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古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて 王朝終焉の地 田和山神殿と久奈子神社

2014-06-27 11:31:37 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
古代出雲王朝終焉の地 田和山神殿と久奈子神社 2014年6月13日
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古代出雲王朝は東と西の二つの王家があった。西は「神門臣家」で東は「向家」でそれぞれ交互に 主王(役職名は大名持ち)と副王(役職名は少彦)を出していた。

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九州筑後平野に和国へ2度目の上陸をした秦国人徐福(記紀では素戔嗚)の子孫が打ち立てた「物部王家」は232年にイニエ王(記紀では崇神と表記)は第2次東征を決意し南下を始めた。

そして日向の地に「都万(つま)王国」を作り 宇佐の豊王国から豊玉姫を迎え「都万豊連合王国」を作った。皇子のイクメは瀬戸内海を東進し 吉備で吉備王国の激しい抵抗を受けていた。

別動隊の曙立王(あけたつおうー大和の登美家の分家)と菟上王(うのかみおうー宇佐家)が日本海を東進して西出雲王家を急襲した。第17代大名持ちの「山崎帯王(やまさきたらし)」は当時智井宮宮殿(出雲市神門町)に居たが 慌てふためいて背後の山に逃げ込んだ。そこに新宮を建て 抵抗したがやがて降伏した。

その新宮で講和条約が結ばれ 物部軍が西出雲に駐留することとなった。新宮は後々まで(江戸時代まで)も「和評り(わはかり)の宮」と呼ばれたが、現在は「久奈子神社」となっている。

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久奈子神社の参道入口 出雲市古志町の山の上にある。

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さらに長い石段を登る。

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鳥居を潜ると更に石段が続く。

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こじんまりとした造りだが、ちゃんと大社造になっている。

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古代出雲王朝では「幸の神三神(さいのかみさんじんー久那斗クナト大神、幸姫命さい姫のみこと、およびその御子神サルタ彦)」が信仰されていた。

久奈子とはクナト大神の御子のサルタ彦のことだ。サルタとはインド南部ドラビダ人の言葉ドラビダ語で「鼻が大きい」と言う意味で、つまり象の神様「ガネーシャ」のことだ。

(※古代出雲族はインドにアーリア人が進攻してきた為に追いやられたドラビダ人の一部が紀元前5世紀頃モンゴル経由で渡来したという。これは神門臣家と向家の伝承だそうだ)

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神社からは 出雲平野の向こう 出雲北山の最高峰「鼻高山(はなたかせん)ー鼻が高い、つまりガネーシャであるサルタ彦を祀っている神奈備山」が正面に望まれる。

もともとこの場所は神門臣家がサルタ彦を遥拝する祭礼の場所だったという。

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田和山神殿跡  松江市田和山町

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一方 都万豊連合王国の別動隊が日本海を進み 東出雲を急襲した。西暦80年頃に渡来した朝鮮人(辰韓の王子)ヒボコの子孫 田道間守(たじまもり)が東出雲王家(第17代少彦 野見彦)の宮殿の田和山神殿(松江市田和山町)を襲い破壊した。田道間守は直ちに日本海を東進続け 既に大和入りしていた都万豊連合王国 イクメと合流する。

その後武諸隅(たけもろずみ)率いる物部軍が伯耆の国日野郡から大量に侵入し東出雲王家も降伏する。野見彦は宮殿を物部軍に明け渡し、向家は八雲に移る。

物部軍は宮殿の建物に駐留し それが今の「神魂(カモス)神社」であり、向家の住まいが今の「熊野大社」である。

と言うことで第17代大名持ち(主王)「山崎タラシ王」、少彦(副王)「野見彦」で古代出雲王朝は終わりとなる。

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田和山遺跡南側入口。この階段が頂上まで続く。

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この遺跡は三重の堀がめぐらされている。それだけ重要な施設だったのだろう。

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上から周りの堀を見下ろす。駐車場のクルマが小さく見えるということは、高さがかなり高いということだ。

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堀の東側の部分の先には 「松江市民病院」が見えている。この病院はもともとこの遺跡に建つ予定だったが、松浦松江市長の英断で 遺跡を保存し、病院建設地を東へ移動することが決まった。

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堀の説明看板が数箇所立っている。

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山頂には柱列 の跡が発見されたが、「建物の形状については諸説あるらしいので、とりあえず柱だけを復元した」と書いてあった。

この写真は南側より北(宍道湖方面)を見た写真。

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山頂部の説明看板。

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山頂から東を見ると 正面に茶臼山が見える。茶臼山は東王家(向家)が神奈備山(幸の神三神のおわす 聖なる山)として この地から遥拝していたという。

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※追記 瀬戸内海を通り河内に上陸した 都万豊連合国のイクメ王(この時点ではイニエ王が亡くなりイクメが王となっていた)は、既にヤマトで王国を築いていた第1次東征軍の子孫たちが激しく抵抗して 堅く守る大和盆地に入れず、生駒山地で足止めを食っていた。生駒と言う名前はイクメが長くとどまった土地から来ているという。

田和山神殿を破壊して、駆けつけた田道間守の援軍を得て、第2次東征軍は優勢となり、ついに大和入りを果たす。田道間守は大きな勢力を持つようになり、葛城地方に腰を落ち着けて、イクメ王の指図を受けなくなったという。そのあたりの地名は 田道間守(たじまもり)のタジマが訛って 当麻(たいま)と呼ばれるようになったとか。現在の当麻寺のあたりである。

(朝鮮人ヒボコの子孫である田道間守がなぜ出雲王家を恨んでいて 神殿を破壊したのかは、また別の機会に述べたいと思う)

困ったイクメ王は、旧東出雲王家の野見彦に田道間守を撃つように依頼する。神殿を破壊されて 田道間守をうらんでいた野見彦は 直ちに出雲各地で兵を集め葛城へ進軍し 田道間守を打ち破り、敗走させる。

名実共にヤマトの王になり、喜んだイクメ王は 野見彦に領地と 物部王家の重臣の称号「宿禰」(すくね)を与えこの時から 野見の宿禰 と名乗るようになったとか。

また記紀ではこのときの戦争を「当麻蹶速(たいまのけはや)と野見の宿禰 の相撲の話」に作り替えて 相撲発祥の地が 当麻だという話をこしらえたという。

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