JW脱出計画(進行中)

エホバの証人2世(現在不活発)の思いをつらつらと・・・

追い込む人②

2006-11-28 22:54:08 | Weblog
「食わず嫌い」というものは誰しもある。だからもしかしたら彼(長老H)に対しても何かしらこちらが共感できたり親しみを感じられるようなものを見つけられるかもしれない・・・。そう思って自分は重い腰を上げて彼との「奉仕の友」に臨んだ。

・・・だが、自分は初日でその努力を続けるのを断念したorz

どうしても彼とは「肌が合わない」と感じたのだ。言う事ややる事がイチイチ気に障ってしまい、はっきり言って肝心の布教活動するどころの話ではない。

たとえば基本的な点だが、会話が続かない。

自「今日はいい天気ですね~」。

H「そう?冬はいつもこんな感じじゃない?」

自「(沈黙)・・・」。

こちらが勇気を出して会話の糸口を作ろうとしてるのに、のっけからぶち壊す。結局共に歩きながらでも車中でもほとんど無言のまま時は流れた。

具体的に彼が嫌がらせをしたとか、意地悪をしてきた、ということはなかった。それでも側にいると何だか気分が悪くなった。生理的に合わない、というのはこういうものかと思いつつそれでも何とか1回に付き2時間、地獄のような時を過ごした。

しかしそんなことが2,3回続いた後、遂に限界を感じたある日の自分はHに電話をかけた。

自「スイマセン、今日は体調が悪いので奉仕の友はお休みさせて下さい」

自分でも信じられなかったのだが、週末が来て彼とまた一緒に出かけなければならない、と思った途端に頭痛と倦怠感に襲われ、朝ベットから起き上がれなくなったのだ。そんなことが何度か続き、結局Hとの取り決めはそのままお流れのような感じになった。

しかしその後もHに対する嫌悪感のようなものが収まることはなく、むしろ悪化していった。だから集会場で彼が側に来ると何とも言えない感覚に襲われ、できるだけ離れているようにした。やむなく話をしなければならない時も目を見ないようにして手短に済ませた。初めはこんな事をしている自分がとてつもなくダメな人間のように思えた。自分の信仰が足りないんだ・・・自分がいけないんだと・・・。

思えばそれが、地獄の日々の始まりだった。

整理整頓

2006-11-27 20:11:08 | Weblog
「あれから」1年が過ぎても変わらない光景が目の前にある。

週2回発行され、年末にはかなりの分量になるJWの機関誌「ものみの塔」と「目ざめよ!」を入れたバインダーが一番に目に付く。そして毎年発行される「年鑑」や色とりどりの書籍。2冊組で本棚のかなりの場所を占める「洞察」の本・・・それらが未だに自室の本棚を占領し続けている。

捨てようと思えばいつでも捨てられる・・・でもまだ自分にはその行動を起こせそうにない。あの場所に未練があるわけではないが、長年親しんだ本たちを無造作に古紙回収に持っていくことができないのだ。

この本たちを何の未練もなく捨てられるようになるのは一体いつだろう。そしてその時、自分は一体どこに向かって歩いているのだろう。

週末の午後、部屋の掃除の手を休めながらふと思った。




追い込む人①

2006-11-26 22:44:12 | Weblog
 互いを愛し合うように、と事ある毎に教えられているJW信者とはいえ、やはりそこは人間なので仲間内でも自分と「合う人」あるいは「合わない人」というのは存在する。そしてそれは相手の「霊性の高さ」には必ずしも比例しない。(霊性が高いからって自分と合う人とは限らない)・・・そんなの当たり前だ、と言われてしまえばそれまでだが、実はこれがなかなかやっかいな問題に発展することがある。

 自分が組織にいた頃、「奉仕の友の取り決め」という制度が新たに設けられた。これは主に正規開拓者がそれ以外の奉仕者を援助するという目的で、一緒に奉仕に出たり家庭聖書研究(注:一般家庭を訪問してそこで家の人を直接教える事)に連れていったりして宣教の技術を訓練するというものだ。

 ウチの会衆の場合、3ヶ月置きにこの取り決めの順番が奉仕者に周ってきた。当然ながら開拓者の方がその他の信者より少ないわけだからその位の頻度になるのだろう。自分も援助「される側」としてこの取り決めを経験したのだが・・・結果的にこれが自分に組織を出るという行動を加速させることとなった。

 最初の取り決めの時に自分に当たったのは同年代の開拓者(男性)だった。同い年の気安さもあってその時は難なくこなした。しかし2度目の際に当たったのが、長老Hだった。彼は主催監督、つまりその会衆のドンだった。主催監督というのは各会衆に数名いる長老たちの中から選ばれることもあるが、彼の場合は本部の方から派遣されてきていた。年齢的にも長老の中で一番若い(といっても40代)人だった。これだけ見れば彼は若くして会衆を束ねるかなり優秀な人、という事になるだろう。

 ただ・・・年齢が若いせいなのか、性格に問題があったのか(多分後者だがw)今となっては定かではないが、彼は会衆内で鼻つまみ者的な存在だった。一言で言えば「気まぐれ」な人だったのだ。たとえば自分の「お気に入り」の仲間とばかり仲良くしてそれ以外の成員にはぶっきらぼうに接するし、人の傷付くことを平気で言ってケロッとしてるし、面倒くさい仕事は他の長老に押し付けるし・・・上げれば枚挙に暇がないのだが、どうしてこんな人間が主催などに任命されたのか理解に苦しむといった人だった。

 そんな長老Hを、当然ながらこっちは苦手にしていたし、向こうもまた同じだった。事実、彼と個人的に話した事は会衆の仕事に関係することを除いてそれまで一度もなかったくらいだ。しかし「奉仕の友」ということになればそれまでのようにお互い避けているわけにもいかず、やむなく我々はある週末に一緒に布教活動に参加することになった。

(続く)



現役さんとの遭遇

2006-11-25 00:00:00 | Weblog
先日、ある店に買い物に出かけた。頼んでおいた品物が届いたというのだ。

店の中に足を踏み入れてから思い出したのだが、そこには自分が昔から知っている同年代の男性信者(現役)が働いていた。やばい・・・しかもそういう時に限ってカウンターには「その人」がいた。

彼とは一時期だが同じ会衆にいたことがあった。特別親しくしたわけではなかったがお互いのことはよく知っている。自分と同時期に奉仕の僕に任命され、しかしなぜかその後彼は過去の過ちを穿り返されて特権を失い、しばらく自分ひとりで2人分の仕事をやらされ大変だったことがあった。そのことで別に彼を嫌いになったりもしなかったが、何かの折に自分の母がその人の母親から「あなたの息子さんはご立派でいいわね~」的なイヤミを言われた、というのを聞いて呆れたことがあった。たとえ成人しようがいつまでも子離れできない母親が多いのもこの組織の特徴であるw

そんな彼も数年前から別の会衆にいるが当然こちらの顔は覚えているだろう。少々緊張しつつ、カウンターで仕事中の彼の前に立つ。向こうも顔を上げたが、特に表情は変わらない。昔のままの穏やかな顔だ。品物が届いた旨を一顧客として事務的に伝える。彼も初めの笑顔をほとんど変えずに「少しお待ちを・・・」と店の奥へ。ややあって品物を携えて戻ってきて、「こちらですね?では受け取りにサインを」と領収書を差し出されサインした。さすがに居心地のワルサを感じ「じゃあ、どうも」と足早に去ろうとする自分の背中に「ありがとうございました~」とさわやかな声をかけてきた。

起こったのはこれだけの出来事。ものの5分とかからなかった。その店に行く事は2度とないとは思う。彼自身に何か落ち度があったわけではないが、やはり現役さんに会うとあの頃の事を思い出したりして嫌な気分になるものだ。

みんながバイオリンを弾くといったら・・・

2006-11-25 00:00:00 | Weblog
以前読んだ向田邦子さんのエッセイでこんな出来事が綴られていた。

「学校のクラスメイトにバイオリンを習っているという女の子がいた。クラスの友達とも普通に接していたのだが、冬場の掃除でクラス全員で雑巾がけをすることになった時に、その子の母親から『冷たい水に手を入れると指が硬くなってバイオリンが弾けなくなるからウチの子には雑巾がけをさせないでくれ』という申し入れがあり、彼女だけが雑巾がけを免除された。当然クラスの中には面白くない雰囲気が漂った。じゃあクラス全員がバイオリンをやっていたらどうなのか、と皆が思った。そのせいで彼女をいじめるということはなかったが、その子も決して幸せそうではなかった」。

この話を読んだ時、自分はJW信者もこの子と同じ境遇ではないかと思った。

日本の総人口は1億2000万人。それに対して約20万人いると言われる日本のJW信者。彼らの多くは労働者として働くのではなく、はっきりいって一文にもならない布教活動や聖書研究に己の時間と労力を使っている。いわば好きなことをして生きている「結構な身分」なのだ。

もちろん彼らも「自分たちだって少ない収入で生活を切り詰めている中でやってるんだからいいじゃないか」というかもしれない。しかしそれはたかだか20万人の人間「だけ」がやっているから許されてるだけではないか。ではもし日本人全てが彼らのように定職に着かず昼日中から伝道カバンを持って街を練り歩いていたらどうなるだろうか。・・・そんな人間ばかりになったら時を待たずして日本社会は間違いなく崩壊するだろう。

つまり極論を言えば1億1980万人の人たちが真面目に働いたり様々な役割を担って社会を運営してくれているおかげで、年金も税金もさして払わない20万人の集団が存続を許されているという事だ。JWの中には何かと自分達のやっていることを社会の役に立っていると鼻にかけている人間が少なからずいる。自分達は社会の役に立っているのではなく、むしろ社会の恩恵に預かっているのだということをしっかり自覚してほしいと思う。