自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

寓話もしくは想像力

2011年02月28日 | Weblog

 よく知られた寓話の一つ、「オオカミとツル」を略述すると、
「ご馳走を食べたい両者は互いに食事に招待した。招待されたツルはオオカミの出した平らな皿にうすく盛られたスープを長い嘴でつつくだけ。オオカミは舌で何杯もたいらげた。一方、招待されたオオカミはツルの用意した長い壷に入つたシチューに舌も届かず、よだれも涙に変わつてしまつた。」
 略述すると元の寓話表現のインパクトがおそろしく減るのであるが、この寓話の意味するところは、オオカミとツルは互いに相手の食べ方を忖度した心情的エゴイストだということだろう。
 ところで、寓話表現の面白さは、人や動物、ときには樹木さえもが共に会話をするという非日常を描きながらも、そこに、不自然さが感じられない、という点にある。不思議なのは、そのようなことを可能にする想像力、構想力という能力を僕たちの祖先が太古の昔から持っているという事実である。この能力をいかに使うかによつて、僕たちの未来の明暗がある程度決まると思われる。大国は貧しい小国のことを、政府は国民のことを、甲は乙のことを意を尽くして想像してみることだ。これをしなければ心情的エゴイズムが蔓延するだけだ。

ヒトの厚み

2011年02月27日 | Weblog

 生態学の本には興味深いことが一杯載っている。次はその一つ。
 地球という生態システムにおけるヒトの占める位置の量は極めて小さい。地球の半径は約6400km。その周囲に生物は貼りつくようにして生きている。生物が生存する範囲は、高さがせいぜい数千m、深さは最深の深海生物が棲む所でも10km。この範囲に生きている生物を全部集めて地球の表面に均等に並べると、その厚みは(驚くなかれ)1.5cmにしかならない。
 しかもその90%は植物で、動物だけの厚みは1.5mmにしかならない。動物の大部分は海の動物で、陸上動物はその250分の1、つまり0.006mmの厚みにしかならない。
 現在、陸上動物の中で量的に最も繁栄しているのはヒトである。勿論個体数だけをとれば、バクテリア、微生物などはヒトより遥かに多い。が、重さを含めて計算すると矢張りヒトが一番である。大雑把な計算によると、ヒトの総重量は約1億6000万トン。これは陸上動物のほぼ4分の1だと推定される。だから厚みにすれば0.0015mmぐらいになる。半径6400kmの地球に対して0.0015mmの厚み。
 この微小なヒトの存在が地球という生態システムに甚大な悪影響を及ぼしてきた。ヒトは生活するためにも様々な有害物質を排出してきた。このまま行けばこの生態システムはいつまでもつのだろう。

(今日は母の十七回忌。ちょっと遠出してきます。)

NZ地震、看護関係の不明者多数

2011年02月26日 | Weblog

(新聞より)
 ニュージーランドの地震で行方不明とされる日本人28人のなかで目立つのが、看護師を目指したり、実際に働いたりしていた人たちだ。少なくとも12人。語学力と技能を身につけ、世界のどこでも傷つき病める人を救えるようになりたい。そんな思いで、外国人看護師でも働きやすい同国で学んでいた。
 「将来は国際的な看護師として働きたい。そのためにまず、ニュージーランドに留学して勉強したい」。栃木県小山市の桜井洋子さん(27)は2009年3月まで勤務した千葉市内の病院で、夢をよく口にしていた。上司だった安藤光子看護師長は「忙しいなか勤務時間外に語学を習いに行くなど、夢に向かってまっすぐに進んでいた」という。
 青年海外協力隊など海外で人を助ける仕事に昔から興味があったようだ。「素直で頑張り屋さんで、誰からも好かれる。新人の教育係になった時も慣れない後輩に丁寧に教えてあげていた」と安藤さん。「彼女の置かれた状況を思うと、本当につらい。無事に帰ってくることを、祈るばかりです」と涙を浮かべた。
 神戸市垂水区の大坪紀子さん(41)は国際救援団体「世界の医療団」のメンバーでフランス語、中国語を身につけていた。「医療関係の英語を勉強したい」と今年1月から留学していた。
 「欲しい情報が入ってこない」。福岡県出身の波多祐三子さん(29)の姉、蒲池(がまち)由紀子さん(37)=奈良県香芝市=は情報の乏しさを嘆く。
 波多さんは福岡市の博多高校衛生看護科(当時)を卒業後、京都や北九州、神奈川で働いてきた。昨秋、「海外でも通用する看護師になるには英語が必要」と留学。家族にもあまり相談せずに決めたという。「決意が揺らがないように、甘えの気持ちが芽生えないように、との思いだったのでは」と蒲池さんは言う。

(英語を身に着けるための若い学生の受難はもとより身につまされるが、国際的に人の命を救おうと努力しているナースが窮地に追い込まれるのは全く解せない。)

武という字

2011年02月25日 | Weblog

 字を手で書くことが少なくなった。現に今、字を打っている。手で書くことが少なくなればなるほど、字の意味を忘れるのではないか。意味を忘れる前に、字を忘れることもあるだろう。やはり字は書かれなければと思いながら、この文の字を打っている。
 近頃気になるのは「武」という字である。或る辞書によると、「武」は「弋(ほこ)と、足の形の止とからできて、ほこをもって勇ましく進むこと」とある。僕はこの意味を直感的にいぶかった。
 そこで、図書館で『漢字学』という古い本を見つけ調べたことがある。それによると、「そもそも武(勇気)とは軍功をたてれば戦いを止めること。それが本当の勇気である。だからこそ「武」という字を見よ。それは止(やめる)と弋(武器、いくさ)とからできているではないか。」武という字の本義は、武器の使用の停止にある。これが本義だと思う。
 本義を忘れた世界の武器をもてる荒武者たちよ、もういいではないか。戦いを止めるがよい。

米について、少々

2011年02月23日 | Weblog

 ニュージーランドの大地震と大被害や深刻な中東情勢に関するニュースが目に飛び込んでくる。前者は自然災害の度合いが強く、後者は全くの人災である。どちらの場合も生活弱者が最も被害を受けることでは変わりない。
 そのようなニュースに関してはメディアで情報を得る他は無い。
 ところで、そのようなニュースとは全く無関係な話をひとつ。
 食料自給率39%の日本で、政府の減反政策にも拘わらず米余り現象が続いているそうだ。最近では外国産小麦の値上がりで米が見直され、米で出来たパンも売れているそうだ。家畜の飼料にも古米が使われているそうで、少し前までは考えられなかったそうだ。
 史説によると、日本人の食生活は、縄文時代までは自然物雑食時代といわれ、主食、副食の区別はなかったが、やがて稲作が始まり、ここで初めて主食と副食が区別されだした。主食は米であり、他の動植物性食品は、どれだけ摂取量が多くても、それは副食という考え方が弥生時代には定着したそうだ。ところが、古墳時代から飛鳥・奈良時代と時代が下ると、米は献納品として貴重なものとなり、常食できる階層は減っていった。一般庶民が米を常食できるようになるのは、ごく最近になってからである。
 柳田国男によると、畑作地帯や山間では米を常食とせず、水田地帯でも米飯を毎日食べたわけではなく、明治二十年代の調査では、米の主食としての消費量は、全主食の五割ほどだった。米飯が国民の主食となったのは、太平洋戦争後もかなり経ってからで、室町・江戸時代の庶民にとって、米は主食ではあったが、町に住む裕福な人以外に常食とした人は少なかった。米、麦、稗、粟、里芋、薩摩芋などの混食が主食だった。
 日本人は二千年来、主穀生産の中心に水稲耕作をすえてきた。水稲は日本の気候風土に適し、他の穀物に比べ、単位面積当たりの収穫量が多く、連作もよく、多くの人口を養え、栄養価が高く、本来は副食をあまり要しない。少し極端に言えば「ご飯に味噌汁、漬物」だけで健康が維持できる。そんな訳で、日本の農村は米作りさえ満足にできれば、自給自足してきたものと見られる。だが、米作りに精を出す農民が、ご飯をいただく機会は稀であった。
 こういう歴史を知り、また現代日本の食糧事情に鑑みるとき、米飯を主食としている現代の僕らは米と農家に感謝しなければならないと切に思う。

漂泊者もしくは命について

2011年02月22日 | Weblog

  年たけて
  また越ゆべしと
  思ひきや
  命なりけり
  さやの中山
と西行は詠んだ。「命なりけり」とは「命あってこそのことだ」の意味。ここには老いへの感慨があり、同時に自分の命をいとおしむ心境が歌われている。
 芭蕉は、おそらくこの西行の詩を思いやり、
   あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
   此道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮
と詠んだ。芭蕉にとって命とは、燃え盛るものであるとともに、沈潜するものであったようだ。芭蕉の「命」には西行の「命」が受け継がれているように思われる。漂泊者の命を思慕していたのであろう。
 僕らは誰だって漂泊者という命運を逃れ得ない。そのことを自覚するか否かは別の問題なのだが。あるいは自覚する時期がいつなのかは別の問題なのだが。

   命恋うささやかなるに春をまち (理方)
なんちゃって。

JR福知山線脱線事故 伊丹で追悼イベント

2011年02月21日 | Weblog

(新聞より)
 乗客106人が犠牲になったJR福知山線脱線事故が発生から6年を迎えるのを前に、兵庫県伊丹市中央の三軒寺前広場で20日、約千本のキャンドルを灯す犠牲者の追悼イベントが開かれた。
 大学入学直後の通学中に先頭車両で事故に遭い、両脚に重傷を負った伊丹市職員、山下亮輔さん(24)らでつくるグループ「灯人(ともしび)」が企画。犠牲者の遺族、負傷者、支援者らが交流の輪を広げるため、昨年に続いて行われた。
 会場では吹奏楽の演奏が流れる中、参加者がキャンドルで直径約10メートルの円を描いた。円の中には事故発生日である「2005 4・25」の文字が浮かび上がり、参加者たちはゆらめくろうそくの炎を見つめながら犠牲者をしのんだ。
 事故で長女を亡くした奥村恒夫さん(63)=兵庫県三田市=は「娘が生まれてから亡くなるまでの様子が走馬燈のようにめぐった。毎年各地でこのような催しを続けてほしい」と話していた。

(僕がこの事故というか事件に関心を寄せているのは、友人になるはずだった若者をこの事件で永久に失ったからであると同時に、JR西という大企業の体質の悪弊が一向に治らないからである。)

「死」 宮崎学写真集(再掲)

2011年02月20日 | Weblog

 この写真集に出会ったのは二十年ほど前である。一種の驚きを覚えた。今でも時々観る。自然死した鹿や狸、カモシカなどの動物の腐敗していく様子を撮った、他に例を見ない写真集である。
 僕らは死を単なる物質的な終息と考えがちである。「しかし」と宮崎さんは言う。
 「私が撮影した自然の死は、新たな生命に引き継がれていた。自然の死によって生命は終焉するものではなく、連続するものであるということを、私は自然から学んだ。(註:死体は生き物によって受け継がれる。)
 私たち日本人は、古来、死後は「その霊が家の裏山のような小高い山や森に昇る」と信じてきた。しかも、「山に昇った荒魂は時の経過とともに清められた祖霊となり、やがてカミの地位にまで上昇していく。そしてそれらのカミが里に降りてくるときには、田の神や歳の神としてあがめられ、またいつしか氏神や鎮守の神として祭られるようになった。日本人がこのように考えてきたほうが、私が自然の死を見てきたかぎり、無理のないことのように思える。」
 
 写真をじっと観て、宮崎さんの文を読んでいると、どう言えばいいのか、何かしら郷愁を覚える。

執心、妄心

2011年02月19日 | Weblog

 時々、日本の名文を読み返すことがある。その一つ、鴨長明『方丈記』の末尾から引く。

 「・・・一期月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何の業をかかこたんとする。仏の教え給うおもむきは、事に触れて、執心なかれとなり。・・・しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。・・・もしこれ、貧賤の報のみずから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。その時、心、さらに答ふる事なし。」

 高貴の身を捨て、世俗を去り、山中に六畳ぐらいの草庵で暮らせば、現世でのしこりを忘れ、木々のざわめき、小鳥の声、虫たちの戯れなど、時には読書など、誰からも干渉されることなく、気ままに生を楽しみ営むことができる。しかし長明は心静かに安楽としておれなかった。「執心なかれ」と思っても、妄心に至る。仏の教えを求むるも、達っせざる自らの「心は濁りに染め」る。これが、我が心が「よどみに浮かぶうたかた」であるという事実なのかもしれない。
 事実なのかもしれない。事実なのだ。

春の友達

2011年02月18日 | Weblog

一仕事終えて
部屋で ボーとしていた
ノックの音がして
屋久島で十年暮らした
という人が 一人入ってきて
ボーとしているのですね
と訊ねるので
はい ボーとしています
と応えると
ボーとしているのは
怖くないですか
と訊ねるので
はい 怖くないです
と応えると
わたしもボーとさせてください
と言うので
はい どうぞ
と 肯く
二人して ただボーとしていた

どれぐらい時間がたったろうか
いつの間にか
彼は居なくなっていた

このことが夢であったのかどうか
わからない
ただボーとしていたので

(僕のボー病が始まりました。)

運命の不意打ち

2011年02月17日 | Weblog

(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
 「運に導かれて次第に昇進したのでもなく、またあの手この手を使って出世したのでもなく、運命の不意打ちをくらっていきなり高い地位を与えられた時は、その地位を立派に保ち、それにふさわしく見せることは殆ど不可能である。」

 幸運にも僕は「運命の不意打ち」をくらったことはない。「あの手この手を使って出世したのでも」ない。したがって、守る地位もない。
 運命の不意打ちをくらったと多分言えるのは、脳梗塞になったこと(後遺症なく治癒済み)と、呆さんに出会ったこと(後遺症?経験中)ぐらいだと思う。しかしながら、これらの出会いは地位を守るという性格のものではない。良い経験を与えられに過ぎない。過ぎないと言えば、失礼かな?失礼だと思われても、どうっていうことはない。どうっていうことはないと言えば、失礼かな?たぶん失礼には当たらないだろうっとたかをくくっている僕はバカなのかな?

 もうひとつ。
 「頭のいいバカほどはた迷惑なバカはいない。」

 バカと言われるほど、僕は頭がいい訳ではない。うん。確かに。しかし、もう少し・・・。

 マグマ噴火がまだ続くと言われる運命の不意打ちに遭われた新燃岳周辺の被災者の方々に衷心よりお見舞い申し上げます。

(今日はちょっと遠出して来ます。)

野焼き

2011年02月16日 | Weblog

   古き世の火の色うごく野焼きかな    飯田蛇笏
 
 草薙の剣の伝説など、古事記や風土記にも載っているほどで、昔から野焼きは行われてきた。三週間ほど前の奈良の若草山の山焼きも野焼きの一種だろう。日本各地でというか世界各地で行われている野焼きで最も規模が大きいものの一つは、阿蘇の野焼きだろう。一度見てみたい。野焼きによってダニなど人畜に有害な虫を駆除するとともに、牛馬の餌の草が育つ。野焼きをやめると木が生い茂り草原はなくなるとのこと。草原の美しさは野焼きによって保たれているのである。
 さて、上の句。野を焼く火の一面に燃えるのを見ていると、まさに古い火の色だと作者は感じた。野をなめるように這っていき、時にはくすぶり、時には烈しく焔をあげる野焼きの火。これは、古い祖先の人々、古代人が見た火の色と同じだと作者は思う。古い時代の野焼きにまつわる諸々の伝説や歴史、野焼きの詩歌を踏まえて「古き世の」と詠い出す。「火の色うごく」は火の強いところ、弱いところ、その濃淡を表す。そして「野焼きかな」で結んだのは作者の感動がこめられているのだろう。
 近頃は野焼きが少なくなったように思われる。その分、草原の美しさが減った。

感じの良さ

2011年02月15日 | Weblog

 『ラ・ロシュフコー箴言集』より
 美しさとは別個の、感じのよさなるものについて語るとすれば、それはわれわれの知らない法則にかなったある調和である。顔立ち全体の、そして顔立ちと色つや、さらにはその人の風情とのあいだにある、ひとつのえも知れぬ釣り合いである、と言うことができるであろう。

 これは言い得て妙である。冬彦さんも呆さんもパンダさんも忠さんも、こう言うのは僭越ではあるが、まことに感じがよい。何故感じがよいのか、その理由は上記の通りである。一見したところ、お顔だけを見れば美しいとも感じがよいとも言えぬかも知れない。だが、それぞれのお顔とそれぞれの風情とのあいだには、「えも知れぬ釣り合い」が看取される。「えも知れぬ」である。まことに「えも知れぬ」である。
 人物の感じのよさというものは、言葉では表すことができない。言葉で表すことができて、「さもありなん」と言えば、感じがよいとは言えないだろう。
 知り合いを思い出すと、「えも知れぬ」人物と「さもありなん」人物が居られる。テレビでたびたび見る首相や政治家連中は「さもありなん」人物になってきた。

今頃がイチゴの品評会の時期なんだ!

2011年02月14日 | Weblog


(新聞より)
 あすかルビーや章姫(あきひめ)など県産イチゴの品評会が、奈良市大森町の県農業協同組合であった。ハウスイチゴの出荷がピークを迎えるこの時期に毎年開かれており、今年は県内192の農家から338パックが出品された。
 審査にあたった県農業総合センターの野菜指導係長によると、現在出荷されているイチゴは12月の気温が高かったため、酸味が少し強め。寒さが増してくる1月下旬から甘みが増したといい、「さらにおいしくなるのはこれからです」とPRしていた。
 
(イチゴの品評会が今頃あるとは知らなかった。栽培技術の発展のお陰で年中入手できるイチゴなんだけれど冬のイチゴが美味しいらしい。奈良県はいろんな果物が良く出来るところ。ところがスイカなど、奈良市内のスーパーなどでまず売っているところはない。他府県に流通されるらしい。イチゴについても同様。地産地消が本来の姿だと言うのに。)

エジプト革命

2011年02月13日 | Weblog

(あれあれと思っている間に。朝刊より)
 若者たちが立ち上がり、それに市民が合流した。30年続いた強権支配は18日間で崩れた。前夜に演説し、辞任を否定した。ところが翌日、副大統領から退陣を発表されることになった。
 100万人の市民が連日、カイロのタハリール広場に集まって「大統領の辞任」を求めた。デモが全国に広がってはもつはずもない。20世紀末の東欧を思い起こさせる民衆革命である。
 強権支配の下で言論の自由はなく、政府批判には秘密警察が目を光らせていた。政府に腐敗が広がり、若者たちは、有力者のコネがなければ就職もできない。(24歳以下の若者の失業率は50%以上。)
  若者たちの希望を奪ってきた体制だった。それだけに、大統領辞任に歓喜するエジプト国民の思いは世界に伝わった。しかし、辞任させて終わりではない。大変なのはこれからである。
 軍が全権を握ることになった。民政への移行が火急の課題となる。民主国家として生まれ変わるために、憲法の改定と総選挙が必要だ。新しい政府では、軍が政治に介入したり、軍人が大統領や閣僚になったりするこれまでの仕組みを、改めなければならない。
 国民の間に、自由と民主主義を浸透させる作業が必要だ。選挙ひとつとっても、これまではテレビは与党の選挙運動だけを放送し、野党の選挙運動に様々な制約が課された。金権選挙が横行し、議会の圧倒的多数を与党が占める一党独裁体制が続いた。
 カイロには、アラブ連盟の本部がある。エジプトはアラブ世界の調整役であり、中東和平の仲介でも重要な役割を担う。エジプトの民主化の達成に国際社会が支援すれば、アラブ諸国や中東にとってもモデルになる。
 チュニジアで1月に始まった民主化の動きは1カ月でエジプトに及んだ。強権支配が横行する中東で、この動きは止めることができない。