住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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吉野と飛鳥の古刹巡り-日本の古寺めぐりシリーズ番外編

2012年06月05日 20時10分32秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月28、29と吉野と飛鳥にお参りする。番外編も6年目を迎えると行くところの選別に窮する。なかなか名案が浮かばす、とうとう神社、神社と言っても天河弁財天に参ろうということになった。弁財天は元々インドの神、サラスワティである。河の神であり、智慧弁才の学問の神。それが日本に来るとなぜか銭の神となって、弁財天。そして、天河と言えば大峯、そして吉野。日本の信仰の原点に参る旅となって飛鳥にも行く。楽しみである。

そもそものこの地の起こりから話を始めよう。太古、日本の草創にたち戻って、紀元前660年、神武天皇は日向の地から北上して宇佐に出て、それから安芸、吉備を経て、大和に入ろうとすると抵抗に遭い、それから熊野に迂回して、まさに大峯奥掛け道を八咫烏(やたがらす)に先導されて北上されたのではないか。そして吉野から飛鳥、奈良に出て長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築いて即位する。それが天皇の始まりであって、日本の建国(2月11日)ということになっている。

つまり日本の国の始まりがこの地を北上することによってなされたということであろうか。応神天皇、雄略天皇はこの吉野の地に狩猟に来られていたと日本書紀にあり、また欽明天皇14年(553)には早くも吉野寺(比蘇寺)本尊の阿弥陀像が光を放つという伝承が書かれており、かなり早くに神社やお寺があり、また吉野宮と言われる離宮があったとされている。すこし後のことではあるが奈良時代の初めに僧尼令ができて、僧侶が山岳修行を願い出て許可されて向かった先がこの比蘇寺であったという。そこでは虚空蔵求聞持法が修されたという。

離宮・吉野宮への行幸は、応神天皇、雄略天皇の時代にもあったと古事記にはあるというが、造営されたのは斉明天皇2年(656)という。その地は吉野川の北に位置し、吉野町宮滝にある宮滝遺跡であるとされ、この地は中央構造線上にあり、水銀鉱脈が豊富なところでもあった。

古代においては、水銀や辰砂(鮮血色をしている)はその特性や外見から不死の薬として珍重されたという。特に中国の皇帝に愛用され、不老不死の薬、「仙丹」の原料と信じられていた。それが日本に伝わり飛鳥時代の持統天皇も若さと美しさを保つために飲んでいたとされる。この地吉野郡には水銀を精錬する風炉のある土地であったことを示すフロのつく地名が沢山ある。フロヤシキ、フロマエ、フロウエ、フロナワテ、など。水銀精錬に関わる土地であったとされ、丹生川流域は古来水銀文化発祥と言われる。

東大寺大仏鋳造にあたって使用された水銀の量は金の五倍といわれ、金メッキは金アマルガム(水銀と他の金属との合金の総称)を大仏に塗った後、加熱して水銀を蒸発させることにより行われた。一説には、この際起こった水銀汚染が平城京から長岡京への遷都の契機となったという。だから当時水銀はかなりの需要があったらしい。丹砂(たんしゃ、水銀を取る原料、辰砂しんさ、朱砂しゅさともいう)、赤埴を原料として水銀を吹き分け、水銀、朱などの赤色顔料、黒鉛、ベンガラと呼ばれる鉛朱などが精錬された。

(原田 実の幻想研究室―私の研究室にようこそ―より転載)
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kaguyahime4.htm

丹砂とは、硫化水銀のことです。粉末の硫化水銀は鮮やかな朱色で染料にも用いられますが、簡単な操作で銀白色に輝く金属水銀にも、赤い酸化水銀にも、黒色の硫化水銀にも白い結晶の硫化第二水銀にもなるということで、変幻自在の仙人になる薬にふさわしいと思われたようです。また、純度の高い金を作るには、いったん水銀で溶かすアマルガム法が有効だということもあり、丹砂と金はセットで仙薬の原料によく用いられました。(中略)

中国神仙道の錬丹術は錬金術でもありました。神仙を志す道士は仙薬に必要な金を作り出す技術を誇っていましたし、それが不老不死ばかりではなく、富としての黄金を求めるスポンサーを釣るための宣伝にもなっていたのです。西洋中世の錬金術でも、金以外の金属を金に変成させるという「賢者の石」は人間をも不死にする力があると信じられていました。二〇〇一年度の大ヒット映画『ハリー・ポッターと賢者の石』もこの「賢者の石」による肉体変容を隠れたテーマとするものです。

ただし、錬金術としての神仙道では、この「賢者の石」にあたるものとして、丹砂を用い、さらにその作用で生まれた黄金までを薬として服するわけです。日本列島には水銀鉱脈が多く、古くは魏志倭人伝の時代から平安時代末まで中国に丹砂を輸出していました。ところが時代が下るにつれて生産が減り、江戸時代には水銀加工技術そのものが途絶えてしまいました。これは鉱脈が尽きたわけではなく、水銀の加工技術が宗教的・呪術的な秘伝だったために武家政権の宗教統制で技術伝授が困難になったためと思われます。

丹砂の鉱脈を探し、それを加工して金属水銀や丹薬に変える技術は日本では修験者の間に伝えられていました。いわば修験道は日本化した神仙道でもあったのです(内藤正敏『ミイラ信仰の研究』大和書房、一九七四、松田寿男『古代の朱』学生社、一九七五、若尾五雄『鬼伝承の研究』大和書房、一九八一)。水銀鉱脈を探す人々は、見つけた鉱脈に水銀の女神であるニウヅヒメを祭り(ニホツヒメ、ミホツヒメ、ミヅハノメの名で祭られることもある)、あるいは「丹」にちなんだ地名を残しました。

丹波の国名もまた無関係ではなく、京都府竹野郡丹後町岩木にはミヅハノメを祭る丹生神社が鎮座ましましています。また、亀岡市にある丹波一ノ宮「元出雲」出雲大神宮の主祭神はミホツヒメです。薬方をつかさどる丹波家がこの地方に居を構えたのも薬の原料としての丹砂の有用性と無関係ではないでしょう。(中略)

水銀の無機化合物をごく微量、正しく使えば殺菌や新陳代謝促進といった薬効が期待できます。年配の方には懐かしい消毒剤の赤チンキはその代表でした。しかし、水銀化合物は毒性が強い危険な物質でもあります。だからこそ、現在では赤チンキの製造・使用は禁じられているのです。
丹砂から作った薬を大量に服用していれば、やがては幻覚が見えるようになります。

神仙道の伝承には丹薬を用いて、神仙の飛来を迎えられるようになった道士がしばしば出てきますが、それは水銀中毒による幻覚だった可能性大です。また、食事から五穀を絶って、丹薬を飲み続けていれば、水銀化合物の防腐・殺菌作用で死後、その遺体が腐りにくくなります。神仙道では、死後も遺体が腐らなかった人は屍解仙、すなわち仙人になったとして尊ばれました。また、日本の修験道における即身仏でも、丹薬を服して、あらかじめミイラになりやすい体質にしていたと思しき例があります(内藤正敏・松岡正剛『古代金属国家論』工作舎、一九八〇、内藤『ミイラ信仰の研究』前掲)。

しかし、体質が変わるほど、丹薬を飲み続けるということは、水銀中毒による緩慢な自殺であり、その症状は苦しいものだったことが推定されます。しかも、中国では歴史上多くの権力者が不死を望んで丹薬を服していました。中国史にしばしば現れる暴君・昏君の蛮行・愚行には、水銀中毒の結果によるものも含まれていたことでしょう。ところが日本では、天武天皇のように丹砂の呪力を祭祀に用いようとした天皇・皇族はおられたものの仙薬として服することはありませんでした。天武天皇は晩年、延命のための薬を求めたと『日本書紀』にありますが、それは植物性のオケラ(キク科の多年草)で丹薬ではなかったのです。

(転載終わり)

高野山開創にあたっては、弘法大師も丹生都比売を祀り、丹生都比売神社が今も残る。

そしてこの宮滝の離宮からは、大峯山系の円錐形をした青根ヶ峰が望むことができ、それこそは水分(みくまり)山という四方に川が流れ出す水源信仰の地であり、その中腹には元の吉野水分(みくまり)神社が鎮座し、斉明天皇から聖武天皇に至る歴代天皇が全国土の風雨順時五穀豊穣を祈願したところなのであった。

そして特別この地が信仰の地となるのには、勿論この地が古くから神仙境として思われていたからであり、吉野行幸に同行した官人の漢詩『懐風藻』に多くの作品が残されている。神仙の住処として崇められた地へ分け入り修行する人たちのことを験力を修めた者として修験者、また山に伏して修行することから山伏と言われた。

熊野から吉野にかけての大峯山、羽黒山から湯殿山にかけての出羽三山、英彦山、葛城山、日光山、富士山など多くの霊場が今に至る。それら修験道の開祖と仰がれるのが役行者、役小角である。今の奈良県御所市茅原村に七世紀に生誕し、30年にわたり山に入って藤皮の衣を着て松葉を食し花の汁を吸って孔雀明王の呪を誦して山野を跋渉して大験自在となって鬼神を使役したという。今も「南無神変大菩薩」と唱えられるように、摩訶不思議な超能力を身につけておられたのであろう。

諸国の神を使い、葛城山と金峯山に橋を架けようとして、葛城山の一言主神が夜しか働かないことを諫めると役行者が天皇を退けようとしていると讒言され、役行者は伊豆に流される。その間夜は富士山に行って修行していたところ、いざ処刑というときに、富士明神による『行者は賢聖である』との表文が処刑人の剣に現れて赦され、その後唐に渡り、法相宗の道昭が唐に渡り法華経を山寺で講じていると現れて、「三年に一度は日本に行って金峯山葛城山富士山に登拝している」と語ったと言われる。

役行者が吉野で感得した神が蔵王権現であり、金峯山に祀られていることは有名であるが、それよりも前に霊峰大峯山を開山し、真っ先に祈り出されたのが天女・大峯の地主神である金精明神(天河弁財天)であるという。役行者は、我が国の能化として山王蔵王権現を、そして、地鎮として地主神金精明神を祀り、大峯信仰を貫く二本柱として一山の信仰を確立したのであった。

そうしてその頃この地を訪れるのが後の天武天皇・大海人皇子であった。


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