の痴とは、微塵は存在するので実体があるとして四大、衆生世界も実性ありとする誤った見解を持つことで、この時には一念にある十二因縁を観念して、微塵なるものにも因縁による生滅ありと悟りこの邪見を破すべし。

五、念仏観 坐禅するとき種々の障害が起こるときには、念仏観を修するべし。障害に、沈昏暗蔽障、悪念思惟障、境界逼迫障の三種あり。沈昏暗蔽障とは、精神沈昏して判別できない状態をいい、これを治すには、仏の三十二相中、白毫相など一相を取り、深く観ずべし。悪念思惟障とは、十悪や五逆(父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身を害して出血させる、教団の和合を破壊する)の悪念を起こして禅定を妨げることをいい、これを治すのに、仏の一切種智などの功徳を念ずるとよい。境界逼迫障とは、定を修するとき、苦悩逼迫して身体に苦痛を感じ奇怪なる相を見るなどをいう、この場合には、法身仏を観想することで、不生不滅、非有非空の法身なれば、境界なく、逼迫する者もなくなり、この障害が除かれる。

以上、助観にて心の散乱を防ぎ、淫欲を制し、瞋恚を伏し、愚痴を排し、種々の障害が除かれたので、これらに妨げられることなく、真理を観察考究することができよう。助観が修し終えたら、次に正定を修し禅定を完成させるべきである。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約①

2024年05月30日 19時52分10秒 | 仏教に関する様々なお話
『佛教大意』 要約  釋雲照著 明治二十二年九月 哲学書院発行 四六判一五八頁




まずこの著作の動機について記す。各宗の著書は皆専門用語多く判読しがたく、また仏教の一部一班に過ぎない。そこで通俗平易の言句にてその綱領大体を示す。目指すべきは小乗の三法印、大乗で言えば実相印となり、発心修行して、涅槃寂静に到るのを大意とする。そこで、第一真理、第二発心、第三修行、第四証果と章立てして、仏道としての仏教を概説する。

第一章 真理
 第一節 三法印
三法印とは仏教の標示であり、ここでは小乗の人が無上の真理とするものである。三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つであり、小乗に六宗二十部あれどもいずれも三法印を離れたものはない。

諸行無常について、行とは遷流の意であり、一切の現象が遷流転変して留まらないことを諸行無常という。森羅万象も、我が一念も、生住異滅の四相ありて須臾も留まらず。無常の真理疑うことなく、我が仏教は実にこの真理を認めて悟道の本源とする。

次に諸法無我について、法とは軌持の意であり、原因結果の軌則によって生滅する万物に、常一主宰たる我は存在しないことを諸法無我という。この無我を説かないものは真正の仏教にあらず。人も霊魂なるものあって過去から現在未来に逝くのではなく、過去世の業因と現世の業因により死後未来世を受けるのであって、その一生の心身も生滅を瞬時に相続していくが、それも過去の業と因縁によって生じるのでありそこに我はなく、それを無我の真理という。

大智度論に説く、生死流転する一切の衆生は、ただ因果あるのみであり、三界六道に流転するのも因果なければ存在せず。別に実体があって相続するのではなく、因果の連鎖あるのみであり、業と因縁により五蘊が仮に和合して、みな異なる生を受け迷悟あり、貴賤尊卑あり、好醜男女あり、苦楽あるのである。

最後に涅槃寂静とは、涅槃は梵語で滅度の意であり、三界六道の流転を離れて生死の苦界を離れて寂静安楽になることを意味する。寂静なる涅槃に二種あり、証果を得た後に生存し心身あるが故に過去の業力によって感受する身体を余しているのを有餘依涅槃といい、寿命終えてすべての三界の果報を解脱したので無有餘依涅槃という。これは声聞縁覚菩薩の極果であり、一切凡夫外道の知ることの出来ない境界である。
 
 第二節 実相印 
大乗においては、諸法は実相なりと説くのが究極の玄理である。その大略を第一実相の義理、第二有空平等大小乗不二の理、第三実相の解瑜、をもって述べる。

第一、実相の義理 小乗の真理である三法印は因縁因果の理であり、それはもとより自性なきものなので空とも言い替えることができる。されど、そこには色もなく香もなく生滅去来を離れて一切の作用なきものであるのでこれを但空という。大乗においては、諸法は空と雖も諸法の真相実体を尽くせるものではなく、空も有も二者平等にして二相あらず、これを実相という。

第二、有空平等大小乗不二の理 大乗小乗の不同、三法印実相印の区別は知見の浅深を表すのみであり、大小二乗に二趣あるわけでは無く、小乗に説く但空は諸法の実相を尽くすものではないが、中道絶対の妙体である虚空においては大小一体同一実相と知るべきである。

第三、実相の解瑜 諸法実相の妙理は仏教の至極の説であり、言葉で説き尽くすことはできないが、読者が進んで研究せられることを希望する。宇宙一切の現象は自心の実相であり、諸法の実相は、取著すべきものがないので空といい 縁に応じて顕現するので仮といい、諸法はこの空と仮の二相を具するので中というが、この三諦を示して読者の考察の便とする。

第二章 発心 
第一章にて真理を探究した。この真理を体し、その真理の境界に自ら到ることを欲して、且つ一切衆生にも同様に仏果を得させようとすることを発心という。ないし発菩提心という。菩提とは一実相の真理を悟り得た智慧をいう。

 第一節 世間心 
地獄道の発心から天道の発心九種の発心を説く。これらの発心は我執名利の心を離れておらず、たとえ仏道に入り修行しても、我見すら断ずることができない。されど、全く発心無きことに比すれば勝れたところあると言えようが、仏者はこれらの発心を捨て、真正なる発心を選ぶべきである。

 第二節 出世間心
第一、二乗の発菩提心 二乗とは声聞乗と縁覚乗であり、声聞の発菩提心とは、四諦の真理を観じて発心修行することである。縁覚の発菩提心とは、生滅無常の理、ことに十二因縁を観じて生死の解脱、煩悩の断滅する所以を覚り、発心修行することである。されど、この二乗の人は、三法印を証得せんがために発心する者であり、みだりに生死を厭い、涅槃を悦ぶが為に自らの解脱安楽を求めるのみで一切衆生を利益することなく、究竟無上の発心とは言えない。

第二、菩薩の発菩提心 菩薩に小乗菩薩と大乗菩薩があり、小乗菩薩の発心は、四諦の真理を証して足れりとせずに慈悲憐愍の心から、四諦を縁とする四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無辺誓願断・法門無辺誓願学・無上菩提誓願成)を起こし一切衆生に四諦の真理に安住させんとするが自らの涅槃を期として入滅のあとは教化することが無い。これに比して、大乗菩薩の発心は、諸法実相の真理を観じて自心と仏と衆生と三無差別なることを観じ、上に菩提を求め下は衆生を教化せんと、大悲心から未来永劫四弘誓願止むことがない。
  
 第三節 大悲心
大悲心に三種あり、一に衆生縁の慈悲、二に法縁の慈悲、三に無縁の慈悲。

第一、衆生縁の慈悲 我ら人類相助け相支え合う関係にあり広くあらゆる所作が世界に影響する。さらに三世因果にて再生することを信ずれば一切の男女過去世における我が父母なり。この故に深く恩愛の心を起こし慈悲憐愍により四弘誓願を起こすのを衆生縁の慈悲という。

第二、法縁の慈悲 我が身は、地水火風の四大、色受想行識の五蘊、六十有余の元素により組成されたるのであるから、天地万物、、一切衆生と同一体である。このように思惟して同体との観点から大悲心を起こすのを法縁の慈悲という。

第三、無縁の慈悲 心、仏、衆生の体性相用は本来平等無差別であり、自心の外に衆生なく、衆生の外に諸仏なしと自他平等の真理に達したならば、自他の差別が無くなり、大悲の心が自然と起こる。これを無縁の慈悲という。

衆生縁と法縁の慈悲は大小乗に通じて発起するが、無縁の慈悲は真如実相の理を体観する大乗の菩薩のみ発起する。

 第四節 三界皆苦の論
最勝の発心を起こすべきであると述べても、その道理は極めて深妙であるので、さらに三界六道の相はみな苦である所以を示して、真実に起こすべき発心が世間の発心ではなく菩薩の発心であることを明示する。我が仏教において、世界の苦相を大別して、苦と不浄と無常と無我の四相とする。

第一、苦 苦に三苦と八苦とがある。まず三苦とは、苦苦と壊苦と行苦なり。苦苦とは、三界の衆生に皆無常の苦あり、寒暑、飢渇、貧病の苦にして、苦中の苦であるから苦苦という。壊苦とは、快楽が尽きたときに感じる苦悩を壊苦という。行苦とは、この身体も世界のものも常住ではなく、すべて移り変わって安心できる時のない無常により起こる苦のことであり、これを行苦という。

八苦とは、生老病死と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦の八つなり。生苦とは、母胎に託生してから出生する間の苦。老苦とは、生有るもの必ず老す、心身弱り、耳目昏昧、下肢自在ならず、これらの苦なり。病苦とは、生ある以上かならず多少長短の疾病を逃れざる苦。死苦とは、死とは決して快楽にならず、苦である。愛別離苦とは、親愛なる父兄、妻子、朋友と共に常に住することは叶わず、いずれ離別に到る苦をいう。怨憎会苦とは、好まざる者と事を共にし、怨憎する者と共に住ぜざるを得ない苦をいう。求不得苦とは、求めて得られない苦しみのことで、誰にでもあり、この苦を逃れられる者はいない。五盛陰苦とは、心身に常に纏われる苦痛のことで、身の危険、地位や生活上の不安など常に安心できない苦をいう。人はかくして常に苦痛を知覚しつつある存在であると言えよう。

第二、不浄 不浄に生処、種子、相、性、究竟の五種あり。生処不浄とは、人の出生する母胎産道の不浄のこと。種子不浄とは、結生せる父母の精気のこと。相不浄とは、人の身体に合成する髪爪歯皮膚血内臓など三十六の不浄物のこと。性不浄とは、不浄なるところ、不浄なる種子、不浄の相を具える者にしてもとよりその性不浄なること。究竟不浄とは、現世の業報尽き、死して埋葬されるや皮肉腐乱し、悪臭出て骨朽ちることをいう。以上我が身体は不浄不潔なり。

第三、無常 第四、無我 前章に述べた様に、この世において快楽を求め、利益安楽を求めても、無常無我なるが故に、ついには苦痛を受ける。我が身体は四方に苦痛の逼迫を受けつつある存在にすぎない。故に、三界皆苦なることを悟り、自心に菩提涅槃の常楽を求め、衆生の恩に報いるにその苦を抜くことを誓願して菩提心を起こす、これを上求菩提、下化衆生という。これは大乗菩薩の発菩提心であり、この二利の善行を成満すべきである。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『十善戒略解総論』要旨

2024年05月27日 11時34分18秒 | 仏教に関する様々なお話
十善戒略解総論 要旨 明治十九年一月 釋雲照著述 長木栄治郎出版



十善戒法は、一切世間出世間の善法の本源であり、積善の家に餘慶ありと言われるように、吉凶殃慶一つとして因なくして果はない。いまこの身が壮健で長寿であるのは前世で不殺生戒を護った餘慶であり、衣食住俸禄あって安楽なのは不偸盗戒の餘慶であり、男女仲良く子孫あり家門繁栄するのは不邪淫戒の餘慶である。

教養や慣習が家に備わるのは不妄語戒の餘慶、穏やかに控えめな徳により周りに重んぜられるは不綺語戒の餘慶、家族仲良く老いて子孫に孝心あるのは不悪口戒の餘慶、家族親族近隣と仲睦まじきは不両舌戒の餘慶である。家に財あり山海の実りあり融通するは不貪欲戒の餘慶、身体健全で顔端正にして周りから侮られず慕われるのは不瞋恚戒の餘慶、神々の守護あり心に憂いなきは不邪見戒の餘慶である。

逆に、殺生する者は、寿命短く、恐怖多く、恨まれ仇多く、死後悪趣(地獄・餓鬼・畜生の世界)に逝く、人に生まれても短命多病となる。偸盗する者は、財産を失い、法により裁かれ、心に常に恐怖あり、死後悪趣に逝く、人に生まれても他に使役され貧しく衣食に困窮する。邪淫する者は、家に和みなく、法に裁かれ、自分を欺き人を畏れる、死後悪趣に逝く、人に生まれても意に随う伴侶は得られず、針の筵に置かれる。

妄語、綺語、悪口、両舌する者は、怨み憎まれること多く、自分を欺き信用なく、しばしば禍に遭い、死後悪趣に生まれる、人に生まれても言葉不自由となる。このように一度なされた善悪の行いは、その業消えることなく、その報い必ずあることを知り、一切の苦楽はみな自分の心から生じるものであるので、善人君子の楽しむべきなのはこの応報の原理なのである。

このような善き戒が身にあるときは、自ずから悪事が遠ざかることは、人に元気が充満しているときには病いに侵されないようなものである。不殺生戒が身にあるときは、たとえ怨みもち生き物を殺害する悪賊や毒虫に遇っても、慈悲心をもってこれに対峙するので自然に遠ざかっていく。不偸盗戒が身にあるときは、金銀財宝を前にしても不要な欲を起こすことなく、放火や盗賊、暴漢が自然に遠ざかっていく。不邪淫戒が身にあるときは、余所の男女に愛着を生ずることなく、隙をうかがったり示しあわせるなどの毒害は寄りつかない。

不妄語戒が身にあるときは、欺いたり心乱れ偽証したり贋の書類を作ったりという悪心は寄りつかない。不綺語戒が身にあるときは、言葉飾ることなく、軽口を言ったり、戯れを言うような迷い患いが寄りつかない。不悪口戒が身にあるときは、言葉柔らかに、罵詈雑言を吐くような悪心が寄りつかない。不両舌戒が身にあるときは、言葉に誠実さが表れ、他者と仲違いをしたり関係を悪くしたり他者を悪く言ったりお世辞を言ったりという悪心が遠ざかる。

不貪欲戒が身にあるときは、足ることを知るがために、欲張り貪り他の盛んなるを羨んだり名利を求めるような悪心が寄りつかない。不瞋恚戒が身にあるときは、身が慈悲そのものとなるので、眉をひそめたり眉間に皺を作ることもなく、憂い悩み嫉妬を起こす悪心が遠ざかる。不邪見戒が身にあるときは、人を見ても自然を見ても因果応報の姿を知るので、邪なものに心惑うことなく、聖なる者を軽蔑し賢者をそしり神を侮り仏菩薩を誹謗するような悪心は決して起こらない。

ときに、この世で戒に則った生活は難しいことであって、通常の人のなせることではないと言う人がある。これに答えるに、例えば殺生をしようとするには、自分の手足を使って、道具を揃え相手の隙をうかがい策を施さねばならず、難義を窮めることであり、不殺生戒を護ることの方がよっぽどなしやすいことであり、実は十悪こそなしがたいものなのである。

また、現世の苦楽は既に前世の善悪業によって決まっているのに、この世で善をなしても利益無しと言う者があるとか。これに答えるに、前世の善悪業に二種、決定業と不定業とがある。善悪の業に強弱重軽があり、その強く重い業はその報いを受ける時には、苦楽の軽重長短が厳然と決定されているとされる。これに対し、不定業はそれが未だ定まらない業のことで、この世で善を行うときには善き縁を催して前世の善業により善き結果をもたらす。また悪をなせるときには、悪縁が増上して前世の悪業が悪い結果をもたらす。これは前世までに蓄えた善悪業が弱く現世の善悪の助縁に引かれてもたらされるものなので、悪をなさず善を行う事によって、悪縁を避け善縁を常に生じ善業が報い結果するように生きるべきなのである。

また、仏法は世間の実情に合わず奇怪で役に立たない荒唐無稽のものだと言う人あり。これに答えるに、きれいな鏡がその姿をそのままに映し出すように、この善悪業をもたらす善悪の行為も一度なすならば、その行いと心のなした軽重によって、必ずこの世でか、来世ないし未来世にてその報いを受けるものであって、僅かでも道徳心ある者は、この因果応報の理を常に忘れることなく、重んじるべきである。誰もが、眼前の小利に惑うことなく、十善戒を守護して善なる大利益に浴すべきである。

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自覚して行うこと

2024年05月21日 17時52分12秒 | 仏教に関する様々なお話
自覚して行うこと--今日の護摩供後の法話に加筆して



今日も沢山のお参りをいただきありがとうございます。いま、3月31日の御開帳のお二人の先生による記念講話の文字起こしをして、寺報に掲載する原稿を作っているところです。

ところで、その保坂先生のお話の中で、沢山の人がお寺に寄り集まり、行事をしてお寺を盛り上げて、次の世代にも繋げていくことは、皆さん自身の仏道修行であり、そのことの意味を自覚して行うことが大切だとの指摘がありました。さらにそれは、安心の徳を積むことであり、悟りへの道であり、幸福への道であるとも。

またその講話の冒頭には、私たちは普通、仏教という言葉を使っているわけですが、この言葉自体が古い言葉ではなく、明治二十年代ころに定着した言葉であって、仏教と言ってしまうと、その時点でキリスト教のような絶対的な存在に対する信仰と教義や儀礼、教団という意味づけになってしまうのとの指摘もありました。それまでは、仏道、仏法という言葉が使われていたのであり、信仰そのものというよりも、より大きなウェートで行為実践、修行を内包するものであり、日々の仏事、仏道修行を意味する内容であったというご指摘もありました。

今日もこうして沢山の皆様がお護摩に集まり小一時間もの間お藥師さんを拝み、心経を唱え真言を唱えて下さいました。このこと自体が信仰のもとになされた、立派なご修行であり、さらに中にはこの日のために沢山の写経まで書いてお持ち下さっています。それは何か願い事のためであったり、また、心の安らぎのために、ありがたい御利益のためにと色々な目的でなされたものと思いますが、なぜ写経をするのか、保坂先生が言われるように、その意味をきちんと自覚して行うということも大切なのではないかと思います。

写経や読経は、やはりそれは善いことであると漠然と思うわけですが、それは読んだり書き写す内容がお経であり、仏の説法であり、それは弟子たちの悟りの修行に役立てるためのものであり、だからこそありがたいものと言えます。読経し書写することでその内容まで十分に理解できずとも、功徳は甚大ですが、やはり教えを理解することも必要でしょう。仏教は学ぶべき教えとも言われていますから。

そして、こうして毎月お護摩にお参り下さり、仏道修行を既にしている皆さんは、そのことの自覚はないのですが、仏教徒と言えるでしょう。仏教徒とは、三宝に帰依する人のことです。仏法僧に帰依したならば、仏という存在を最高の理想として生きることになります。だから礼拝されるのです。理想に近づいていく、そういう行為として修行が位置づけられるわけですから、皆さんがなされている経を唱え、書写する行為もその一端と見做されるのではないかと思います。

そう考えますと、つまりは読経し写経する皆さんは、意識するしないにかかわらず仏道修行をして、功徳を積み、仏教徒の最高の理想に向けて前進するためにそれを行っているということになるのです。最高の理想である悟りを得るまでには何度も生まれ変わり功徳を積んで心を清浄にする必要もあるでしょう。ですが、そうして一歩でも半歩でも前に進んでいくために功徳を積むための仏道を行じているのです。  

そう理解されて、それを自覚されてなされていくと、より安心した毎日、揺るぎない確信のもとに日々を淡々と生きることになります。ご自分のなされていることの意味をもっと深く自覚されて、さらにさらに精進して下されたらありがたいことと存じます。



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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (6)

2024年05月05日 12時12分22秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (6)




よって律の偈にも、「たとえ百劫という果てしない時間を経るとも、なされた業は亡びること無く、因縁が巡り来たるとき、果報還り報いて自ら受ける」とあります。

律蔵の中の各章段の終わりにこの偈を掲げて誡めています。よって私も、またつねにこの偈を引いて応報の理を述べるのです。たとえ百劫という果てしなく長い年月を経ても、いったんなされた行為の善悪の業の力は決して亡くなったり枯れたりということはなく、因縁が熟したときにはその善悪の果報が生じて、他の人がそれを承けること無く、必ず自身がこれを承けて悪は必ず苦果を、善は必ず楽果が報いることでしょう。

それは決して他に神仏あって苦楽を与えるのではありません。自ら悪をつくり自ら悪の果を受け、自ら善を修めて自ら善の結果を受けることは、鏡に姿が現れ、谷に呼びかけて声が反響するようなものなのです。たとえ大地を打ち外すことがあっても、この応報の真理は古今にどこにあっても、決して僅かにも相違あることはありません。よって、勉めてなされるべきなのは、ただ十善道徳であり、頼みても頼むべきは因果応報の真理なのであります。たとえ富財産が四海を埋め尽くし、妻子家族が思いのままに財宝を身につけたとしても、無常の暴風はたちまちに来り、息絶える時には一物もその死後の魂に随いついていくものはありません。

大国の君主と言えども、橋の下に住まう乞食同様に、死に去って冥途に赴くときには異なることなく、ただ知らず知らずのうちに一人彷徨って死者のいく黄泉に入るのみなのです。そのとき、実に頼りとならないのは、世間の名誉や地位であり、そのためになされた業であります。それに対し、今世でも後世でも我が伴侶となって導き、涅槃安楽の境遇に至らしめてくれるのは、ただこの十善道徳による功徳のみなのです。ことここに至って、このように思えるならば、歓喜の涙を拭って信じ行うこと、貧人が宝を得たときのように、また渡りに船を得たように、得難き心地がして、この十善のためには、たとえ命を落とすことがあったとしても、決して退歩退くことのないようにと固く誓って、自らも勉め、周りにも勧め励むべきものと言えます。

この肉身は言ってしまえば旅館のようなものです。惜しむようなものではなく、今日努力して善業を貯え、後の世の糧を得たならば、命終を迎えた時、その旅館を出て、明日にはもっと上等な旅館に移り宿泊したらよいのです。善業の道徳だけの身となれる人は、四苦八苦を生じさせるこの不浄なる肉身を脱ぎ捨てて、煩悩の無い正に清らかな真如法性そのものとなって不老不死となることでしょう。ただおおよそ世の中の人は、わが身である旅館を惜しむことばかりに専心して、旅費を貯えることをしないというのは愚の骨頂ともいうべきことです。旅館というこの身を惜しむことなく、旅館は他にも散在しているのですから、後の世の糧となる金貨をこそ貯えるべきなのです。

もちろん、後の世の糧となる金貨とは十善道徳にほかなりません。ときに世間の金貨は時代や国の事情により通用しなくなるということがありますが、そればかりか価値が目減りすることもあります。ですが、この十善道徳の金貨は、この世界のはじめから未来永劫、日本でも中国でも欧米でも、東方阿閦如来の世界でも、西方阿弥陀如来の世界でも、十方世界いたるところで、過去現在未来、三世にわたり、通用しない時も空間もないのであります。たとえ百千万効を経たとしても決して朽ちることはなく、ますます光輝を放って自身を利益し、一切の人々を利益して、様々に果てしなく世の人々を救うことでしょう。どうして貴ばないことがありましょうか。勉めないことがありましょうか。  了


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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (5)

2024年05月03日 07時52分30秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (5)





十善四恩は一切道徳の元素となるものであり十善の他に別に道徳はない事

今本会・十善会において主張する、十善因果応報によるところの道徳は、道徳即十善、十善即道徳であり、因果応報ということが人の行いに顕れて十善となるので、十善の他に道徳はなく、道徳の他に十善はないのであります。またこの因果の真理を離れて仏教は無く、仏教すなわち道徳であり、道徳すなわち仏教であり、私の仏教の真理から言えば、道徳の他に宗教なく、宗教の他にさらに道徳無しとするのです。

どうしてかと言えば、仏教とは天然の真理に則って、普通に衆生が起こす慈悲と、この世のすべてのものは無我であると悟ったものが起こす慈悲と、さらにはあらゆる差別を離れた仏の大悲の心、この三つの慈悲の心を起こして、多くの人々と遍く十方世界の生きとし生けるものを憐れみ、それらを利益し安楽にする事業に勤め励むのを菩薩の本来の仕事とするのです。また諸々の仏がこの世に出生する一大事とするのもこのことと別にあるわけではありません。およそ菩薩の最初の発心や諸々の仏の悟りに到る目的や願いはこのためにこそあると言えましょう。

世の中の人が父上に対して、その恩に報いようとするならば、この十善を離れては真にその恩に報いることはできないでしょう。なぜならば、世俗にあって普通にいうところの忠孝とは十善道徳の一部に過ぎず、道徳はすなわち道徳であると言っても、十分に道徳の根源をきわめ奥底まで尽くして忠孝の道を全うすることはできません。それはただ人情や常識を本として志を尽すものであって、確実な真理に則ったものではないので、常識の範囲で父上のためにこの上ない善事と思ってしたものであっても、後になって顧みた時、かえって真に利益や安楽をもたらすものでなかったという場合も多々あることでしょう。

今もしもこの十善因果の理に則って、忠孝を尽すときには、たとえ目の前で父上の気持ちを十分に愉快にさせられるようなものでなかったとしても、後々に必ず父上のためになる大孝であったと顕かになるでしょう。ましてや父上のためと思って、他の者から怨みや怒りを買うようなことをしたとしたら、父上のために悪をなすこととなり、それを忠孝などと捉えるのは顛倒の極みであり、決して忠孝とはならないのです。なぜなら、悪をなして善い結果を得ようというのは原因結果の真理においてあり得ない定則だからです。

よって、大孝をなそうとする者は必ず因果応報の原理にのっとり、怨みに報いるに徳をもってなし、父親が怨みを受けるようなことの無いようにすべきであり、それをこそ大孝と言うのです。自分が父母から恩を受ける年月は長いものですが、その恩に報いて恩を返そうとしてもその時間は限られているものです。どうしてその短い時間の孝をもって長い年月の恩に報いることができるでしょうか。

もし仏教の十善の真理に基づいて至孝をなすならば、ただ父母にこの世の快楽をあたえるのみならず、いくつも生まれ変わってもお互いに愛し喜びをもって、自ら十善道徳の至孝を行い、またよく父母に十善因果の真理を信じせしめて、無理に勧めずとも父母が進んで善根功徳をなして一切衆生のためになすならば、大きな至孝と言えるものとなることでしょう。そうすれば真実の道徳、真実の忠孝はこの十善を離れて他に求めても決して得られるものではなく、この大孝至徳をもって父親の恩に報いるのを仏教の真面目、一切道徳の本体とするのであります。世の中の有徳の皆さんはよくこの旨を心得ていただきたいと思います。

さらにもう一言申し上げておきたいと思うのは、もしこの原因結果応報ということをよく理解する人は、慈善道徳をしても人に誇ることのないようにしなくてはならないということです。自分はこんな善いことをした、人に喜ばれるようなことをしたと、自ら吹聴して人様の信用や敬服を求めることをしがちですが、真正なる道徳をなそうとする者にとって、これは最も慎むべき事であり、このようにすることは、善は善ではありますが、その結果は甚だ下品なものとなり、阿修羅界の報いを得ることにもなりましょう。ですから、善はなるべく秘すべきなのです。これを陰徳と言います。逆に悪はなるべく表に露すべきことであって、これを発露懺悔と言うのです。

例えば筍を育てるようなもので、枯れ葉や肥料でその根を覆うときはその質柔らかに味は甘くかつ大きな筍となりますが、肥料を与えず、その根を覆うことをしなければその質は硬く味も悪くなります。善悪をなす場合もこのようなものです。善いことをして努めてそれを隠す者はその福が増すことでしょうし、それを人に言いふらすような者はその徳は薄くなるでしょう。これに反して、悪をなして努めてそれを覆い隠す者は悪業の力が増し、努めてそのことを懺悔して公にする者はその悪業は極めて弱いものとなるでしょう。これも自然の理によりそうあるべきことであって、こうしてみてみると、善悪応報原因結果の天則は定まれる一定不変のものであり、一毫も変異あるものではないのです。ましてや一度撒いた原因が報いて結果を顕さないということも決してあることではないのです。

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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (4)

2024年05月01日 17時08分23秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (4)




十善を行じて四恩に報いるべき事

私たちが今日こうして身体欠けるところなく、健康で幸福に、無事に日を過ごし安穏にして、このように才智あり、様々な仕事をなせるのも、決して自分一人のなせる技ではありません。父母が自分を産み育ててくれたのは、父母への恩であり、着るものも、食事をし、また書物を読み、物を書いたり、眼に触れ手に触れる物すべてが世の中の人々の労働によりなせるものであって、これは一切衆生への恩であります。また国王ともいえるお方があって、国を鎮め安定せしめ、私たちを見守って下さっているのは、これは国王への恩でありましょう。

そればかりか、果てしない過去から今日迄、私たちは一切衆生とともに、この三界に生まれ変わり死に代わり輪廻してきました。その間に、すべてのものたちと、ときに父母となり兄弟となり、また主や友となって、無量無辺の関係を持ちつつ今日に到っていると考えられます。そうであるならば、一切の男子は我が父、一切の女人は我が母とも言えるものなのです。どうして他者を殺したり奪ったり邪な関係を持ったりできましょうや。また、嘘をつき媚びへつらい汚い言葉を吐き、仲違いさせたり。さらには、欲を貪り、怒りをあらわにしたり、道理に合わないことを押し通すことができるでしょうか。

さらに申し上げるならば、今この森羅万象は、みな真理そのものであって自性なく、実相、つまり縁起の法をそのままあらわにしているものであって、その身の他に仏はなく、仏の他に衆生もなく、衆生の他に自心もないのです。我が心と仏と衆生は本来平等、つまり一体なので、無二とも言えるものでありまして、分け隔てあるものではないのです。この無二の関係にあるものたちの中で、我とか他とか、こちらとかあちらとか分け隔てして自ら損となることをしてどうなりましょうか。

このような高い見識をもって十善をなすのは、すなわち真正なる道徳であり、そのまま四恩を奉ずるものと言えましょう。これをインドでは菩薩と名づけ、中国では聖人と名づけ、日本にあっては明神と名づくのです。このような真理を明らかにして、すべての衆生を憐れみ、救済するのは仏教の教理であり、その実践であって、これは即ち三宝への恩であります。このような心構えで四恩の大きな徳にむくい生きることによって、国家の深い恩に報いることを仏教の真の報恩とするのであります。


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供養について考える

2024年04月29日 12時33分17秒 | 仏教に関する様々なお話
供養について考える (昨日の法事の後の法話に付け足して)



昨年は、四有ということを申しまして、衆生の死の瞬間を死有、それから、中陰とも申しますが、中有という時間を過ごして、次の生存へ生まれる瞬間を生有といい、それから本有という生涯を生きると考えてこの四つの有を繰り返し生まれ変わる、輪廻すると仏教では考えられているという話をしました。今私たちはですから、本有を生きているということになるわけです。昨年お亡くなりになられた故人は次の世、来世に逝かれている先に向けて、前世でお世話になった遺族親族の皆様が功徳を積み、その功徳を手向ける、回向するというのが今日の法事ということになります。

今日は供養とは何かということについて少し考えてみたいと思います。この言葉は中国で訳された言葉で、もとのインドの言葉はプージャーと言いまして、神仏への捧げ物としてのお祀り、お供えやお勤め、礼拝などを意味します。仏教のお寺でも朝のお勤めのことをプージャーと言っていました。インドのお祭りで有名なドゥルガー・プージャーとかカーリー・プージャーというようにお祭り全体を表す言葉として使用される場合もあります。ですから日本でも施餓鬼供養とか、盂蘭盆供養というように使われます。

そしてこのプージャーという言葉にはもう一つ大事な意味があり、尊崇する尊敬するという意味があります。尊いありがたい存在だからお供えをする、礼拝するということになります。インドではヒンドゥー教のお寺などでは拡声器を使ってスピーカーから大きな音で毎朝お勤めを村中に聞かせるという所もあります。ありがたいお経を自ら唱えるだけでなしに多くの人に聞かしめて功徳を分け与え、より大きな功徳とするということなのでしょうか。

お経は仏さまの教えですから、仏様に聞いてもらうものではなく、唱えた人本人が、また聞く人にとっても、それを糧に修行の精進功徳となるものでしょう。お経はどれも悟りという、最高の心の安寧にたずねいるための手ほどきとなるものですから、何度もお唱えし、耳にすることによって、少しの時間であっても、日常の喧噪から離れ、心に安らぎが得られ、僅かでも悟りに向かって前進する功徳あるものです。

ですから、今唱えた仏前勤行次第の最後の廻向文にも「願以此功徳・・皆共成仏道」とあり、勤行次第をお唱えした功徳により、皆ともどもに仏道を成ずることを願うわけです。成仏道とは悟りを得ることですから、それが成仏するということであり、仏になるということですね。それはとても善いこと、最高のところに逝くことだと皆さん漠然とかもしれませんが分かっておられるのです。ですから、通夜葬儀の時に知らず知らずのうちにどうぞ成仏して下さいと焼香するわけですが、それは悟りに向かってこれからも精進前進するべく、より善きところに趣いて下さいと願っていることになります。

そして、塔婆には、「◯◯◯◯大姉第一周忌菩提の為也」と書いてあります。菩提とは、悟りのことですから、一周忌にあたり、塔婆を建立する功徳を故人の悟りのためにふり向ける、廻向するものです。お釈迦様のような菩提、最高の悟りに到達するまでには果てしない時間を要するとされるわけですが、そこに到る過程で、様々な気づきをともないつつ小さな悟りを得て、そうして少しでも近づくだけで、大きな安らぎが得られるものです。

悟りというのは、この自分というような厄介な思いがなくなり、ものの真実因果に通じているので考えることなく、煩悩がないので煩うことがなく、貪りも怒りもなく、何がなくても満ち足りた豊かな心で、何があっても動じることなく、他に対しては優しい慈しみの心で接しられることですが、私たちもそうした心を理想としたい、そういう心になれるように努力したいと思われるならば、それが仏教徒であり、だからこそ皆様はこうして法事に参加されているのではないかと思います。

法事は、集まった人たちがお経を共に唱え、また長いお経を聞いていただき、日常とは違う空間で静思黙想して安らいだ時間を過ごし、来世に旅立っている故人に向けてその功徳を手向ける場であり、また参加された人たち自身が功徳を積む場でもあります。私たちもみないつかは位牌となり家族から手を合わされ成仏を願われる存在になります。また、仏壇は位牌になられたご先祖がみな最上段の仏様のように最高の安らいだ心になれるよう、一生でも早く悟れるようにと菩提を祈る場ではありますが、子孫にも確かな生き方を仏教に学び精進させるために、またときに迷い悩みをご先祖に打ち明け心の声を聞く場として用意された子孫への遺産ともいえるものです。

菩提を得る、成仏する、悟るなどということは自分の人生とは何の関係もないことだと思われるかも知れません。が、こうして法事の場でお勤めをする、つまり供養するというのは、すでにそうした認識のもとで法事における供養が執行されていることにご理解をいただき、単なる故人の冥福を祈る場ではなく、今を生きている私たち子孫も巻き込んだ過去から未来につながる仏道精進の構造のもとにあることをご承知いただけたらありがたく思います。

ところで、少し前から、アメリカやヨーロッパでは仏教の瞑想法をリラクゼーションの手法として活用し、宗教性を排除したマインドフルネスという瞑想法が考案されて多くの人が実践しています。鬱やストレス障害の治療として医学や心理療法の分野でも、また企業研修として自己啓発のため、刑務所の囚人の更生のためなどにも役立てられています。一五〇〇年の伝統ある仏教徒である私たち日本人も、供養の真の意味をくみ取り、故人の安寧を願うものとしてだけでなく、仏教の本質に迫る生き方が求められているのではないかと思います。


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