BUCK CLAYTON JAM SESSION VOL.2
ジャズクラブでのライブでのジャムセッション。そして自宅で仲間との自然発生的なコラボレーションプレー。大きなコンサート会場での顔見世セッション。
同じジャムセッションでも色々な顔がある。
Concordレーベルが西海岸で本格的に活動をスタートしたのが'74年。この同じ年に、東海岸のNew Yorkで面白いJAM SESSIONが企画された。
首謀者はBuck Clayton。そして、Hank O’Neal。
Buck Clayton は、30年代のベイシーオーケストラに参加したトランペッターで有名だが、50年代にコロンビアレーベルにたくさんのJam Sessionアルバムを企画して録音している。
月日が経って古き良きJAZZをもう一蘇らせたいという願いは、同じ想いで”CHIAROSCURO“を立ち上げた、創始者Hank O’Nealと意気投合してジャムセッションの企画を再現した。
この“CHIAROSCURO”は、東海岸のConcordレーベル的な存在であった。
もともとの意味はイタリア語で「明暗」。
美術の世界では、「漸進的諧調により三次元性を表す明暗効果、ないし技法としての明暗法。」ということらしいが、あいにくこの世界は知識がない。
このレーベルが命名されたのは、Hank O’Nealの師匠でもある、Eddie Condonが、昔“CHIAROSCURO concert”なるものを企画していたのに由来しているそうだ。
Concordが大メジャーレベルになってしまったが、“CHIAROSCURO”はマイナーレーベルで今もまだ存在している。
設立当初はお金もなく、ピアノトリオの演奏などを中心に細々スタートしたが、’74年にちょっとした印税が入って少しお金をかけたアルバムづくりができるようになった。
そこで、10人近くのメンバーを集めたジャムセッションを企画した。
そして翌年また小切手を受取った時に、また新たなジャムセッションの企画を行うことになった。方針が決まってから、メンバーが決まるまではたいして時間は掛からなかったそうだ。
取りまとめ役のBuck Clayton と、George Massoの選んだメンバーは実に多士済々。
JATPのジャムセッションとはまた違った渋い人選だ。
ドラムが最後まで決まらなかったらしいがGeorgeが助け舟を出して、選ばれたのは「Mel Lewis」だった。ちょうど、'74のサドメルの日本公演を終えた翌年のことである。
サドメルもまだ全盛期。その合間を縫ってLewisはこんな企画にも参加していた。
いずれにしても、レギュラーコンボや通常のレコーディングでは想像できない面々が集まって、2回目のジャムセッションが行われた。
クレイトンが簡単なアレンジを提供したが、簡単なリハーサルで一発勝負の録音。
一日で録音は完了した。この手の録音は一日で片付けないと、2日目になるとなんとなくこなれてしまって、ジャムセッションの「興奮」が少なくなってしまうそうだ。
そのための段取りも重要らしいが、Claytonは無難にこなしたとか。
世の中Fusion旋風が吹き荒れていた時、New Yorkの片隅でこんなセッションも行われていた。
SIDEKICK
CHANGE FOR A BUCK
THE DUKE
Joe Newman (tp)
Money Johnson (tp)
Vic Dickenson (tb)
George Masso (tb)
Buddy Tate (ts)
Budd Johnson (ts)
Sal Nistico (ts)
Earle Warren (as)
Lee Konitz (as)
Tommy Flanagan (p)
Milt Hinton (b)
Mel Lewis (ds)
Recorded June 6 ,1975
ジャズクラブでのライブでのジャムセッション。そして自宅で仲間との自然発生的なコラボレーションプレー。大きなコンサート会場での顔見世セッション。
同じジャムセッションでも色々な顔がある。
Concordレーベルが西海岸で本格的に活動をスタートしたのが'74年。この同じ年に、東海岸のNew Yorkで面白いJAM SESSIONが企画された。
首謀者はBuck Clayton。そして、Hank O’Neal。
Buck Clayton は、30年代のベイシーオーケストラに参加したトランペッターで有名だが、50年代にコロンビアレーベルにたくさんのJam Sessionアルバムを企画して録音している。
月日が経って古き良きJAZZをもう一蘇らせたいという願いは、同じ想いで”CHIAROSCURO“を立ち上げた、創始者Hank O’Nealと意気投合してジャムセッションの企画を再現した。
この“CHIAROSCURO”は、東海岸のConcordレーベル的な存在であった。
もともとの意味はイタリア語で「明暗」。
美術の世界では、「漸進的諧調により三次元性を表す明暗効果、ないし技法としての明暗法。」ということらしいが、あいにくこの世界は知識がない。
このレーベルが命名されたのは、Hank O’Nealの師匠でもある、Eddie Condonが、昔“CHIAROSCURO concert”なるものを企画していたのに由来しているそうだ。
Concordが大メジャーレベルになってしまったが、“CHIAROSCURO”はマイナーレーベルで今もまだ存在している。
設立当初はお金もなく、ピアノトリオの演奏などを中心に細々スタートしたが、’74年にちょっとした印税が入って少しお金をかけたアルバムづくりができるようになった。
そこで、10人近くのメンバーを集めたジャムセッションを企画した。
そして翌年また小切手を受取った時に、また新たなジャムセッションの企画を行うことになった。方針が決まってから、メンバーが決まるまではたいして時間は掛からなかったそうだ。
取りまとめ役のBuck Clayton と、George Massoの選んだメンバーは実に多士済々。
JATPのジャムセッションとはまた違った渋い人選だ。
ドラムが最後まで決まらなかったらしいがGeorgeが助け舟を出して、選ばれたのは「Mel Lewis」だった。ちょうど、'74のサドメルの日本公演を終えた翌年のことである。
サドメルもまだ全盛期。その合間を縫ってLewisはこんな企画にも参加していた。
いずれにしても、レギュラーコンボや通常のレコーディングでは想像できない面々が集まって、2回目のジャムセッションが行われた。
クレイトンが簡単なアレンジを提供したが、簡単なリハーサルで一発勝負の録音。
一日で録音は完了した。この手の録音は一日で片付けないと、2日目になるとなんとなくこなれてしまって、ジャムセッションの「興奮」が少なくなってしまうそうだ。
そのための段取りも重要らしいが、Claytonは無難にこなしたとか。
世の中Fusion旋風が吹き荒れていた時、New Yorkの片隅でこんなセッションも行われていた。
SIDEKICK
CHANGE FOR A BUCK
THE DUKE
Joe Newman (tp)
Money Johnson (tp)
Vic Dickenson (tb)
George Masso (tb)
Buddy Tate (ts)
Budd Johnson (ts)
Sal Nistico (ts)
Earle Warren (as)
Lee Konitz (as)
Tommy Flanagan (p)
Milt Hinton (b)
Mel Lewis (ds)
Recorded June 6 ,1975