自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

大岡昇平 『 野火 』( 初版1954年 )

2016年02月10日 | Weblog

なぜ私は食人をしなかったのか
飢餓で死ぬに極った臨界状況で
「俺の肉を喰ってもいいぞ」と
言い残して逝った見知らぬ友兵
私は右手で
彼のやわらかい肉をさわった
食べる意図を自ら感じた

ジャングルの奥深い木々がざわめいた

私の左手が右手を捉まえ
止せ と
言った 弱々しい声だった
しかし至上命令のように響いた

私は敵兵に捉まってもいい
とにかく水が欲しい 水を渇望して
捉まるのを覚悟の上で草叢を
川を目指して歩いた
途中 肉片のない人体があった
水にありついた

あの至上命令を下した左手は何だったのか
人智を超えた何者か・・・
それは道徳といったものではない
左手に神が宿ったのか という考えに
一瞬とらわれた 宿ったかもしれない 
だが脳にまで達しない神だった
敗残兵として生き残った私にわからぬ
正体不明の畏怖すべき何者かだった

ジャングルの道なき草叢を逃避しながら
疲れきっている私は疑問に思った
自分が生きられるという感じは
何処に由来するのか と

私には知識があるという自負があった
だが知識は役に立たなかった

陥落した兵舎から水を求めて
山を下る途中
木の根を枕に 喉の渇きにうなされながら
不覚にも眠ってしまった

たぶん夢の続きであったろう
或る考えが浮揚した

生きられるという感じは
生きてきた現在までの行為を
明日もまた続けられるであろう という
不定な見込みに由来する と

そう 不定なのだ
すべては不定なのだ

私の疑問は儚くも氷解した
だが自分の考えだけが堅牢無比であると
戦争の真っ只中でも
平和を気取っている今日でも私は確信した

コメントを投稿