熊澤良尊の将棋駒三昧

只今、生涯2冊目の本「駒と歩む」。只今、配本中。
駒に関心ある方、コメントでどうぞ。

六字名号

2017-08-12 18:08:25 | 文章
yozakura様、コメントありがとうございます。

いただいたコメントを、再表示しておきます。
ーーーー
文字の一部が読めません (Yozakura)2014-11-26 12:43:51

 80年以上も前の写真乾板の紹介、有難う御座います。
 前世期の遺物なのでしょうが、画像そのものは80年前とも思えぬ鮮明さ。
 熊澤さんは、こうした手仕事が御好きなだけに、解読作業にも力が入りますね。

 ところで、梓掲示された仏画【ナ無阿弥陀佛】ですが、左下の署名欄と画面下の注意書きの一部が読めません。
 御存じでしたら、このブログにてご教示下さい。

1) 左下、作成者の署名と落款が不鮮明の為、読みとれません。

2) 画面の最下段、多分、この撮影者に依るものでしょうか、万年筆に依る説明書きの一部が読めません。
  ○曽井氏○昭和十一年発見

 上記のうち、○の文字が読めません。最初は「與」、二文字目は「荘」にも見えますが、
 PC画面上は今一、不鮮明です。お時間ありましたら、御教示下さい。

ーーーー
上記、お尋ねの件。
1、画像は、蓮の葉に立つ観音様の姿に見立てた『(南)無阿弥陀佛』の六字名号です。
  左下に『現覚謹書』とあり、拡大画像を再度掲示します。

2、
  下の文字は「與曾井氏蔵昭和十一年発見」。
  写真原板はハガキほどの「手札判」で、下の文字はガラス原版に、直接書かれたものです。
 「現覚」は、当家の始祖の僧名。
 「與曾井家」は、楠家支流のお家です。

  
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5 コメント

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Unknown (實方直行)
2014-11-27 01:09:02
こちらから失礼致します。こうした写真にご関心をお持ちになられる方がブログにいらっしゃるのが嬉しく、またついコメントしてしまいました。
今ではこのオリジナルの所在も不明なのが残念です。
返信、有難う御座いました (Yozakura)
2014-11-28 09:10:38
熊澤さま

 お早よう御座います。返信を拝見しました。直々の解説、有難う御座います。
 成る程、「謹」だった訳ですね。画数の多い文字で、PC画面上では圧縮して表記されるため潰れ形に近く、中々に読みとり辛いのです。しかも最近は「謹書」などと云う荘重な言葉は、冗長と解釈されることもある所為か、滅多に使われません。
 況して、この場合は、出家した僧侶が自身の信仰の確認や、或いは仏教の布教宣教を目的rとして作成した仏画です。仏画の末尾に「○○謹書」と認める僧侶の心境は、仏画作成の動機や背景にまで踏み込まないと、中々に見えてきません。
 気忙しくも慌しい現世の俗事に追われる身には、遠い文言です。

 私が捻った「----氏荘」では、意味が今イチ通らないですね。御説の通り、「収蔵」の「蔵」ならスッキリです。簡略化された草書体は筆者の癖が出易いものですし、それに、戦前の知識階級が好んだ文字の書き方や、その教養の基盤も、現在とは相当に異なっているので、簡単なところで躓いて仕舞いました。

 御教示、有難う御座いました。 
蛇足 (實方)
2017-08-11 20:34:11
熊澤様は余りこのブログでご自身のルーツを語られないので、蛇足ながらこちらで追記させて頂きますと…現覚と言うのは、熊野宮信雅王と言う南朝末裔が福島県から足利幕府の追究を逃れる為に安住の地を求めて各地を歩かれた際に名乗られた僧名とされています。この与曾井家と言うのは、長野県にあった旧家であったらしく、良尊様のご尊父が祖先調査をされていた際に同家から見付かったものと言われています。残念ながら今は行方不明で、この写真のみが残されています。
コメントありがとうございます (熊澤です)
2017-08-12 06:51:49
與曽井家のこの「六字名号」。
小生もこの写真でしか見たことはありません。
今は、どこにあるのか、失われて今は無いのか。
80年も前のことですし、與曽井家のその後のことも分かりません。

3年後の追記、有難う御座います (Yozakura)
2017-09-12 19:04:02
熊澤さま
實方さま

 3年を経過した後の、この追補コメント、どうも有難う御座います。よくぞこの写真と、3年も前の説明を記憶されていましたですね。感嘆しました。
 早速、3年前の貴ブログの「80年前の写真乾板の展示」と、その後の「六号名字の解説」が紹介されたページを訪問、その前後も含めて読み直してみました。80年前に撮影された乾板から、写真の原像を復元する作業は相当な手間暇を要したものと推測します。
 改めて、お疲れ様でした。

 当時は、「一銭の利益も生み出し難い、この種の作業に一意専心されるのは、矢張り、熊澤氏の嗜好や性格に由来するものかな-----?」と預測し、それ以上は敢えて、深くは考えなかったのです。

 ただ、撮影対象となった仏画の写真や、撮影者の覚え書きは、その内容や由来、撮影に至る経緯までをも考察しなければ、文字の解明は不可能です。
 当然のことながら、その種の作業は、その仏画原本の所在が熊澤一族の出自や経歴・履歴に何らかの形で関与している事象を示唆するものであり、当該仏画の解釈や解明に際しては、その関与の如何や程度に至るまで、深く踏み込む必要が発生するのは、容易に想像出来ます。

 一介の第三者に過ぎないブログ読者が、其処まで言及して良いものか----と云う意識もあったので、3年前には文字の解読を尋ねるのに留めた訳です。
 實方氏の解説に拠れば、この仏画の原作者であった仏僧は、実に、南北朝時代の権力闘争の渦中にあった人なんですね。何だか、壮大なる歴史物語の作中に分け入ったかの如き心境です。
 熊澤氏の、今後一層の御活躍を願って居ります。お元気で。  

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