備忘録として

タイトルのまま

飛鳥とは何か~隠された十字架-法隆寺論

2007-12-09 23:38:41 | 古代
梅原猛の表題本2冊を読んだ。
梅原は、”飛鳥とは何か”の中で、自説に対して「法隆寺の謎を私は解き明かした」、「私の説が間違っているというなら、ひとつひとつ反論すればいい」と挑発するのだが、巻末で解説する上原和は、「はたして法隆寺が太子の怨霊を封じる鎮魂の寺であったかどうかは、しばらくおく」と極めて抑制的である。上原和の言う「歴史学者が理にかなう事実を追うことにのみきびしく、人間の真実を見る目を曇らせてきた」とあるように、梅原猛の法隆寺怨霊説は歴史学者の学問の外にあるため「私の周囲には反論の声を上げる人はいない」(梅原)のは当然なのである。
梅原の方法は例えば日本書記の中で法隆寺の建立や再建が書かれていないのには意味があるはずだという疑問から発するのである。歴史学者は書いてあることが真実かどうかを考古学や他の文献で解き明かすことが学問の中心であり、書かれていないことは研究対象にはならないのである。津田左右吉流の文献批判では文献に記されていることでも、それが不合理であれば信用できないとして、史実ではないと捨て去ってしまう。ましてや書かれていないことを理由に何かを推論していくことなど歴史学者には到底できないことなのだろう。
梅原猛は哲学者で上原和は美術史家でありながら、魅せられて法隆寺と聖徳太子の研究を続けており、個人的に上原和の身内から聞いた話では、お互い変人どおし気が合うのだそうだ。

ところで、法隆寺の再建年を、上原和は680年、梅原猛は710年頃(和銅年間708~715年あるいは和銅に近い時期)としているのだが、法隆寺五重塔の心柱が年輪年代法で594年伐採と出たことに対してどのような説明を用意しているのだろうか。他の寺からの移築説が妥当と思うのだが、仮に二人が移築説に同意するなら、どの寺を移したものだろうか。
聖徳太子の顔を模したといわれる救世観音は白布に捲かれ再建当時から長く秘仏として逗子の中に納められていた。明治17年のフェノロサの強要で公開されるまで1100年余り眠っていたらしい。梅原猛の言う中門の真ん中に立つ柱の謎などは単なる思い込みとしか思えないのだが、救世観音の解釈には納得させられる。彼の解説を読む前と読んだ後に見た救世観音の印象がまったく変わってしまった。
本の題である”隠された十字架”の十字架に対する説明がどこにも書かれていないのだが、今読んでいる”赤人の諦観”にそれが説明されている。聖徳太子の一族の悲劇、厩戸、復活伝説など法隆寺と聖徳太子伝にはキリスト教の影響があるかもしれないという暗示なのだそうだ。
今日、”聖徳太子”4巻を買った上、”水底の歌”も購入リストに入っているので、しばらくは梅原漬けだ。

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