自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

スイスという国

2007年08月31日 | Weblog
 今回6泊してスイスを訪れる機会があり、旅行の前にスイス事情を少し調べておいた。面積は九州ほど、人口は福岡県ほど。精密機械工業、銀行業、乳製品加工業などで豊かな国だそうだ。おまけに世界一と言えるほどの観光立国でお金が落ちる。
 EUには属さず、独自の永世中立を守っている。それだけに伝統的に国民皆兵制をとっている。国民には自衛のための訓練を受ける義務がある。若い時は年に一ヶ月以上、50代になっても一週間以上は毎年この義務を守らなければならない。軍隊の経験を持っているから、礼儀正しいと言えるかも知れない。また、体力のある人も多く、冬のオリンピックでは大活躍。冬だけではなく、ヨットのアメリカズカップでも優勝経験が何度かある。海がないのに。骨髄のガンで早世したアンディ・フグという格闘家も有名だ。
 ただ、気になったのは、軍需産業も幅を利かせ、小型兵器を輸出しているということだ。これはする必要がないのではないか。
 日本もスイスの良いところを見習って、永世中立国になれないものだろうか。

このところスポーツの世界で。

2007年08月23日 | Weblog
 このところスポーツの世界でフトドキなと思われることが連続して生じている。
 昨日の高校野球の優勝戦を観た。が、肝心なところを観なかった。4対0で迎えた8回、佐賀北が怒涛の反撃で逆転し、全国制覇を達成した。僕が観そこねた、その8回の攻防を巡って、広陵の監督が審判のストライク・ボールの判定を非難したという。野球を多少とも知っている僕からすると、アマチュア野球でストライク・ボールの判定に監督が公に異を唱えるのは異例である。後ちょっとのところで優勝できたのにとの強い思いが審判批判へと向かわせたのであろう。しかし、これは明らかに勇み足である。その監督の下で練習しプレイした選手たちも、監督の口攻撃を良しとは思っていないはずだ。準優勝に水を差す行為であることは間違いのないところである。物言えば唇寒し、というところであろう。
 横綱の朝青龍の行動を巡って角界が揺れている。怪我を理由に巡業を断ってモンゴルに帰省した彼の行為が怪我をしているとは到底思われない事から端を発した横綱に対する強い批判である。巡業は本場所と同程度に重要な任務である。この問題で様々な批判があちこちから出ているようだが、肝心の朝青龍がウントモスントモ言わない事が問題をややこしくしている。プロなら、正々堂々と自己主張すべきだ。物言えば腹ふくるる、とでも思っているのであろうか。
 メジャーリーグでホームラン記録を更新したバリー・ボンズの薬物疑惑も気になるところだ。もし真実だとすれば、歴史的記録に水を差す事、間違いのないところである。物言えば選手生命にキズがつくと思っているに違いない。

ラ・ロシュフコー『箴言集』より

2007年08月22日 | Weblog
 友達が私を欺いたときは、彼らが示す友情には無感動を返せばよいが、彼らの不幸にはやはり痛みを感じるべきである。

 友達が私を欺いたときは、欺かれるだけの理由が私の側にもあるのであろうが、あまりに執拗な詭計を案出する輩には為す術がなく、忍耐力が試される。詭計に対抗する正攻法はないのだから。歴史は詭計に満ちている。

(僕は、あまりに執拗な詭計を体験したことがある。確かに、詭計に対処する正攻法がないことを実感した。)

正しいことを行え!

2007年08月21日 | Weblog
ゲーテ『箴言と省察』より

行動する人間にとって
肝要なことは、
正しいことを
行うことだ。
現実に世の中で
正しいことが、
行われているか否かは、
問題ではない。

(たとえ現実の世の中で正しくない行動・行為が大手を振っていようとも、不正な行動・行為に断じて与してはならない、とゲーテは言う。偉大なる巨人の言葉。偉大に過ぎる言葉だと僕が思うのは僕が弱虫だからだろう。)

読めない文字があるものだ。

2007年08月19日 | Weblog
   あかあかと日は難面も秋の風   芭蕉

 「難面も」、これ何と読むと思われますか。この句をご存知の方にとっては問題になりませんが、僕は読めませんでした。
 「つれなくも」と読むそうです。
 立秋は過ぎたというのに、それを知らぬげに旅行く自分を夕日が照りつける。でも、さすがに吹く風には秋の気配を感じるという句意。「つれない」は、おかまいなく、容赦なくといった意味だが、この表現で夕日が芭蕉の顔に強く照りつける様子が強調されていると解釈される。長途の旅愁を惻々と伝えている。
 野分の後には、待ちに待った秋が来るのだろうか。それとも、まだまだ残暑が続くのだろうか。

イタセンバラ

2007年08月18日 | Weblog
(新聞記事より)
 大阪府内の淀川に生息している国の天然記念物の淡水魚、イタセンバラ(コイ科)が絶滅の危機に瀕していることが府の調査で分かった。イタセンバラは日本の固有種で、成長すると体長8~10センチになる。現在、大阪府内の淀川や京都府の木津川、富山県の仏生寺川など国内の一部にしか生息していない。74年に国の天然記念物に指定され、91年には環境庁が絶滅危惧種に登録した。
 大阪府が昨年7~9月に淀川の145地点で採取・調査したところ、93年の前回調査で155匹いたイタセンバラが6匹しか発見できなかった。前々回の84年調査では1369匹見つかっており、20年間で99%以上も数が減ったことになる。
 原因は、水流が緩やかになったことでオオクチバスやブルーギルなどの外来魚が急増し、彼らによって食べられたことが挙げられるが、水流が緩やかになったのは、淀川下流部に大堰が完成したことに因ると考えられている。
 対策を急がないとイタセンバラは本当に幻の魚になる。

 固有種が激減するということはどういうことだろうか。言うまでもなく、棲みにくい環境が出現したということである。棲みにくい環境は、大堰を作って経済成長を優先させる人間の仕業である。イタセンバラが棲みにくい環境は人間も棲みにくい環境だということを知らねばならないと思う。

ゲーテ『ファウスト』より

2007年08月17日 | Weblog
「私は、ただ遊んでばかりいるには、歳をとり過ぎているし、
 あらゆる希望を捨てるには若過ぎる。」

これは『ファウスト』第一部「書斎の場」で、主人公が塞いでいるのを見て、塞ぎの虫を追いはらってみせようと、悪魔のメフィストーフェレスが、金の縁取りをした赤い服、絹のマント、鳥の羽をさした帽子という派手な出で立ちで訪れたのに対して、ファウストが言い放った台詞である。
如何に若くても遊びほうけるのは愚かだし、どんなに歳をとっても希望を捨てては、生きる証がない。たとえ小さな小さな希望であっても、それに向かって一所懸命生きることだ。

「智に働けば角が立つ」

2007年08月16日 | Weblog
今日は今夏一番の猛暑で仕事が捗らないまま、手を伸ばして『草枕』をとって、斜め読みした。

 「山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ、画が出来る。」

漱石の言わんとするところは、人の世で生きるためには、「智に働くな、情に棹さすな、意地を通すな」という精神論ではない。人は必ず智に働き、情に棹さし、意地を通すものだから住みにくい、だからといってどこへ行っても同じだ、ならば、安堵や喜びという精神的安定を得るために、詩や絵という芸術に親しむようにすればいい、と彼は言いたかったのだ。

彼の言うところは智では分かるが、行うは難し、である。

老い―――その一つの姿

2007年08月15日 | Weblog
 かつて読んだことのあるヘミングウェー『老人と海』を思い出して、老いについて考えた。主人公の孤独がまず挙げられる。仮に家族や友人がいても、孤独を深めざるを得ないのが老境というものであろう。家族も身寄りもない主人公の設定は老人の孤独を際立たせている。しかもこの主人公の老人は不運にとりつかれ、漁に出てもさっぱり獲物にありつけない。飲み屋に出かけても、からかわれるだけである。だが、この老人はレッキとした現役の漁師だ。不運続きで、あるいは腕も鈍りかけているにも拘わらず、敢然と毎日の出漁をやめない。これは少しカッコよすぎる老年像かもしれないが、彼の負けん気の強さは、老いの一つの姿だと思う。
 しかし、老人は結局は敗れる。大マカジキとの3日間にわたる力闘、苦闘の末、相手をしとめたものの、鮫の群れに獲物を散々食い荒らされてしまう。老人は所詮敗れ去るものなのだ。だが、敗れ去った後、老人は不思議な安堵を覚える。『老人と海』の老人は、孤独の中に居ながらも、死力を尽くし敗れた後、安らかに苦闘を回顧する。おそらく、ヘミングウェー自身を主人公に重ねているのだと思う。
 若者には分からない孤独と負けん気の強さと不思議な安堵感とが、老いの一つの姿なのかもしれない。僕にはまだ実感できないが。

砂糖と塩と水

2007年08月14日 | Weblog
 発展途上国では今なお下痢が子供の最大の死因であり、毎年、下痢の脱水症で350万、下痢性の病気で150万、合わせて500万の子供が亡くなっているとみられている。
 下痢を起こした子供に適量の糖分と塩分を水に溶かした溶液を与えるだけの簡単な経口補水療法が注目され始めたのは、1980年代に入ってからのことだった。1983年のエジプトでの全国的な成功を皮切りに、次々とこの療法が85以上の発展途上国で採用されるようななった。
 経口補水療法の効果についてエジプトの医師会長はかつて「私は発展途上国での35年間の小児科医としての経験から、この療法よりも大きな医学の進歩を見たことがない」と語った。
 先進国では医療機器の発達にともなって、医療費が急騰する一方だが、経口補水塩は一袋10円程度だから、いかに安い費用で高い効果があがっているかが分かる。
 医療の進歩は良いことであるに違いないのだが、その進歩のお陰によくさない国々も多く、人間が生きていく上での最低限以上の医療がもっと工夫される必要があると思う。

人間の欠点

2007年08月13日 | Weblog
(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
 「どうやら人間は、自分には欠点が充分にないと思うらしい。わざと幾つもの変な性質をこれ見よがしに装って、欠点の数をふやしている。そしてそれを実に大切に育てるから、しまいには生まれつきの欠点のようになって、自分の力では治せなくなるのである。」

 どうやらこの文に当てはまる人物が居るようだ。自ら「変人」を名乗り、いろんなパフォーマンスでその変人ぶりをこれ見よがしに振り撒き、もはや自分では治せなくなっているようだ。ここでは前首相を念頭においているのであり、断じて呆さん改め賢さんを念頭においているのではない。

 「人間は案外よく自分の過ちを知っているものだ、ということがわかるのは、彼が自分の行いについて話すのを聞いていると、彼自身は決して悪くないことになっているからである。」

 確かに彼自身は決して悪くないことになっていると思っているらしい。これは現首相にそっくりそのまま当てはまる。

記憶の断片

2007年08月12日 | Weblog
 「カタルーニャの小鳥はピース、ピースと鳴きます」と言って、国連総会の場で「鳥の歌」を弾いたパブロ・カザルスの姿とチェロの音を突然思い出した。突然としか言いようがない。二十年ぐらい前だったか、もっと前だったか、偶然テレビに映し出された、今は亡きカザルスの姿がはっきり見える。ついでに言うと、この「鳥の歌」を好戦的な人はじっくり聴くのが良いと思う。残念ながら、その映像を記録したビデオを持っていないのだが、探して買うことにしよう。

表記の仕方次第で。

2007年08月11日 | Weblog
今日、友人の病気見舞いでJRに乗ったが、その列車内に次のような英文表記がある事に気がついた。

These seats are reserved for passengers with special needs,including the elderly, the physically challenged, expectant mothers, and passengers carrying infants.

かつてシルバーシートと、変な和製英語で呼ばれていた席の英文表記による説明である。この表記の中で特に、the physically challenged という言葉に注目されたい。意を汲んで訳すと、身体に障害をもちながらも(何事かに)挑戦している人、の意である。通常は身体障害者と言われる。身体障害者のことを英語でthe disabled と言われる場合が多かったと思う。僕はこの英語表記に不都合を感じていた。解釈次第では、無能力者の意味にもなる。身体障害者は断じて無能力者ではない。the physically challenged という表記が適切だと思う。最近のことであるが、身体障害者も納税者に!という考えが日本でも出てきた。身体障害者も仕事を身につけ、所得者になろう、という考えである。僕はこの考えが普及する事を望んでいる。仕事という場合、パソコンが道具となる場合が多い。身体障害者のためのパソコンの改良も進んでいる。
表記の仕方次第で、与える意味合いが随分と異なるのだ。

良寛さん

2007年08月10日 | Weblog
 今日は猛暑のせいもあって一日ボーとしておりました。例によって、そこいらにある本を斜め読みしておりました。中に、良寛さんについて記したところに目が行きました。良寛さんは子供の頃から名主の昼行灯と言われ、阿呆のように見られていたそうです。その阿呆の意味が良寛さんの場合、世間の人々が言う意味とは違うらしい。世間では、世間に通用しない者を阿呆と言い、通用する者を利口と言う。良寛さんにとっては世間から阿呆呼ばわりされることを寧ろ是認する気こそあれ、利口者などと言われると有り難くなかったそうです。詩がひとつ引用してありました。
  余が郷に兄弟あり
  兄弟心各々殊なり
  一人は弁にして聰
  一人は訥にして且つ愚なり
  我れ其の愚なるものを見るに
  生涯余り有るが如し
  復其の聰なるものを見るに
  到るところ亡命して趨る

 この詩を読んでも、愚なるもの、阿呆には悠々たる余裕があると良寛さんは言っています。利口なるものについては推して測ることができます。良寛さんの言う意味で、阿呆はめったに居るものではないと思いつつ、僕のあさはかさを知らされました。もの言うは唇寒しです。

七月十一日のお遊びの答えです~。

2007年08月09日 | Weblog
 ●一富士二鷹三茄子(縁起のよい夢(主に正月に見る初夢)を並べて言う言葉。駿河の国の諺で、一説に駿河の名物を言うとも。茄子は駿河(静岡)の名物だったのか?存じませんでした。)
 ●四苦八苦(四苦は通常、生老病死。この四苦に愛別離苦(愛する人ともいつかは離別せざるをえない)、怨憎会苦(イヤなヤツとも嫌いな人とも会わねばならない)、求不得苦(欲しいものが得られない)、五陰情苦(本能的な欲が過ぎて自制が利かない)が加わる。例えば、読書に四苦八苦すると普段言うが、本来の意味は仏教の言葉だそうだ。)
 ●百日の説法屁一つ(百日間のおごそかな説法も、説法者のもらした屁一つで台無しになる。長い間の苦心が僅かなしくじりでぶちこわしになること。思うに、ぶちこわしになったとしても長期の苦心は将来の為になる。)
 ●一知半解(なまかじり。半可通。)
 ●千慮の一失(賢い人でも思いがけない失敗をするということ。)
 ●森羅万象(宇宙に存在する、ありとあらゆる事象のこと。何故、森羅と言うのかは、分かりません。)
 ●千篇一律(多くの詩がすべて同じ調子で作られていること。転じて、どれをとっても同じようで面白みがないこと。)
 ●千万人と雖も吾行かん(自分が信じることの為には千万人の敵がいようとも突き進む。猪突猛進とは意味が異なる。僕は猪突猛進の方に近い。)
 ●万機公論に決すべし(「五箇条の御誓文」第一条の後半部の言葉。国家の政治は世論に従って決定せよ。)
                                                 (お粗末でした。)